41.ラスト・ダンス①

 その日は朝から重苦しい雲が空を塞いでいた。

 吉原からかつての堀である通りを挟んで数本のところの、商店街の裏手にある住宅街の一角に、築年数の浅い二階建てのアパートがある。空室が出ても不動産屋に案内は出ず、入居者は全員大家の紹介で入居する。界隈では、なぜか若くて美人の女ばかり住んでいるともっぱらの噂であり、古株の住民は、大家が吉原の遊郭と繋がっていることを知っている。

 その表に、黒塗りの乗用車が停まる。黒服の運転手は筋骨隆々たる丸坊主の大男。そして、二回の部屋から人目を憚るように辺りを見回し、ひとりの少女が降りてくる。肩提げの鞄からは詰め込まれた書籍の端が覗き、抱えた旅行鞄からは、だだちゃ豆のような化繊の裾が飛び出していた。その彼女が身に纏うのは、矢絣紋に葡萄茶袴。この辺りなら、上野中央女学校が指定する制服であると誰もが知っている。

 耳の上あたりの髪を後ろでまとめて、花の蕾の形をした髪留めで留めている。胸元から飛び出す飾りは中に仄かな光を宿しており、正八面体と正六面体の間を行き来していた。

 その少女、早坂あかりは、車の後部座席へ足早に乗り込んだ。

 すると、先に後部座席に乗り込んでいた男が言った。伊瀬新九郎だった。

「荷物はそれだけでいいのかい?」

「ええ。食べ物は持ち込めませんし、あちらで必要なものはクロックマンさんが用意してくださるそうです」

 そうか、と新九郎は応じて、運転席へ「出してくれ」と言った。

 車はふわりと浮き上がり、一路上野駅前を目指して発進した。

 都内各所から、同時に八台の浮遊車が、上野を始め四箇所を分散して目指す手筈である。敢えて目立つ浮遊車を使い、目眩ましにする作戦だった。

「面白くないな」と新九郎は言った。「本当なら、帝都を挙げて君の門出を祝福するべきなんだ。人類初の栄誉の価値を、誰も理解していない」

「旦那。どちらにします」と、いつぞや黒井福と名乗った運転手が言った。「表通りか、裏路地か」

「どちらにせよ博打だが、裏だ。表では確実に警察と憲兵の検問に引っかかる。裏ならまだ、無傷で辿り着ける目がある」

 かしこまりました、と運転手が応じ、車は裏路地へ折れる。

 左右から迫る木造の住宅やごく小さな工房の数々。場違いな高級車の姿に、住民たちが首を傾げる。

「先生。これ、お返ししてませんでした」とあかりが言い、鞄の中から写真立てを取り出した。「この間の戦いの前、これも持ち出してたんです。機会がなくて」

 新九郎はしばしその写真を見つめ、「持っていてくれないか」と応じた。

「……大事なものなのでは?」

「いいんだよ。自分の若い頃の写真なんて、持っていてもしょうがない。八雲の野郎の面は、この前拝んだばかりだ。依子だって……きっと、過去の姿を僕にありがたく拝まれるのは望まない」

「じゃ、せっかくなんで」あかりは写真立てを鞄に収めた。「宇宙の果てまで持って行って、二十歳の先生の姿を広めてきます」

「それは、ありがたいような、困るような……」新九郎は苦笑する。「君と、写真館に行くべきだった。写真館だけじゃない。他にも、一緒に行くべきところが山ほどあった。お洒落なプロムナアド。流行りの甘味。お芝居。活動寫眞。いつか約束したのに、ひとつも行けなかった」

「それ、忘れてなかったんですか!」

「僕は記憶力はいい方だ」

「褒めてないですから! 忘れてなければいいってもんでもないですからね!」

「そうか。悪かった」

「覚えてらっしゃるなら、まだお返事も頂けていません」あかりは、新九郎を真っ直ぐに見ていた。

「……頭を下げなさい。人に見られると厄介だ」

「いいえ。お返事を頂けないままでは、わたしはどこにも行けません」

「そう来たか」新九郎は、膝の上の帽子を取り、天地を返し、もう一度返してまた膝の上に置いた。「それについてはまず、帝国刑法第百七十七条を……」

 その時、黒井が「失礼」と言って車が急停止した。

 正面に、汚れて裾のほつれた上着を着た、浮浪者のような男がいた。頻りに脚や腕を庇い、立ち上がり、何事か怒鳴っていた。

「当たり屋です。こんな時に。ちょいと退かせてきます」

 黒井が車の扉を開こうとする。だが新九郎は叫んだ。

「違う! このまま轢け!」

「しかし先生、それは……」

偽装皮膜ばけのかわだ!」

 浮浪者の目は、車の硝子越しに、後部座席を見ていた。目を丸くしているあかりを。

 懐に手を入れる。新九郎はあかりの頭を抑えて伏せる。黒井も頭を引っ込め、目一杯アクセルを踏み込む。浮浪者の手が上着の中から現れる。握られていたのは、拳銃ではない。頭部に雑光が走る。

