4.ナッソーの祟り
江戸の昔から安産祈願で知られる水天宮。その門前町の名物といえば、人形焼だ。七福神やからくり人形の類を象ったカステラ生地にこし餡を包んで焼いたものが一般的であり、土産としても親しまれているが、焼き立てが一番美味であることは周知の事実である。
戦中は鉄砲や戦車を象ったものも売られていた。そして今の一番人気は、超電装焼きである。軍の四八式〈
そして袋に入った最後のひとつが〈兼密〉であることを確認した男は、それを口に放り込むとため息をつき、袋を丸め潰した。
「こいつぁ厄介なことになりそうだぜ。なあ駿ちゃん」
「門倉です。やめてくださいって何度言えばいいんですか」
狸腹と痩せ型。短く刈り込んだ総白髪と長すぎる前髪。丸顔と狐目。警視庁異星犯罪対策課の財前剛太郎と門倉駿也である。
彼らの目の前には、燃え落ちようとする人の背丈ほどの草がある。そこかしこに人間の舌のような肉厚な花弁の、紅白の花が咲いているこの草は、数日前に突然、石畳を割って往来の真ん中に生えた。やけにめでたい色使いから評判になったが、茎の無茶苦茶な硬さといくら引いても抜けない根の深さから「地球産の植物ではないのではないか」という通報が警察にあり、異星犯罪対策課と軍の憲兵が出動する騒ぎとなったのである。終いには政府の研究所や軍の科学部門まで登場し、出た結論は「なるほど地球産の植物ではない」だった。見ればわかる。
財前が火炎放射器を収めて整列する数人の憲兵とその上官に挨拶する間にも、新聞記者がフラッシュを炊く。めでたいものが燃やされたとあってか、取り囲む野次馬からは落胆の声も聞かれた。
そしてもうひとつ、この花にまつわる気になる噂があった。
「警部どの!」と所轄の警官が近づいてきて、踵を揃えて敬礼する。「あの男です。妙なことを口走っています。しかし率直に申し上げて、正気かどうかも……」
「正気の街にあんなバカでかい宇宙船は降りてこねえよ」肩を竦め、聳え立つ天樹を顎で示す財前。
警官が指す先では、浮浪者のような男が他の警官らに取り押さえられている。近づいていくと、何か言う前からその男が怒鳴った。
「祟りじゃあ……ナッソーの祟りが!」
「ナッソー? 妖怪の類か」気取った所作で顎に手を当てる門倉。「聞いたことがないな。財前さん、いかがです?」
「バハマの首都かな。最近英国から独立したんだよ。お前さん、国際情勢にはちゃんと敏感でありたまえよ」
「五年以上前です。最近ではありませんよ」
「むむ……」
「ナッソーとはなんだ。知っていることを話せ」浮浪者を見下ろし門倉は言った。
「ありゃおっそろしいもんだ。ただの草じゃね、あれは鏡さ」
「鏡?」鏡でも見ているかのように前髪を直しつつ、門倉が応じた。
「そうだ。叩けば怒る。でも愛でれば周り全部幸せになるんだ。それを燃やすなんて、とんでもねえ!」
「周りが幸せに……一体どういうことだ」
「あー、もしかして、例の噂のことか」と財前。
紅白草が生えたのはここだけではない。それぞれに花を摘まれる、短冊を掛けられる、放置されるなど様々な運命を辿ったが、生えた地点の周辺住民のうち、妙なことを口走る者があった。この浮浪者のように祟りを叫んだり、仏像か何かのように拝んだり。とりわけ妙だったのは、惚れ薬の噂である。
「惚れ薬ぃ?」門倉が眉を寄せる。
「噂だ、噂。こいつの花には桃色の露がつく。これが惚れ薬になる、って噂だよ」
浮浪者が口を挟む。「愛で満たされたいんだよ。だから暴力なんて絶対に駄目なんだ。俺は見たんだ……」
「この男のこと、軍の連中は?」警官に耳打ちする財前。
警官はにやりと笑う。「もちろん、知りません。頼みましたよ、刑事さん。やつらの鼻を明かしてください」
「んじゃあこいつの話の続きは署で聞こう。連行しろ。くれぐれも軍の皆さんのお手を煩わせるなよ」財前は警官に告げ、門倉の方を向き直る。「またぞろ面倒なことになりそうだぜ」
「やっと例の〈
「まるで晴天のように」燃え落ちる紅白草を見つつ、財前は肩を落とした。「蒸奇探偵の出番にならなきゃいいがな」
*
「ほ、ほ、ほほ、惚れ薬!?」身を乗り出す勢いのあまり、田村景の眼鏡は外れかけていた。「撫子さま、なんだってまたそんなものを……」
「わけあって、どうしても必要なのです」やはりぐいと身を乗り出すのは、北條撫子。「お願いします、早坂さん!」
「えーっと、つまり、巷で噂の、紅白草から採れる惚れ薬を手に入れて欲しいという、ご依頼?」
そうです、と応じた撫子は、握り拳の両手を胸元に寄せて気合十分。冗談でも嘘でもない。
上野公園の一角にある東屋には、四方八方から蝉の声。家の付き人がどこへ行くにもついてくる撫子は、学業のための調べ物で美術館へ行くのだと偽って、あかりをここへ呼び出した。できれば田村さんもご一緒に、というのが撫子の言であった。
