2.ごきげんよう、早坂さん
明くる日の、曇天から薄日の差す朝。鬼灯探偵事務所は騒がしかった。
棚の向こうの寝台で寝坊を決め込む伊瀬新九郎と、窓を大きく開け放ったあかり。そして窓の向こうで、水兵服に羽織の女が長い銀髪を風に遊ばせていた。左手には抜き身の日本刀。右手には鞘。エフ・アンド・エフ警備保障の
凍はあろうことか、空中で長い脚を組んで座っている。事務所の外壁から延びた氷の椅子に腰掛けているのである。
「すみません凍さん。こんなことに協力してもらって」
「いえいえ。困った時はお互い様ですわ」柔らかな笑顔でそう言う後ろで、鬼灯探偵事務所の薄汚れた袖看板直上に氷の塊が生成されていく。「フレイマーちゃん、お願い」
すると通気口から炎が吹き出す。「合点承知」
太陽からやってきた活力生命体が身体の一部を伸ばし、氷を一気に溶かした。
だが、思惑通りに雨とはならず、大半が蒸発してしまったようだった。
「もう少し控えめにお願いしますわ」と凍。
再び氷が集まり、フレイマーが溶かす。今度は首尾よく大量の水が袖看板に降り注いだ。
炎が人差し指と中指を立てた拳の形になる。そして降り注いだ水は地面に落ちる前に凝結し、再び看板の上で寄せ集まって氷になった。あとは流れ作業である。
凍が買って出たのは、鬼灯探偵事務所の、看板の掃除だった。長らく開店休業状態だったために鬼灯の文字を読み取るのもやっとの有様だったにもかかわらず、主の新九郎は構う様子がなかった。見かねたあかりが二ッ森姉妹に相談したのである。
だが、軒下に停まっているのは凍のおんぼろ
「今日は、
「競馬よ」
「競馬」
「そう。あの手の賭け事が好きなのですわ。よく考えれば胴元が儲かるとわかるはずなのに。頭が沸いてるのよ」勢いよく水が地面に落ちる。「あら、しくじりましたわ」
気を取り直して、とばかりに寄せ集まる氷。今度はフレイマーと絶妙の連携で、高温水蒸気を看板の汚れに噴射していく。
感嘆しながら眺めていると、凍が言った。
「そういえばあかりちゃん、学校の方はどう?」
「学校、学校」あかりは深々とため息をつく。「あんまり行きたくないです」
「あら。嫌なことでもあった?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど……」我知らず、ブーツの爪先が床を叩いていた。
それは転校初日での出来事であった。
花の帝都の女学校。新品の制服はお洒落な葡萄茶袴に矢絣の着物。密かに心弾ませていたあかりだったが、担任に連れられ足を踏み入れた上野中央女学校の教室で、浴びせられたのは奇異の目線だった。
当然は当然。
黒板の前に立つと、前の日の夜に何度も練習したはずの自己紹介の言葉が、全部吹き飛んでしまった。何せ教室にいるのは全員帝都の女学生。押しも押されもせぬ、モダンガールたちである。
「それで、つい、やってしまいました」
「何を?」首を傾げる凍。
「郷里の言葉が……」あかりは肩を落とした。
口から標準語が出てこなかったのである。
人間、緊張すると自分の身体に慣れ親しんだことしたできなくなるものである。やっとの思いの第一声は「おらは」だった。
そこで腹を括ってしまったのがよくなかった。
自己紹介を全部仙台弁で乗り切れば、教室中から忍び笑いの嵐。
「別に悪意があるわけじゃないんだと思うんですよ。わたしだって、
「学校とはそういうところですわ」風に髪を遊ばせて応じる凍。「わたくしもあまりいい思い出はございませんの」
「そんなお洋服なのに?」
「これは趣味ですわ」
「趣味」
「第一、わたくし二十歳です」
「二十歳」
「いくつに見えまして?」
そう訊かれると答えに窮してしまう。少し悩んでからあかりは言った。「永遠の一七歳」
「それ、素敵な響きですわね。頂戴しますわ」凍は頬に手を当てて笑顔になる。
エレカイザー事件の折りに埃だらけになった学生靴は、すっかり新品のような艶を取り戻している。羽織の方は文字通り新品のようだった。
凍はそのあかりの目線に気づいたのか、桃色のスカーフを摘んで言った。
「実はこの服、わたくしとお姉さまが昔通っていた学校の制服なのよ」
「昔……二年前ですか?」
