挿話 第2.2話 煙草屋の怪人
「早坂くん、ちょっと頼まれてくれないか」と伊瀬新九郎は言った。
日曜日。朝、というには昼に近づきすぎた頃。今週の授業の内容がまだ頭の中で堂々巡りしているあかりをよそに、新九郎はいつものように、事務所のひとりがけソファで器用にひっくり返っている。まるで世の全てに知らぬ存ぜぬを決め込むかのように、顔に載せられた帽子。発せられる声は、いつにも増して重かった。
「早坂くん……」
「嫌です。自分で行ってください」
「まあまあ」新九郎はいつもの三割増で億劫そうに半身を起こした。「あの大尉どの、ザルなんだから……」
「二日酔いですか?」
「まあ、そんなところ」
「下戸の癖に、無理して飲むからですよ」煙草の灰で汚れたテーブルを拭きつつあかりは応じた。「なんですか、頼みって」
「煙草を買ってきてくれないか。切らした」
「自分で……」
「後生だから」
灰も拭かせてその上煙草そのものまで買ってこいとは横柄この上ない。加えて伊瀬新九郎、吸い殻だけ片づけて掃除した気になっているのである。
とはいえ。
ロバトリック星人の一件では、彼には大きな貸しを作ってしまった。風変わりな一体とはいえ、駆除しろと厳命する天樹を騙くらかしてまで保護してくれたのだ。その理由に気づかぬほど、史上最年少の特級異星言語翻訳師・早坂あかりは愚かでも子供でもなかった。
「はいはい。わかりましたよ」
「そこの通りを三区画ほど進んだところの信号を渡って、ふたつ目の交差点を右に曲がって、最初の角だ」新九郎は懐から紙幣を取り出す。ソファから立ち上がるつもりは毛頭ないようだった。「助かる。君がいてくれてよかった」
少しずつわかってきたことだが、新九郎は些細なことでも礼が大袈裟である。信用と人間関係がなければ商売が成り立たないゆえの癖、なのかもしれなかった。
当然、あかりには関係のないことである。
「人にものを頼む態度ですか、それが」
「これ以上起きると頭が痛い……」
ひらひらと振られる紙幣を受け取る。「お釣りは……」
「あげる」
「やった」
「僕の名前を出して、いつものやつを一ダース、と言えば通じる」半ば起こしていた身体がソファに沈んだ。「それじゃあよろしく」
はいはい、と応じ、あかりは肩を落としつつ出立した。
帝都東京、上野入谷の三丁目。先の大戦で空襲被害を受けたところと、そうでないところが斑目のようになった半端な通りを、新九郎に言われた通りに進む。空はいつもと同じ曇天である。
二丁目の警察署。
曲がればエフ・アンド・エフ警備保障への近道になる小さな交差点。
路面電車の鐘の音。さてこれも、盛者必衰の理を現すのだろうか。
そうこうしているうちに、目的地だった。
通りの角にひっそりと佇む煙草屋。芝居の券売所のようなカウンターだけの小さな店で、軍刀を腰から提げた軍人さんがうまそうに一服する姿を描いた絵がかけられている。内部は薄暗く、往来からでは見通せなかった。むしろその影の中から、恐るべきものがこちらを見定めているような気がする。
べにばな煙草店、と書かれていた。
抜き足差し足で、あかりはそのカウンターへと近づいた。喧騒の中で、舗装を踏む自分の足音がやけに大きく聞こえた。
やっと店の目の前まで辿り着いて、あかりは言った。
「ごめんください……」
数秒待つ。
返事はなかった。
「ごめんください」ともう一度言ってみる。
やはり返事はない。
暗がりの中を覗き込んでみる。
すると、あかりの眼前に真っ白な顔が現われた。
思わず声を上げて仰け反ると、その顔が「いらっしゃい」と言った。
女だった。見たところ、還暦手前くらいで、決して若くはない。だが濃すぎる化粧のせいで、年齢不詳のお化けのようだ。一面白で塗りたくられている一方、唇だけが不気味に赤い。縮れた髪は金色に染められている。まるで西洋の道化師のようだった。
長過ぎる前髪が、銀色の、直角二等辺三角形の形をした飾りで留められている。とりあえず邪魔にならなければいい、とばかりの無造作な留め方だった。
呆気に取られるあかりに、その女が言った。
「誰のだい」
「はい! あの、煙草を……」