 そして男は、銃口を真上に向け、引き金を引いた。間の抜けた破裂音のような音。急加速した浮遊車が男を弾き飛ばすが、もう遅かった。

 尾を引き、上空で炸裂する信号弾。赤い煙が空に広がる。



 都内各所で三次元迷彩を展開して待機していた〈レッドスター・ファミリー〉の飛行円盤が偽装を解き、一斉に飛翔する。そのうち、信号弾から最短距離に位置していた一基は、焼けた建物の跡に水飛沫の雨を降らす。市中に潜伏している早坂あかりが墨田の中州へ移動する可能性が極めて高いと判断した彼らは、隅田川の底へ最大の地上戦力を配置していた。即ち、地球方面の責任者である、フィナル星人トゼン以下三〇名。中には、かつて〈殲光〉襲撃事件の際に伊瀬新九郎と接触した、右腕に銀色の銃を仕込んだ男も含まれていた。

 彼らは無人の円盤を軍の検問所に突っ込ませ、爆破炎上させた隙に、焼け野原から火が回らなかった市街へと一団となって侵入する。

 この一事をもってしても、彼らが追い詰められていることが見て取れる。普段ならば、彼らは軍や警察のような公権力と表だって敵対することはない。社会に寄生し、循環する人・物・金の流れの中に彼らだけの脇道を作って掠め取ることこそが彼らの生業だからだ。

 若い憲兵が通信機に何事か叫んでいる。その様を見たトゼンは、頭部の偽装皮膜を自ら剥ぎ取った。

 回転する鈎型の角が一対。顎から鼻へ延びる縦型の口。その口が歪み、耳の辺りにある発声器官から声を発した。日本語に訳すなら、こうだ。

「俺のくしゃみは一万度の炎!」

 実際には五〇〇〇度ほどのプラズマだった。彼の種族は狩猟民族としての伝統を有しており、地球でいうところの恐竜のような凶暴な巨大生物を口からの火で倒すことで、初めて成人として認められる。だが彼はその儀式から怖じ気づいて逃げ出し、流れに流れて星間犯罪者集団に落ち着いたのだ。

 だが、五〇〇〇度であろうと一万度であろうと、強大な破壊力を秘めていることには変わりなかった。口から放ったくしゃみの一撃で、その憲兵は一瞬にして灰になった。火柱と煙が上がり、第二の狼煙となった。

 そして、市中に潜伏する構成員からの連絡を受け、早坂あかりを乗せた車を襲撃せんと移動を開始した――その一同の目線の先。

 襤褸布に身を包んだ男がいた。

 トゼンが吹き飛ばそうとして、彼を制したのは、右腕が銃の男。洋装の袖を引き千切りながら、仕込み銃を展開し、銀の部品が射撃体勢を整えるや否や電磁音を鳴らして発砲した。その正体は、宇宙戦艦にも搭載される荷電粒子砲の小型版である。

 だが、必殺の一撃が男を捉えることはなかった。

 一〇米はあったはずの距離が瞬時に詰まり、他の兵隊たちが銃を構える間もなく、荷電粒子砲の下に襤褸布の影が潜り込んでいた。

 両腕から包帯がするりと落ちて、切っ先を肘に向けていた刃が手首を軸に回転し、手甲に固定した二刀となる。

 フードが後頭部から額に向かって裂ける。そして現れる三本目の刀が、額の角となる。

 頭部の発光機が輝きを増す。その色は血のような赤。

 全身機械の怪物だった。

 誰かが叫んだ。

「〈赤鬼〉!」

 冷徹に研ぎ澄まされた電子音声が応じた。

「夢の守り人、〈赤のソードマン〉」

 二刀の連撃が銃の男の右腕を斬り落とし、胴体に斜め十字の刀傷を刻む。跳ねる。飛ぶ。舞い踊る。焼けた無人の街路に鉛玉や光線銃が飛び交う。だが、その一発たりとも、機械仕掛けの辻斬りを捉えることはない。手練れのはずのファミリーたちが、次々と焦げた大地に沈む。