「いえ、こちらの時間では、一二年前ですわね。わたくしの主観時間では、四年前です」首を傾げているあかりに、微笑みを崩さぬまま凍は続ける。「宇宙人に拉致されまして。その折に、超光速であちらこちら飛ばされましたの。おかげさまでちょっとした浦島太郎気分ですわ」
「えーっと、四年前っていうことは……」
「一六歳。わたくし、女学校中退ですの」
さらりと言ってのける。
吉原に連れて行かれた時、新九郎にヘドロン飾りを仕舞うよう言われたことを思い出した。
宇宙人に拉致されて、女学校を卒業できなかった女。そんな人に、学校の悩みなど言うべきではなかった。だが、どう謝ったものか考えあぐねて目を伏せてしまったあかりに、凍は至って明るく言った。
「お友達はできまして?」
「まあ、一応」一応できたと、一応返したあかりだった。「凍さんは、その……」
「訊いておいてなんですけれど、わたくし、お友達というのがどうもわかりませんで」凍が手首を捻ると、氷が微細な粒となって噴射される。それをフレイマーが水蒸気に変え、みるみるうちに袖看板の汚れが落ちていった。「自分のことを細大漏らさず理解してくれる人がいつも隣りにいるのに、わざわざお友達を頑張って作る理由が、どうしてもわかりませんでしたの」
「焔さんのことですか?」
「あれでも姉なのです」言い、凍は足元の通りに目を落とした。「お迎えみたいですわ、あかりちゃん」
彼女の目線の方を見れば、あかりと同じ女学生服の女の子が手を振っていた。その表情は空中に座る謎の銀髪の日本刀女を目にしたせいか引きつっている。
あかりは通学鞄を掴んだ。「じゃあ行ってきます。後お願いします」
いってらっしゃい、とひらひら手を振る凍。
そして衝立代わりの棚の向こうからも、嗄れ声で「いってらっしゃい」と聞こえた。そして身動ぎする男の気配。
「起きてたんですか」
「君らが騒がしいせいだ……」
蒸奇探偵・伊瀬新九郎は朝が苦手なのではない。単に怠惰なのである。
幸か不幸か、上野中央女学校・略して上女は鬼灯探偵事務所から徒歩圏内である。〈奇跡の一族〉が薦めたカプセル住宅も徒歩圏内だが、鬼灯の方が近い。
よって、事務所への住み込みは、名目上、便利だからということにしてある。そしてその名目を使わなければならない相手は、学友なのである。
「それであかりちゃんあかりちゃん、蒸奇探偵の先生って、どんな人なの?」
わざわざ迎えに来てくれた彼女は、名を、
彼女の実家は曳舟の方で、天樹観光客を相手にした飲食店を営んでいる。土地柄、良家の娘も多い上女の中では、珍しく庶民派である。そして弟がふたりいるためか、面倒見がいい。本人は「行きがけだから」と言うものの、彼女が使う都電の駅からの経路を考えると、鬼灯探偵事務所に寄るのは遠回りになる。そうして気にかけてもらえることが嬉しく、敢えて言わないようにしていた。
「どうって言われても、普通かなあ」
「でもでも、噂の蒸奇探偵なんでしょ?」
「それは、そうなんだけど……」
大きな眼鏡越しの眼差しは、まさに興味津々。あかりの一挙手一投足から、あることないこと読み取ってやるという気概に満ちている。
どうにも違和感があるのだった。
人に話を聞くに、蒸奇探偵とは、かの
蒸奇探偵は、伊瀬新九郎である。
蒸奇探偵は、
だが、星鋳物の操り手は、伊瀬新九郎であると、直接彼の仕事にかかわらない多くの人々は、知らないようなのだ。
「あ、でも美人には弱いみたい。この間もさあ……」
「やっぱり! やっぱりそうなんだ!」
「やっぱり?」
「またまたあ」肩を軽く叩かれるも、今ひとつ、彼女の意図するところが掴めないあかりだった。
「おケイちゃん、そんなにうちの先生のこと気になる? だらしない人だよ? この間だって、お客さんだと思ったら吉原の遊女屋さんからのお迎えで……」
「ゆ、ゆゆ……」
すると景は往来の真ん中で両耳を抑えてきゃーきゃーと騒ぎ出す。
おケイちゃん、は彼女の愛称である。女性の呼び方としてはいくらなんでも古臭いが、素朴で庶民派な彼女にはよく似合っていた。
そうこする内に学校の眼の前だった。
上野中央女学校の校舎は、大正年間に建てられたものが戦火を焼け残って現在も使用され続けているもので、和洋折衷のモダンな建築である。漆喰の外壁に瓦屋根ながらも、石造りのような装飾が施されている。隅には塔屋が設けられており、洋館のような不思議な雰囲気を醸し出している。