「だから、誰の煙草だい、と訊いてんだよ、お嬢ちゃん」女は深々と息をつくと丸椅子に腰を下ろす。軋む音が不気味だった。「ひとつ、教えといてやる。女はね、てめえの男の煙草を買いに行かされるようになったら、終わりだよ。心しとくんだね」
「男って……違います!」
「へえ。じゃあお嬢ちゃんが吸うのかい。見かけによらず、悪い子だねえ」
「それも違います」
「はっきりものを言う。最近の娘さんだねえ。気に入ったよ」
気に入られても困る。煙草を買わなければならないのだ。「わたしのじゃなくて、先生の煙草です」
ほう、と女が声を上げた。「先生。学校の? そいつぁまた、どういう関係なのか、気になるねえ」
「違いますから! わたしの、雇用主です」
「なるほど」女はにたりと笑い、数秒、目を閉じた。それから目を開いて言った。「あんた、もしかして、伊瀬の小僧のところの?」
「はい。鬼灯探偵事務所の、異星言語翻訳師です。先生……伊瀬新九郎の遣いで来ました」
「道理で。どっかで見た顔だと思ったよ」女は髪を鬱陶しそうに搔き上げる。「しかしね、怖いもの知らずも、程々にしとくんだね」
「どういうことですか」
「あんた、なんも知らないんだね。あたしのことも、こいつのことも」
こいつ、と問い返そうとした時だった。
女の指先が、三角形の髪飾りに触れた。
耳鳴りがした。目が、その三角形に吸い寄せられる。鼓動が高鳴る。目の前の世界が揺らぐ。道化師のような顔をした女が、高笑いしている。三角形が回転する。
あかりの背を悪寒が走る。胸に収めたヘドロン飾りが熱を帯びる。
これは、いけない。
頭の中が走り始める。止めようとしても止まらない。三角形。三角形。ありとあらゆる場所にある三角形。電柱、舗装の角、車の部品。
何かに、触られる。
胸の奥、心の底、決して誰にも触られてはならない部分が、刺々しくも柔らかい何かに、愛おしむように撫でられる。
何かがいる。
誰かがいる。
この世界の、この場所にして、人の触れ得ざる時と場所から、何かが早坂あかりに向かって手を伸ばしている。
三角形。
引きずり込まれる。その刹那。
「あなたは、誰!」とあかりは叫んだ。
暗闇だった。
通りも曇天もその先に変わらず聳えているはずの天樹も、行き交う人も車も路面電車も、何もなかった。
声が聞こえた。男のようにも女のようにも、子供のようにも年寄りのようにも聞こえた。
「人は私たちに恐怖する。地球人だけではない。君たちが物質と呼ぶものから構成されるすべての生命は、我々を恐怖する形が、予めその生命の中に刻まれている。形あるものである限り、君たちは、私たちを恐怖するすることから逃れられない。精神生命たる〈奇跡の一族〉とて、完全に自由ではない。この世界、この宇宙、この次元に足を踏み入れることができるとはすなわち、大なり小なりの形を持つことを意味するからだ」
「あなたは誰」
「かつて君のように私に接触した者は、私たちを幾何生命と定義した。君たちの目に三角形と映るものすべての中に、私たちはいる。形あるものすべての中に、なんらかの幾何生命がいる。因果は逆だ。私たちのような幾何生命がいるから、形あるものは、形を成すことができる。なぜ木々は相似の形に広がるのか。なぜ小さな波の中に大きなうねりと同じ形があるのか。私たちがいるからだ」
「形。形あるものの中に、いる?」
「私たちによって形は生まれる。だが同時に、形がなければ我々は生まれない。私たちと君たちは相互に依存しながらも、決して互いを認知することはない。それは摂理であり、法則だ。だがすべての摂理にはその外の存在があり、法則には、例外がある。例外を完全に包摂するものを真理と呼ぶ。そして何者も、真理に辿り着くことはできない」
「でも私が生命であるように、あなたも生命である。そうですか」
「その通りだ」
「どうして、わたしに話を」
「例外のひとつが、君を招き入れたからだ。君は、栗山依子か」
「違います」
「なら名を、教えてくれ」
「早坂あかりです」
「覚えておこう。きっと君は、何者をも恐れないだろう。これまでも、これからも。もしも君の心に恐れが忍び寄ったなら、私のことを思い出せ。概念的に言って、触れ得ざる者に触れた恐怖を超える恐怖は、君の世界には存在し得ないのだから」
あかりは、瞬きをした。
