7.またお前か

 午後、新九郎は約束通りに〈紅山楼〉へ向かい、紅緒に面会した。

 唐破風の下の暖簾は外され、代わりに『本日休業』の張り紙。名物のからくり芸者も動いていなかった。

 それから新九郎は、〈紅山楼〉の車で上野界隈へ戻る。簡着物の外出着に着替えた紅緒も同行である。

 紅緒率いる吉原隠密衆の調査の結果、新九郎が予期した通り、蒸奇封瓶オルゴノイド・カプセルの遮蔽装置を手配した者がいた。その男の尋問が目的だった。

 向かった先は、上野アメヤ横丁雑居ビル地下の、〈BAR シルビヰ〉である。まだ日も高く、帝都八百八町の善悪彼岸である店は、営業時間前。それでも、母星と同胞を失くした哀れな放浪者であるマスターは、紅緒からの連絡を受けて店を開けてくれていた。

 扉を開けると、小鬼のような異星人の男が出迎える。

「お連れ様がお待ちです」とその彼が銀河標準語A種で言い、カウンターを示す。

 待ち人は、素直に席に座り、湯呑の番茶を啜っていた。

 新九郎は入口側、紅緒が奥側に座ってその男を挟み、背後に黒服の〈紅山楼〉の運転手が立つ。正面ではマスターが、本来の腕の内側に取りつけた機械の手で、淡々とグラスを磨いていた。

 待ち人は、禿げた小太りの中年男だった。片手の手拭で、絶えず顔の汗を拭っている。

 だが、よく見れば、薄暗い店内で彼の身体は発光しており、指先や首筋の辺りにノイズが走っている。安物の偽装皮膜だった。

「往生際が悪いですよ」と新九郎が言った。

「滅相もない!」と中年男が応じるが、加工が甘く、声が腹話術師のように口の動きとずれている。

「面の皮は厚くても、化けの皮は薄いみたいですねえ」

「またまた、女将ったら人聞きの悪い……」男は自分の頭頂部に手を伸ばし、スイッチを押し込んだ。

 偽装が解ける。するとそこに現れたのは、藍色縞模様の着流しにカンカン帽を被った、丸々と太った人間大のカエルだった。

 自称・井ノ内河津。八百八町で彼から買えないものはないと言われる、帝都でも随一の調達屋である。その主義は、金さえ出せば誰にでも、なんでも売ること。売った先にどんな結果が待っているかを、彼は徹頭徹尾無視するのである。

 もっとも、取引には主に〈BAR シルビヰ〉を用いるため、売り買いの情報は自然とここの常連である新九郎にも知れる。そしてこの店が、合法と非合法の緩衝地帯であることは、ある程度帝都の裏側に通じた者なら誰でも知っている。つまり彼は治安組織とも犯罪組織とも同時に通じ、そして通じていることをその双方に知られながらも、調達屋としての抜群の腕で生き延び、帝都を渡り歩いている。犯罪組織は彼からの情報流出を知りながらも彼に頼らざるを得ず、一方で新九郎は、彼から得られる情報の希少性ゆえに、彼を天樹に突き出すことができないのである。

 腰が低く、いつも気弱で、少し問い詰められれば滝のように冷や汗を流す男。だがあまりにも田んぼの主に似た姿が本当の彼の姿なのか、知る者はいない。とぼけたようで得体が知れない。そうでなければ生き残れないのがこの街である。

「神林組の若いのがね、骨壷くらいの品物を抱えてここで待ってるあんたを見たそうなんですよ。油紙に包んでいて、中身はわからなかったらしいですが」紅緒が珍しく紙巻きの煙草を咥え、黒いレースの手袋をした手で燐寸を擦って火を点けた。「日付は、例の紫の雲が現れる一週間前です。心当たり、あるんじゃありません?」

「いやァ、なんのことだか、さっぱり……」

「別にあなたを責めるつもりはありませんよ」と新九郎が後を継いで言った。「僕らはそれが遮蔽装置で、あなたから装置を買った何者かは例の紫の雲を封じた蒸奇封瓶を持ち込んで即遮蔽し、一昨日解放したのではないかと睨んでいます」

