第3話 夢十夜

夢幻怪獣 インクラー 登場

1.雲は語らず

 扇風機が回っている。

 大正年間に建てられた擬洋風建築の校舎が、決して晴れない空の隙間から悪あがきのように差した日差しを浴びている。白い漆喰の壁面は、夏涼しく冬暖かいのが利点である。それでも、暑いものは暑い。涼しい顔をしているのは、北條のご令嬢たる北條ほうじょう撫子なでしこくらいのものだった。

 上野中央女学校。夏休みを前に教鞭を執る教師らの舌鋒も鋭くなる季節。宇宙の友が帝都を満たし、あまりにも違うものに触れすぎたがために、男は稼ぎ女は家を守るものという区割りが崩れて久しい世間なれど、将来善き母・善き妻たるために学べという女学校の理念は変わらない。むしろそれに加えて、星に負けじと自立せよという目標まで課せられた少女たちの細腕は休む時を知らないのである。

 かくして、「わたしは職業婦人なのです」という早坂はやさかあかりの主張は、ここでは言い訳でしかない。そしていかなる異星の言語をも解きほぐす異星言語翻訳師リンガフランカーの技能をもってしても、解けない結び目が今、あかりの前に巨大な壁として立ちはだかっていた。

 家政の授業である。

 繕いもののひとつくらい難なくこなせなければならない、という理屈はわかる。だがなぜスカートをひとつ丸ごと縫えなければならないのかがわからない。蒸奇ミシンを使ってはならないのも理不尽である。

 そう言ってやると、隣の席の田村たむらけいは「まあまあ」と宥める。

「それにしたって下手っぴだと思うけどねえ、あかりちゃんは」

 応じる景の手元では、スカートの裾に見事な刺繍が縫い込まれている。一方のあかりは不揃いな縫い目から目を背けるのが精一杯だった。

「いっそ整列してくださいってお願いした方が早いかも」

「お願いしたって縫い目は揃わんっしょ……」

「それが揃うかもしれないのだよ。形は命であるからにして……」

 そこでひっつめ髪の女教諭に私語を窘められ、あかりは首をすくめてスカートに向き合う。

 形とは命である。

 形あるものには何らかの幾何生命が宿っており、彼らとは対話が可能である。ならば、ちょいと綺麗な縫い目になってくださいな、とお願いすれば、必死に縫わずともスカートのひとつやふたつ作れるのではないか。そして持てる技能を存分に使って面倒を避けるのは、決して悪いことではない。少なくとも伊瀬いせ新九郎しんくろうならば駄目とは言わない。

 午前中でも日曜日でもないのだから、さすがに今は仕事に精を出しているはずの貧乏探偵のことを思い出しつつ、胸元に隠した多面体ヘドロン飾りを簡着物の上から掴む。そして眉間に皺を寄せた、その時だった。

 静かだった教室にざわめきが広がっていた。

 些細な私語も許さない女教諭が生徒たちを黙らせようとするも、やがて彼女の嗜める声も消える。

 全員が窓の向こうの空を見ていた。半数ほどは授業中にもかかわらず席を立ち、窓際に集まっている。何人かは針を持ったままであり、危険極まりない。

「あかりちゃん。何、あの雲」と景が言った。

 彼女の言葉の通り、それは雲だった。

 雲。この街で最もありふれたもののひとつ。だが、その雲は深い紫色をしていた。内部には絶えず稲光が走り、そして常に蠢いていている。あれは本当に雲なのか。雲というのは、じっと見ていてようやくわかるほどの速度でしか動かない。にもかかわらず、まるで雲自体がひとつの生き物であるかのように、動く。見上げていると、それが気体というより液体か何かのように見えてくる。雲は水蒸気の集まりと学校で習った。だがかの紫の雲は、とても水蒸気には見えない。やはりこの街ではありふれている蒸奇オルゴンの翠緑色とも異なる。

 唖然として見上げていると、傍らに北條撫子が近づいてきて言った。

「早坂さん。早引けした方がよろしいのではなくて?」

「早引け?」

「ええ。伊瀬のおじさまにお知らせしないと」

 毎日が奇々怪々な街に、とりわけ奇怪な何かが現れたなら。

 それは多くの場合、蒸奇探偵・伊瀬新九郎の領分だ。

 あかりは席に戻り、荷物をまとめて挙手した。

「先生すみません、今日は失礼します」

「早坂さん? 席に着きなさい。先生方の指示を……」

「仕事です」とあかりは胸を張った。「街の危機なら、わたしの仕事です」


 上野駅から、浅草側へ通り数本隔てた工房街。化石燃料で動く車やオートバイを取り扱うガレージが並ぶその一角の、一際修復痕や割れ窓が目立つ二階建ての事務所。あちこち焦げた看板には『エフ・アンド・エフ警備保障』と書かれている。