夕方の公園は、気分転換の場所を求める学生や、外回りの途中でひと息入れていると思しき会社員の姿が目立つ。撫子の真っ直ぐすぎる目線を苦笑いで逸らすと、母親に連れられた小さい子供と目が合う。手を振ってくれたので、あかりも同じように応じる。木陰で似顔絵師が客を待っている。いつも通りの風景がある。
「いやー、解せん。あたしゃあ解せんよ」吹っ飛びかけた眼鏡を指先で直しつつ景が言った。「だって撫子さまに靡かない男って誰よ。北條の孫娘で、気立てが良くて学業の方も優秀で、その上この可愛さ! 男なら誰でも一〇八本の薔薇の花束片手に跪きましょうて」
「そんなあ。褒めても何も出ませんわ」当の撫子は呑気に頬に手を当てている。
「誰。その不届き者の男は誰。誰誰誰! 白状せい!」
「それは」撫子の目線が、ちらりとあかりを見た。「絶対に申し上げられません」
「むむ……」
「でも、何があったのかくらいは教えてよ」あかりは腕組みになる。「だって紅白草って地球のじゃないって新聞に書いてあったし。それから採れるものなら、もちろん地球のものじゃないし。噂が本当なら、人間の精神を弄る星外品の薬ってことだよ? それを……」
「覚悟の上です」撫子は即答した。「実は……先日縁談がありまして」
「え、ええ、縁談ッ!?」景がまた勢いよく身を乗り出し眼鏡が外れかかる。「や、やっぱ本物のお嬢さまは違うわ……」
「祖父が決めた結婚です。六歳の時から、わたくしの許嫁はあの方だと聞かされてきました」
「すげー。憧れるわあ、そういうの」また眼鏡を直す景。
「好きなの? その人のこと」あかりは訊いた。
「はい。ずっと、ずっと、心よりお慕い申し上げておりました」
「……素敵だねえ」と応じつつも、あかりは内心では真逆のことを考えている。
親が決めた結婚なんて、真っ平御免だ。モダンガールの正反対だ。何が幸せなのか自分で考えさせてももらえないような人生を送りたくはない。六歳の時から言い聞かせるなんて、それは洗脳と変わりない。親が考えた価値観に子供を染め抜いているも同じではないか。
しかし、赤い顔で俯いている撫子に向かって、そんな言葉をぶつけることはできない。誰かのことが本気で好きで、思うだけで言葉少なになり、心がここではないどこかへ飛んでいってしまう彼女を見ていると、自分が置いてきぼりにされたような気分になる。撫子が知っている感情を自分が知らないことに、あかりは焦りのようなものを感じてしまっていたのだ。
「わたくしももう一五です。結納を交わして、正式にお話を進めようと、お爺さまが。それで先日、その方をお屋敷にお招きしたのですが……彼はわたくしのことなど目もくれず」掌を温めるように握る撫子。「お繋ぎした手を振り払われました」
渋い顔になる景。「うわ、ひでえ。そんな男に真剣になることないよ。次行こう、次」
「ですが……わたくしが好いた殿方は、あの方しかおりません」俯いて、組んだ自分の指先だけをじっと見ていた撫子の目から、涙がひと粒落ちた。「代わりなどいないのです」
それで自分の発言の迂闊さを悟ったのか、景は慌てて立ち上がり、撫子の隣に座って肩を抱く。
政略結婚に違いない。
飛ぶ鳥落とす勢いの北條財閥と、その孫娘。彼女を嫁に迎えて、北條とのつながりを作りたい一族は数限りない。北條の家としても、娘は大事な交渉道具に違いない。規模は比べ物にならないが、あかりもまた、地主である実家の周辺で似たような話はいくつも耳にした。いつか自分もそうなる、という恐れが、あかりの足を帝都へ向けた一因でもある。
まず結婚し、そこで幸せを見つける。だがそれは単に不幸に慣れ、手に入れられたかもしれないもっと大きな幸せから目を背け、自分を騙すことのように思えてならない。他人の野望や思惑のために犠牲になる自分を肯定的に捉えるための、もう助からない負傷兵に投与されるモルヒネのようなものが、女の幸せという言葉の意味なのではないか。
しかし同じ頭の中では、ひとりの男性への憧れを語る撫子を、羨ましくも思っている。
「わかった。そのご依頼、わたしが引き受けます」
「本当ですか、早坂さん!」途端に顔を上げる撫子。
「うん。当てもあるし」
「マジで」と今度は景が食いつく。
「当てっていうか……そういうのなら絶対うちの先生のところに情報が集まるし。手に入れられないか頼んでみるね」すると撫子の表情が急に曇るので、さらにつけ足す。「……もちろん、撫子ちゃんからの依頼ってことは伏せて」
「ありがとうございます! 必ずお礼はいたしますわ。なんでもお申しつけください。わたくしで無理なら、祖父に頼みます」
「ほほお……」超電装を一機、と言っても応じてくれそうだ。「おケイちゃんも欲しい? 惚れ薬」
「あたしゃあいいかな。そのへんに財閥の落し胤でも落ちてりゃ話は別だけど」
「ははは……」あかりは乾いた笑みで応じた。「意外とそのへんにいるかもよ、財閥の落し胤」
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