 新九郎も煙草に火を点ける。

 左右からの煙を浴びる井ノ内は、新九郎と紅緒へ交互に目線を向け、苦笑いで汗を拭う。

「井ノ内さん、surrenderよろし」とマスター。

 街一番の情報通の女と、地球上で最大の武力を行使できる男に挟まれた、哀れなカエルが一匹。さらに背後を物言わぬ強面、正面を街で一番強かな飲食店主に固められた彼が、白旗を揚げるのにさほど時間はかからなかった。

「ええ、売りました! 売りましたよ!」と井ノ内は言った。「確かにあれは、ペンローズ放射の遮蔽装置です。オルゴノイド・カプセルを密かに輸送する時に使うもので、ええ、はい、わたくしが調達したのは旧第三帝国軍の蒸奇獣部隊に供給されていたうち、戦後に処分を免れたものです。当時は高値がついたのでかなり横流しされましたが、今となっては完動品を見つけること自体がなかなかに難しくてですね、はい。ご承知の通り、新規の製造は禁止されていますし……」

「どうやって手に入れたかには、僕は興味はありません。重要なのは、誰に売ったかです」

「誰に。なるほど。それは確かに、先生がご感心を持たれるのも、ごもっとも……。女将も同じですか?」

「仮にもうちのお客様が標的にされましたからね。看板に傷をつけられた分は、きっちり落とし前つけてもらわなきゃなりません。超電装にいつまでもうろつかれちゃ、商売にならんってえのも、ひとつです」

「なるほど、なるほど。それはお気の毒に。やはりああいったお店は……」

「誰に売りました?」と新九郎。

 曖昧な笑みのまま硬直する井ノ内。新九郎と紅緒が全く同時に煙草を吸い、井ノ内へ左右から煙が吹きかけられる。

 しばしの沈黙の後、井ノ内は口を開いた。

「煙です。信じていただけるかわかりませんが」

「ガス状生命体ということですか?」

「いや、そういうわけでは……そうなのかもしれませんが。とにかく、狐につままれたようで……」

「はっきりしませんねえ」と紅緒。

「わたくしにもわからない。これが正直なところなのです」井ノ内はカエルらしく喉を鳴らした。「遮蔽装置を買いたいという方から連絡を受けたのは、ひと月ほど前のことです。それからまあ、わたくしにも伝手がありますので、手練手管を尽くして入手しました。お相手様とはこの店で待ち合わせまして、ただ妙なことにですね、先方からの連絡は、最初の買いたいというお手紙だけだったのです」

「支払いや、受け渡しはどうされたのですか」

「その手紙に浮き出ました」

「浮き出た?」

「はい。差出人も何も書かれていない手紙でした。最初は、かくかくしかじか円で買いたいとだけ。最初はね、先生、わたくしもいたずらか何かだと思いましたよ。しかし文字が、ひとりでに変わったのです。『私はいつでも待っている。準備ができたら、受け渡し場所を指定して欲しい』と。しかもこれが、妙なことにですね……」井ノ内はそこで一度言葉を切ったが、誰も勿体つけることを期待してはいないことに数秒で気づいたようで、ばつが悪そうに続けた。「ゆっくりだったのです」

「ゆっくりとは?」と新九郎。

「文字通りです。ごく簡単な文言が、数日かけて少しずつ浮き出たのです」

「仕掛け紙の類ですかねえ」と紅緒。「暗号をやり取りするような。先生、ご存知じゃあありません?」

「心当たりはありますが……」

「いえ、ただの紙でした。その手の紙ならしばしば取引しますから、それは間違いありません」

「ひとりでにインクが消えたり、染み出したりする紙」新九郎は煙草を吹かしつつ応じる。「今はお持ちですか?」

「それがですね……わたくしが装置を手に入れ、〈BAR シルビヰ〉で受け渡したい旨を紙に向かって申し上げますと、『承知しました』という文字が浮かび上がりまして。その直後に、突然蒸発して、煙になってしまったのです。わたくしも様々な物品をこの街で取引してきましたが、あんなものを見たのは初めてです、はい」