 その室内には、ごく普通の書類に並んで、オルゴン用の濾過器や配管部品が並んでいる。そして皿に異彩を放つのは、刀と銃の手入れ用具一式だ。打ち粉、オイル、清掃用の金属棒、拭い紙、使い古したウエス。銃と刀。ただのガレージにはおよそ似つかわしくない物騒な物。

 そしてその物騒な物を我が身の一部として扱う、街で最も物騒な姉妹が、もはや作業台と区別がつかなくなった応接机の上で、きなこと黒蜜のかかった葛餅に舌鼓を打っていた。

「船橋屋にはよ、船橋屋のよさがあるんだよな」

 金属で刺々しく装飾された革のベストの下に、前袷の深く開いた橙色のシャツ。和服のような袷は飾りで動きを妨げない切れ込みが太ももの半ばまで深く入った黒と橙の縞模様のスカートで足を組む、燃える炎のような真っ赤な短髪の女。名を二ッ森ふたつもりほむら

 一方の女は、白い薄手の水兵服。白地に紺の襟、紺のプリーツスカートは膝より少し上の丈。スカーフは涼し気な浅葱色。明るめの生成りの羽織には、濃紺の朝顔が染められている。凍てついた鋼のような銀の長髪の女。名を二ッ森ふたつもりこごえ

 ともに細面の鋭い目、薄い唇。陶器のような白い肌。双子である彼女らは瓜二つの顔立ちをしているが、装束の奇抜さとあまりに異なる物言いのために、ふたりを見分けられない者はこの世にいない。

「最近大きなビルを建てたらしいですわ」と凍が応じた。「これがないと天神さまにお参りする甲斐がありませんものね」

「でもよー、やっぱ俺はみはしが一番好きだわ。船橋屋も美味いんだけど、定番の味すぎるっつーの?」

「お姉さまにしては贅沢な悩みですわね」

「味に悩めること。これが幸せってもんよ」

「そういう意味ではなく」

「じゃあどういう意味だ」

「いえ。ただ、お姉さまにも味の違いがおわかりになる、と関心していたのですわ」

「何だとこの野郎」足元に置いていた巨大な銃を取る焔。

「すぐいきり立つのは悪い癖ですわよ」同じく足元に置いていた刀を取る凍。

 葛餅を挟んで武器と武器が閃く。抜き放たれた銃と刀。焔の右腕から伸びた銅色の配管が銃把に繋がり、爪が黒塗りされた親指が撃鉄代わりの歯車を回す。凍の左腕から伸びたこれも銅色の配管が刀の目釘とひとつになり、飾り気がない代わりに滑らかに磨かれた爪の親指が鍔代わりの歯車を回す。

 もしも建物に命があるのなら悲鳴を上げるだろう灼熱と極寒の闘気。互いに静止した銃口と切先の均衡がまさに崩れんとしたその時、焔が肩越しに窓の外へ目線を向けた。

「おい、なんだあれ」

 一方の凍が、これも肩越しに同じく窓の外を見る。

「……続きはまたにしましょう、お姉さま」

「違いねえ」

 焔の銃が右の太腿に巻いたホルスターに収まり、凍の刀が右手に持った鞘に収まる。

 そのまま建物の屋上へ登ったふたりは、頭上に浮かぶその雲を見た。

 晴れることのない薄雲よりも低い高さで、水の中に墨汁を一滴落とした瞬間が無限に続いているかのように蠢き続ける紫の毒煙。

 焔がその雲へ向けて指鉄砲を向ける。

「届くな。撃ってみるか?」

「およしなさいな。煙に炎が効くとは思えませんわ」

「じゃあお前斬れよ」

「さすがに雲を斬ったことはありませんわ……」

「じゃあしょうがねえな」焔は肩を落とす。「鬼灯に行くか」

 凍は羽織の襟を正した。「これは、蒸奇探偵の先生のご専門ですわね」


「動いているな。南へ移動している」双眼鏡を手にした沖津おきつ英生ひでおは、隊舎の屋上から空の向こうを睨んでいた。「どうだ小林、見えるか」

「ありゃあ芝の増上寺か……埋立地のあたりっすかねえ」

 旗の掲揚されたポールのてっぺんから声を張り上げるのは、毬栗のような短髪頭の少年。右腕と左脚を筋電甲に置き換えている彼、小林こばやし剣一けんいちは、力だけでなく平衡感覚も機械仕掛けで人間離れしている。掌よりも狭いポールの上で交互に脚を組み替える様子は、さながら消防の出初式だった。