校門のところで、生徒の有志と何かの活動家らしき人々が声を張り上げていた。
超光速通信網の地球への早期敷設。
筋電甲の無償化、政府支給の筋電甲に対して義務づけられる奉仕活動の軽減。
四肢のいずれかを欠損して生まれてきた子供には政府が筋電甲を支給するが、よほど学業が優秀か一芸に秀でていない限り、返済義務が生じる。そして返済額は、社会奉仕活動に応じて減免される。短期間での返済を目論むないし、なんらかの事情がある者は、機甲化少年挺身隊のような危険が伴う奉仕活動に従事する。
つんつん頭のいけすかない男の子のことをあかりが思い出していると、景がぼんやりと言った。
「そいえば、うちのお客さんで息子さんが従軍してるって人いたっけなあ」
「従軍? 平和維持軍?」
「そうそう。宇宙の向こうに従軍って、すごい時代になったもんですねえ、あかりさんや」
「そっか」とあかりは手を打った。「超光速通信ができれば、そういう人とも時間差なく話せるんだ」
「すごい時代になったもんじゃあ」すたすたと歩いていく景。
あかりは足を止めた。
地球へ表敬訪問するというグモ星人。彼らの目的はどうあれ、そもそも超光速通信が彼らの技術なのであれば、頼めば敷設してくれるのかもしれない。
機会があれば話してみたいとも思う。だがそれは、財閥お抱えの異星言語翻訳師の仕事なのかもしれない。
だが、何か様子が妙だった。
活動家らと一緒に声を張り上げていた、片腕が筋電甲の男の子が、急にその筋電甲を掴んで苦しみ出したのだ。
そうとも知らずに送迎のオルゴン車が停まり、中から女生徒がひとり降りてくる。ふわり、と洋風のリボンを結んだ長い髪が揺れ、運転手へ会釈。その目線があかりを見、楚々と頭を下げた。
「ごきげんよう、早坂さん、田村さん」
そんな出自のためか、教室での影響力も絶大である。自己紹介で盛大に失敗したあかりがこうして恥ずかしげもなく学校へ通っているのも、誂おうとした学友たちを彼女がひと言窘めてくれたからである。おかげで彼女には頭が上がらない。
そして、滅茶苦茶可愛いのである。
出自を感じさせない穏やかな眼差しに射竦められれば誰もが恋に落ちる。この学校に通っているなら、一番割のいい小遣い稼ぎは北條撫子の写真を撮って売り捌くことだとも実しやかに囁かれる。彼女が履くブーツをみんなが真似る。彼女が着ける髪留めをみんなが真似る。そういう特別な存在が、北條撫子なのである。
「おっはよう撫子さま。今日も撫子さまって感じだねえ」と景。
「はい、撫子さまですよー」笑顔を絶やさない撫子。「早坂さんは、今日も早坂さんですか?」
「どうだろ。わかんない」
「それは困りましたねえ」
何が困るのかはよくわからないが、彼女が困っているならどうにかしなければならない。それが北條撫子だ。
その時だった。
車の向こうで苦悶の雄叫びが上がった。活動家と一緒にいた、筋電甲の少年である。
「撫子ちゃん、こっち」
あかりは咄嗟に撫子の手を引いた。
先を歩いていた景が振り返った。
おさげに眼鏡の彼女の表情が凍った。
金属の軋む不穏な音が背後から響いた。
たった今まで撫子が乗っていたオルゴン車が、何者かに持ち上げられて傾いていた。
「まあ、力持ちですのね」と撫子。どうもぼんやりしたところのある子なのである。
女学生らの悲鳴が方々から上がり、何事かと警備員が集まってくる。
直後、車が音を立てて落ちた。何かが頭上へと飛び出し、放物線を描いてあかりと撫子の眼の前に落ちた。
折れた筋電甲だった。
当のの少年は、泡を吹いてその場に仰向けに倒れてしまう。女学生たちはざわつきながらも、足早に校舎へ入っていく。
「何、これは」とあかり。
「すごい時代じゃあ……」と景。
撫子は運転手の名を呼びながら車に駆け寄っていく。
何度も痙攣を繰り返す折れた筋電甲。切断面からは銀色の液体のようなものが漏れ出ている。
生徒は早く中へ、という教員の声に顔を上げ、もう一度筋電甲を見下ろす。
一瞬の間に、液体は消え失せていた。
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