「それであなたはこの店へ来て、神林組の若いのがあなたを目撃した。受け取りに来たのは、何者だったのですか。人間ですか。どこかの宇宙人ですか。それとも……」

「誰も来ませんでした」井ノ内は手拭を握り締める。「わたくしが紙に向かって指定した刻限を過ぎても、誰も来ませんでした。てっきり、金を掴まされた運び屋の類が来るものと思っていたのですが……」

「でも、売ったのでしょう」

「ええ、そうなんです。もっとおかしいのはここからなんですよ、先生」井ノ内は、それが何かの段取りのひとつのように湯呑の番茶を飲み、続けた。「仕方がないのでわたくしね、装置を持って、店を出たわけです。そこの飲食街と、市場を抜けて、地上に出たわけです。すると、誰もいない。夜の八時くらいで、まだまだ電車もあるし飲み屋も開いてる時間にもかかわらず、人っ子ひとりいないのです」

 新九郎は煙草の火を消した。

 井ノ内の説明は、新九郎が夢で遭遇した光景によく似ていた。

「参った、どうしようなどと思うわけです。するとね、目の前の暗がりで、何かが動いていたんです。わたくしはそろり、そろりと近づいていきました。するとね、そこに煙が漂っていたんです。暗がりってのは、飲み屋のビールケースだったんですけどね、ビールケースの上に、こう、ふわーっとね。決して散らない煙草の煙みたいでした。で、そうこうしていると、今度はその煙が、急に風に吹かれたみたいにわたくしの肩の方へ、ひゅっ、とこう、流れてきた。じゃあどうする。当然、行先を見定めるべく、振り返るわけです。すると、ぼーっと立ってんじゃねえ、と誰かにすれ違いざまに怒鳴られました。あたりは元通りでした」

「話を聞くに、ウラメヤに入る時に似てますねえ」と紅緒。

「でも、私が持っていたはずの装置は消え失せ、代わりに現金の入った封筒を握っていました。私が提示したより、かなり大きな額でした。……それでね、先生に女将」井ノ内の姿勢が低くなる。「猫がいたんです」

「……猫」二本目の煙草に火を点ける紅緒。「何を勿体つけると思ったら、たかがにゃんこの一匹ですか」

「猫、ですか」と新九郎。

「元通りの場所に戻ってきたわたくしをね、一匹の黒猫がじぃーっと、見てたんです。それがもう、わたくしは怖くて、怖くて。だって真っ黒な猫なんですよ。それが人混みの中で、微動だにせず、じぃーっとわたくしだけを見ているわけです。気味が悪いったらありゃしませんよ」

 カエルも黒猫を気味悪がるとは意外である。ともすればこの井ノ内という男、宇宙人のふりして中身は人間なのかもしれない。

「じゃあ結局、カエルの旦那は買い手をちゃんと見定めたわけじゃないと、こういうわけですかい」

「煙でしょうね」と新九郎は言った。「銀河四方、宇宙八方によく見られる傾向なのですが、知的生命体はある程度の技術水準に達すると、自分より巨大な自分の似姿を作りたがるんです。人間なら大仏や超電装。あの紫の雲が、井ノ内さんが遭遇した煙の似姿として作られたなら、辻褄が合う」

 紅緒は眉を顰め、煙を吐いて応じる。「じゃああの雲は、何かの宗教的なシンボルということですか?」

「あるいは兵器」

 新九郎は紅緒と目線を交わす。

 さて、このカエルはすべて真実を語っているだろうか。

 強かな男だ。立場を弁えてはいるが、だからといって正直であるとは限らない。つまり嘘はついていないが、何かまだ隠しているのではないか。そのくらいの要領のよさがなければ、彼はとうの昔に東京湾の藻屑と化している。

 だが問い詰めても、そう容易に口を割らないだろう。そして彼が隠したいことならば、その通りに隠させてやらなければならない。この街の善と悪のいずれかに彼が完全に正直になってしまっては、彼の立場に特有の均衡が失われ、価値も失くす。ひと度踏み込みすぎれば、新九郎も井ノ内を情報源として使うことができなくなる。