 帝国陸軍憲兵隊麾下、機甲化少年挺身隊小石川屯所。

 小林の下方では挺身隊所属の少年少女らが、訓練の手を休めて跳躍を繰り返している。脚を軍用筋電甲に置き換えているなら、下手な建物に登るより跳ねた方が高いのだ。それでもポールの方が高く、ボールの上に登れる技量の持ち主は小林だけだった。

 双眼鏡を下ろした沖津が言う。「芝浜か。夢になればいいものを」

「浜も浦もありゃしませんよ。酔っ払うにはまだ早いんじゃないですか、総隊長」

「後で外周二〇周だ」

「そんな……」

 悄気げる小林。眉間に皺を寄せる沖津。

 芝の海岸線はここ数年で大きく形を変えた。大量の土砂が投入され、埋め立てられた上に鉄道が通り、一大物流拠点が整備されつつある。その多くは、東京港から海外へ輸出される製品が詰め込まれたコンテナだ。当然、その中には星外技術の産物も多く含まれる。天樹の降りた東京は、地球へ宇宙の科学をもたらす、モノの結節点でもある。

 星外技術の産物。

 地球人の手により作られた、地球外の人々には作ることのできないもの。

 即ち、兵器へ転用可能なものが含まれている。

 広い宇宙の片隅に過ぎない地球の、帝都東京に、合法非合法を問わない多数の勢力が跳梁跋扈する理由はここにある。仮に星団評議会が規制する物品であっても、現住知的生命体の手によるものであれば、『文明独自の活動を妨げない』という彼らの原則ゆえに、製造と星内レベルの流通を規制することはできない。そして小さな地球でも、出入りする船舶のすべてを監視することは事実上困難である。

 赤星一家レッドスター・ファミリーと呼ばれる異星人系マフィアや、星間国家の工作員が、地球で製造された星外技術品を地球外へ持ち出そうとして拘束される事例は後を絶たない。彼らの多くは武装しており、警察では対処不能なことも多々ある。ゆえに陸軍憲兵隊が配備され、市民の軍隊への抵抗感を薄れさせる目的で機甲化少年挺身隊のような部隊もその中に組み込まれる。

 しかしいかに超電装を備える強力な部隊であろうとも、雲相手では太刀打ちのしようがない。

「やっぱトンデモ科学の産物が目当てなんすかねえ」と小林。

「くすねていく連中はいくらでもいる。わざわざ東京港で狙うよりも、天樹から遠い海外経由で宇宙へ出す方が楽だ」

「となると……」小林は生身の指を舐め、宙に翳した。「単に風に流されてるんすかね」

「まず一体なんなのか。目的は。ここで見ていても仕方ない。……小林!」

「外周ですね! 行かせていただきます!」

「それはいい」沖津は南南東を指差した。「上野だ。この手は例の探偵に訊くに限る」

「いいっすけど、俺でいいんですか?」

「お前も翻訳師の子に会う口実が出来て嬉しいだろう」

「誰がっ、別に嬉しかあ……」応じた小林の身体が平衡を失う。「うわーっ!」

 適切な訓練を受けた軍用筋電甲の装着者ならば、建物の屋上から降りた程度で怪我はしない。しかしいかに軍服に袖を通していようとも、彼らは皆子供であることを改めて思い知った沖津。重々しい溜め息が、昼下がりの屯所へ溶けていく。


 帝都東京、上野は入谷の三丁目。空襲を辛うじて逃れた旧来の木造建築が並ぶ一角に、覆面の警邏車が停まった。中から降りてくるのは、背広姿のふたり組の刑事である。

 一方は総白髪を短く刈った、恰幅のいい色黒の男。人を食ったような笑みを絶やさないが、その眼差しは常に眼の前のものから目に見えない部分を感じ取ろうとする抜け目のなさに彩られている。舗装された路面に筋電甲の右脚の足音が重く響く。時に狸と仇名される、警視庁刑事部異星犯罪対策課課長、財前ざいぜん剛太郎ごうたろうである。