 血糊を払い、切っ先をトゼンへ向け、〈赤のソードマン〉は言った。

「彼女が誰かの夢ならば、私が守る」



 浮遊車は大通りへ出る。戦闘になるなら、住宅の密集する裏路地を走り続けて多くの市民を巻き込むわけにはいかないと考えての判断だったが、結果的にこれは失敗だった。

「こんなの無茶苦茶ですよお! 市街地で機銃掃射なんて!」

「窮鼠猫を噛む。彼らも必死だね。それで話の続きなんだが……」

「今そんな場合ですか!?」

「いや、大事なことなんだ。刑法百七十七条、強姦罪では十三歳未満の者への姦淫は暴行又は脅迫を伴わなくとも強姦の罪とするとある。十三歳以上だと暴行又は脅迫を伴う場合に成立するんだが」

「姦淫!? なんでそんな話になるんですかっ!」

 積まれていた支援物資の空き箱を弾き飛ばし、炊き出しの行列を横目に、新九郎とあかりを乗せた浮遊車は蛇行運転で疾走する。そしてその後上方、〈レッドスター・ファミリー〉がよく用いる灰皿を二枚合わせたような型の飛行円盤が、蒸奇光線砲の機銃掃射を浴びせかける。交通規制が敷かれた街に自家用車はなく、仮設住宅群へ向かう物資の輸送車がまばらに通るだけなのが幸いだった。

「拉致が目的ならば当てはしないはずです。早坂さんを消してしまっては意味がない」運転席の黒井はあくまで冷静だった。

「気をつけろ。荒くれマフィアに理屈が通じると……」

 言うが早いが、車体に衝撃が走る。前方の視界が炎に染まり、水平を保っていた車体が傾く。平衡機に着弾したのだ。

 新九郎があかりの身体を抱いて座席に押しつける。黒井が全力で制動をかける。路肩の商店に車体左側面を擦り、火花を上げながら無理矢理急停車する。

 黒井も、〈紅山楼〉で運転手を務めるからには手練れだった。停止の直前に敢えて制動を緩め、後方側の浮遊機を横へ向けて車体を横向きに、左側面を後方へ向けて停車させていた。一切動じることなく、即座に車を降りて後部座席を開け、あかりと新九郎を助け出す。

 新九郎は帽子を被った。「まずいな。僕らが遅れるわけにはいかない。クロックマンは時間に正確だ」

「じゃあ、時間に正確に駅前に来て……」

「僕らを待って〈銀甲虫〉は無防備になる。急ぐぞ」

「おふたりはお早く。ここは我々が抑えます」懐から拳銃を抜き、黒井が言った。

 飛行円盤が降着し、中から続々と、多種多様な異星人が、偽装皮膜も着けずに現れる。間髪入れない射撃が、黒塗りの車を見る間に穴だらけにする。

「だが君ひとりでは……」

「我々、と申し上げましたよ、旦那」

 戦闘に巻き込まれた野次馬のような集団の中から、レッドスターの一団に向けて何かが投げ入れられる。放物線を描き、地面に二度跳ね、そして爆音。屋根の上に目を向ければ、市民にしか見えない男女が次々と軽やかな身のこなしで現れる。軍放出品の小銃を構えて射撃。レッドスターの兵隊を次々と屠る。そして路地裏から、拳銃や日本刀で武装したやくざ連中が現れ、レッドスターの兵隊と一気に混戦状態になった。先頭で刀を振り回す男は、濃い色の丸眼鏡。徳利首の毛糸のセーターの上から縞模様のダブルのスーツ。頬には傷跡があり、一度見れば忘れないやくざらしいパーマ頭の、神林忍だった。

 その彼が叫ぶ。

「紅緒姐さんの男にゃ傷ひとつだって付けさせねえ! 皆殺しじゃあ!」

 鞄を抱えたあかりは唖然として言った。「隠密衆と、神林組が、手を組んだ?」

 新九郎は首を傾げる。「あの男、いつぞや匕首持って僕を襲ったような気がするが……」

「お早く!」黒井も車を盾に立て続けに射撃する。

 恩に着る、とひと声残し、新九郎はあかりの手を引いた。

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