 ここは合わせてやりましょう、と紅緒に目線で伝える。紅緒は肩を竦めて眉を上げて応じる。致し方ありませんね、とその目が言っている。

 井ノ内がおずおずと口を挟んだ。「あの先生、黒猫の方は……」

「十中八九、気のせいです」

「んな殺生な。あんなにじぃーっとこっちだけを見てたのに」

「しかしこうなると、あれがオルゴノイドである可能性濃厚です。何らかの精神攻撃的な手段を使うことも。あとは濃厚を確実にする証拠があれば、僕が〈闢光〉で駆除するのですが……」

 紅緒が薄ら笑いを浮かべる。「おお、勇ましい。いつもそのくらい熱心ならよろしいんですけどねえ」

「あなたに手出ししたからですよ。どこの宇宙人か知らないが」新九郎は改めて煙草に火を点ける。「……誰か、似たようなことを言っていたな」

「あんたへの皮肉なら、翻訳師のお嬢ちゃんが上手でしょうよ」

「いえ、そうではなく」

 見られている。

 雲が現れた日に、二ッ森姉妹がそう言っていたことが、新九郎の頭の中に引っかかっていた。

 猫はともかく、第一夜・第二夜の紅色怪獣グリムザンは、紅緒をよく観察して特徴を怪獣の姿へと落とし込んだようだった。赤い色。煙管の煙。そして紅色。書き方を変えれば、好色。色を好むといえば、花街そのものだ。

 新九郎は立ち上がった。

「少し、野暮用を思い出しました」


 訝しむ一同を置いて、新九郎が徒歩で向かったのは、上野駅から通り数本隔てた工房街。

 エフ・アンド・エフ警備保障である。

 外階段を登って扉の前に立つと、珍しく物騒ではなく賑やかな声が聞こえた。

 扉を叩くと、どうぞと応じる声。中に入ると、意外な顔があった。

「早坂くん?」

「あれ、先生」食べかけの饅頭を片手にした早坂あかりが応じた。「何か物騒なことでもあったんですか?」

「いや、ちょっとそっちのふたりに訊きたいことがあってね」新九郎は、まさに応接机の上に最後にひとつ残った饅頭に手を伸ばそうとしていた姉妹を見た。「……君らのその服は同じものを何着も持っているのか」

「まさか。よく似たものをたくさん持って着回しているのですわ」と二ッ森凍。

「探偵のくせに観察眼が足りないぜ」と二ッ森焔。「訊きたいってのはそれか?」

 水兵服に羽織姿で膝を揃えて座っている凍と、橙色の和風洋装で皮のベストを着けた姿で脚を組んで座っている焔。ふたりの正面に腰を下ろすと、最後に一個残った饅頭があかりの手で新九郎の前へと移動した。白い皮に『志ほせ』と焼き印された、塩瀬総本家の薯蕷饅頭だ。

「いいのかい?」

「争いの種ですから」なぜかやけに得意気なあかり。「それに、元々うちの事務所のいただきものですよ。先生が全然召し上がらないから、焔さんと凍さんなら喜ぶかなと思って、持ってきたんです」

「俺としても素直な妹が増えたみたいで嬉しいぜ、誰かさんと違って」と焔。

「わたくしとしてもしっかり者の妹が増えたみたいで嬉しいですわ、誰かさんと違って」と凍。

「ンだとコラ」

「なんですの?」

 途端に姉妹の間で目に見えない火花が散り始める。新九郎の隣であかりがため息をつく。これではどちらが妹分なのかわからない。ともかく、田舎から出てきて日の浅いあかりが気を許せる相手を見つけたのはいいことだった。

「訊きたいことというのはね」新九郎は言った。「僕がいくつか想定する中で、一番最悪の事態に至った場合の、対処法だ」

「例の雲のことか? 燃せと言うなら撃ってみるが」

「斬れとおっしゃるなら試してみますわ」

「違う」新九郎は姉妹の目を交互に見て言った。「君らとの戦い方だ」

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