 先に停まっていた蒸奇の飛行車を一瞥し、財前は言った。

「あんなものはいくらなんでも天樹の管轄だ。でも下で動くのは俺ら。すると天樹と繋がっているこっち側の人間である、あの男に話を聞くしかねえ。まあー、ちいっと頼りねえってのはわかるけどよ」

「理屈はわかりますが、感情の問題です。感情で動くことを決して忘れるなと私に教えたのは、財前さんでしょう」

「まあまあ、そういきり立ちなさんなって、駿ちゃん」

「門倉です!」

 もう一方、色白で細身の刑事が長過ぎる前髪を気障ったらしく払って舌打ちする。周囲を睨む、何に苛立っているのか自分でもわかっていないような目。見せびらかすように手袋もしていない機械の右腕。時に蜥蜴と仇名される、警視庁刑事部異星犯罪対策課の刑事、門倉かどくら駿也しゅんやである。

 紫の雲はまた動いていた。

 刑事ふたりが見上げると、まさに頭上にある。一度海沿いの方へ流されていたが、風向きが変わったのか、今は上野のあたりだった。

 〈純喫茶・熊猫〉の立て看板に、水出し珈琲はじめました、の文字。そして頭上の袖看板には鬼灯探偵事務所の文字。以前よりいくぶん綺麗になった看板には、相も変わらず鬼灯の実を象った緑青色のブリキ細工が張りついている。

 扉を開けるとベルが鳴る。そして店内に揃っていた人々に、刑事ふたりは顔を見合わせた。

 機甲化少年挺身隊の小林剣一。

 エフ・アンド・エフ警備保障の二ッ森姉妹。

 探偵助手にして特級異星言語翻訳師・早坂あかりと、彼女についてきたらしき女学生ふたり。

 それだけではない。

 腕組みしたまま微動だにしない屈強な強面の黒服。彼は千束吉原の老舗遊郭〈紅山楼〉の雇われ運転手だ。いれば嫌でも目立つ主の姿が見えないところ、今日はひとりで来たらしい。

 カウンターの内側では店主の大熊おおくま武志たけし雪枝ゆきえ夫妻が営業妨害に匙を投げた様子で、売り物の珈琲片手に一服している。おそらく客として訪れていたのだろう、所在なさげな井端いばた彩子さいこの姿もあった。一方では最近店の一同に加わったルーラ壱式小電装が「ああ忙しい、忙しい」と呟きつつ、既に埃ひとつ落ちていないテーブルを磨き続けている。

 そして一同に取り囲まれながら呑気に珈琲を飲む書生姿の男が、煙草を指先に挟んだ手を掲げた。

 壁際に降りていた配管からささやかな炎が吹き出し、先端を焦がす。

「それで、あれは一体なんなんですの、先生」壮絶な戦場へ真っ先に切り込むのと同じように、二ッ森凍が沈黙を破った。「今のところは浮いてるだけのようですが、気味が悪いですわ」

 続けて二ッ森焔。「そうそう。気味悪ぃんだよ。なんか、こう……見られてるみたいな感じがするっつーの?」

「財前さんたちも来たのか」太い眉を上げて小林剣一が言った。「警視庁もお手上げってことっすか?」

「そんなとこよ」と財前は肩を竦める。

 すると腕組みの門倉が言った。「おい探偵。黙ってないで何か言え。あの雲はなんなんだ。またどこかの星の侵略者か」

「先生! 呑気に煙草吸ってる場合ですか!」早坂あかりがテーブルを叩いて詰め寄る。「もう午後ですし今日は日曜日じゃないです。みなさんこうしていらして下さってるんです、黙ってないで、なんとか……」

「期待は、人を追い詰める」

「はあ?」

 眉をひそめるあかり。

 一同の中心、蒸奇探偵・伊瀬新九郎は、煙草の煙を大きく吐いた。

「誰もが心の中に、人に認められたいという欲求を抱えている。期待はその欲求を肥大させる。肥大すると、その欲求は、もっと認められなければならないという強迫観念に変わる。同時に、一度認められると、認められなくなることへの恐怖に始終怯えることになる。すると人は追い詰められる。期待されたことで作られた自分の像と、本当の自分との乖離を埋めようとし、埋められないことに焦る。その像そのものが虚像であることにも気づかずにね。つまり」

 そこで新九郎はもう一度煙草を吸い、一同を見回して告げた。

「さっぱりわからん」

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