そして悲鳴を上げた。
目の前に、また真っ白な女の顔があったのだ。
「なんだい。そんな黄色い声出すこたあないじゃないか」
「え、いや、でも、今の……」
辺りを見回す。
異星砂礫の舗装された通り。曇天からの薄日。足早に行き交う人々。号笛を上げながら走り去る車に、軌条の継ぎ目を鳴らしながら行く路面電車。
見上げれば、変わらず天樹が聳えている。
「いつものでいいのかい」と女が言った。
「え?」
「銘柄。煙草買いに来たんだろ、あんた」
「はいっ。いつものを、一ダース」
あいよ、と言って女は赤い箱の煙草をダース入りの箱で置き、新聞紙の切れ端で器用に包んだ。
その上にマッチがひと箱。直角二等辺三角形が印刷されていた。
「それにしても、小僧のところにあんたみたいな娘さんがねえ」と女。「あんた、鬼灯の由来を?」
「探偵事務所の、名ですか?」
「そのぶんじゃご存知ないようだ」女の、真っ赤な色が塗られた爪が、カウンターを三度叩いた。手は皺だらけだった。「ありゃね、後がない人のために、って思いでつけられた名前なんだよ。伊瀬の小僧と、翻訳師の嫁さんとで考えてね」
「どういうことですか」
「江戸の遊女にとって、鬼灯は堕胎の妙薬なのさ。いつも医者にかかれるわけじゃないからね。ま、今じゃ西洋式の薬がいくらでもあらあね。昔の話さ。吉原がお堀に囲まれ、真っ赤な大門があった頃のね」
すると女は手を差し出す。
あかりが首を傾げると、女は今日一番の凄んだ声で言った。
「お勘定だよ。いくら年端もいかない娘だからって、ロハってわけにはいかないね」
狐につままれた心地、とはこのことである。
来た道を戻り、〈純喫茶・熊猫〉の扉を開けても、まだどこか夢の中にいるようだった。
店内に客は疎ら。なら構わないだろうとばかりに、伊瀬新九郎がテーブルのひとつを占拠し、軟体動物のように倒れ伏している。一九〇糎に届こうかという長身のせいで、まるでけだものの類が寝ているようだ。
「先生」とひと声かけると、新九郎はいやに素早く身を起こした。
「おかえり、早坂くん。遅いじゃないか。待ちくたびれたよ」
わざわざ行ってきてあげたのになぜそう咎めるように言うのか。釈然としないながらも包みを渡すと、新九郎はいそいそと破いて煙草を取り出し、マッチには目もくれず、愛用のオイルライターで火を点けた。
美味そうに煙を吸うと、「早坂くん」と新九郎は言った。
「気に入られたみたいで、よかった。僕はどうも苦手でね、あのばあさま」
「そういうわけでも、ないと思いますけど……」
「僕だけじゃない。誰でもだ。あのばあさまの前だと、どんな偉丈夫でも子犬みたいに腰が引けてしまうんだ。貫禄、とでも言うのかな。さすが吉原の妖怪だ」
「妖怪って」思わず顔が引きつるあかり。「何者なんですか、あの人」
「言ってなかったっけ。あの人、紅緒さんのお母上。紅緒さんが女王なら、女王に憑いた物の怪さ。現役は退いて久しいけど、まだまだ上野界隈のやくざ連中はあのばあさまに頭が上がらない。不思議なもんだ」
ご機嫌な様子で紫煙を燻らす新九郎。
それ、たぶんよくわかんない幾何生命とやらのせいですよ。
喉まで出かかったひと言を、あかりは飲み下した。
言って伝わるものではないし、そもそも三角形なら、この店内にも無数にある。幾何生命の言うことが真実ならば、そもそもこの世界の、ありとあらゆる形あるものの中に、彼らはいる。机にも、椅子にも、カップにも、配管にも、今日も炎と喧嘩する小電装給仕の中にも。素知らぬ顔でグラスを磨くロイド眼鏡の店主の中にも、呆れ顔のその妻の中にも、探偵が吸う煙草の中にも、そこから漂う煙の中にも――。
きっとこういうことは、深く考えない方がいいのだ。
あっという間に短くなった煙草を手に、新九郎が思い出したように言う。
「これも、毒とか入ってそうだ。あのばあさまならやりかねない」
「毒でしょう、煙草は」
「それもそうか」新九郎は煙草を灰皿に押し当てる。
花の帝都に、謎と怪奇の数知れず。
トーキョー・モダンガールへの道はまだ遠いと、肩を落とすあかりだった。
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