0.幻之丞・魔都倫敦血風録(中編)

 四人のうちひとりは、暗い紫色のシャツに縦縞模様の黒い上下。年の頃は二〇代の半ばほどか。大きく開襟した胸元からは金の鎖のを提げていて、夜だというのに真っ黒な眼鏡をかけている。日本にいればひと目でやくざ者と知れる服装だが、魔都倫敦においてはただの悪趣味だった。だがその男は、右手の中指に派手な指輪を着けている。三本の爪が丸い石を支えており、その石の内部で常に暗い光が渦を巻いている。超次元現象を引き起こし、空間を捻じ曲げて遠隔地から物体を転送する量子倉クアンタ・クローク技術を用いるための鍵となる指輪だ。

 その指輪のやくざ者が、修験者のような梵天袈裟に白装束の男を庇いつつ言った。

「導師、ここは俺が」

「結構です、榊さん」と応じた白装束は、まるで浮浪者のようだった。伸び放題の縮れた髭が長髪と一体化し、被り物でもしているかのよう。その男が、懐から巻物大の何かを取り出した。「これを試さねば、博士たちがまたピーピーと喚いてしまいますからね」

 導師、と呼ばれた白装束の男は、巻物のような筒の先端に、煙草の箱ほどの装置を接続する。灰色をした金属の筒の表面には黒い三角型の模様が描かれており、装置の方は透明だった。繋げるとまるで機械の松明か何かのようにも見える。男はそれを、銃を向けて動くなと叫ぶ衛兵たちと、洋刀を抜いた超電装に向けて掲げ、筒の中ほどにある突起を押し込んだ。

 雷が落ちたような光が瞬間、走った。

 男は装置を懐に収め、歩き始める。榊と他ふたりも後に従う。衛兵たちは、彼らを見送ることすらしない。ただ呆然と虚空を見つめている。〈グレナディア〉が取り落した剣が、土埃を上げて芝生にめり込む。そのまま〈グレナディア〉本体もその場に崩れ落ちる。

「どうなったんです」と榊。

「真界」と導師は応じる。「彼らの内に秘めた欲望がすべて叶う下天の世界へ、束の間の旅をしているのです」

「幻ですか」

「いいえ、実在します。感じられないだけで。存在しないものに、心を動かすことはできません」

「それはじゃあ、あるのもないのも……」

「時がない」と背後の男が耳打ちする。「我らが世界を救わねば、人はみな夢の中」

「目覚めのために」

「目覚めのために」

 男たちが声を合わせる。共に同じ声。同じ抑揚。揃って灰白色のぼろ布を被り、姿も顔を影に落ちている。だが彼らが動けば金属が擦れる。被り物の奥では電子光が明滅する。右の男は緑に。左の男は赤に。

 修験者、やくざ者正体不明の男たち、合わせて四人の異様な集団。爆発に驚いた野次馬を睥睨しながら正門を出て、左右を見回し違和感に気づく。

 直ちに迎えに現れるはずの仲間の車が、あろうことか往来で転倒しているのだ。丁寧にタイヤが切り裂かれ、完全に走行不能に陥っている。運転手は席から上体を晒して意識を失っている。そしてその傍らに、司祭服に二刀を構えた、奇天烈そのものの男がいる。

「観念しろい、悪党」と男――葉隠幻之丞が日本語で言った。「金目の物と〈アルファ・カプセル〉、置いてきな」



 曲者四人衆の動きは早かった。

 ぼろを被った男のひとりが、白装束とやくざ者を小脇に抱えて跳躍する。見上げるほどの高さ。ちょうど通りかかった二階建てバスの上に着地する。

 そしてもひとりのぼろ布男が、刀を構えて一足飛びに突進する幻之丞へ、向かってきた。

 布の影から閃く白刃。すれ違いざまに一合――超人を自認する幻之丞の腕をも、軽く痺れさせるほどの衝撃。

「ちきしょうめ、筋電甲オートシェルか?」

 胸元から声がする。「急げ幻之丞。カプセルは白装束が持っている」

 わかってるよ、と呟き、ちょうど現れた浮遊車の屋根へと幻之丞は飛び乗った。

 運転手が窓から頭を出して怒鳴る。「アイムソーリー」とだけ応じて次の車へ。「ヒゲソーリー」さらに次へ。「総理じゃないよ」さらに次へ。そして交差点へ差し掛かる。ちょうど信号が赤に転じる。危ういところで通過し遠ざかるバスを睨み、幻之丞は舌打ちして一気に跳躍。右から、よもや空から男が降ってくるとは思いもしない真っ当な安全運転で交差点へ進入してくる輸送車の荷台を踏み台にしさらに跳躍する。

 空を舞う謎の男を目にした市民が口々に叫ぶ――「鳥か」「神父さまよ!」「いや、サムライだ!」

 車の流れに追いつく。壇ノ浦の義経の如く次々と車を飛び移り、ついに二階建てバスへ飛び乗ろうとした時、横から店舗の窓を突き破って追手が現れた。

 置き去りにしたはずのぼろ布男――破れた隙間から覗く鋼鉄の腕。

 仰け反る幻之丞。その胸元から鼻先を白刃が掠めていく。ロザリオの紐が切断され、幻之丞が幾度となく祈りを数えるふりをした珠が散乱する。交錯のその刹那、幻之丞は、迫る刃が機械でできた腕の手首の部分に固定されているのを見る。

 反対側の商店にぼろ布男は突っ込む。さすがによろめきながらも姿勢を正した幻之丞は、とうとう二階建てバスへと飛び移った。

 騒然となっている乗客たち。だが、白装束の姿がない。やくざ者ももうひとりのぼろ布男もいない。

 なら下か。一階席へ降りようと座席の間を抜け、車体前部に設置された階段の手すりに触れようとした時だった。

 足元から発せられた強烈な殺気に、幻之丞は飛び退った。

 一瞬前まで足を置いていた場所を、下から発射された何かが貫く。続けざまに発射――後方宙返りの連続で躱す幻之丞。二階建てバスの鋼板を豆腐のように貫くそれは、握り拳大の、鏃のような形をした短刀だった。

 時を同じくしてバスが急停車する。

 制動力がまるで存在しないかのように体幹の平衡を完全に保ったまま、次の一射に備えて構える幻之丞。

 だが、代わりに目の端に白装束が映る。車体後部へと幻之丞を追いやった隙に、前方の乗降口から脱出したのだ。

 緑の発光機を持つぼろ布男がまたふたりを抱えて跳躍する。飛び去る先には鉄道駅。

 舌打ちして追いすがろうという時、再び疾風のような殺気が背後から迫った。

 飛び込んでくる赤い発光機の男。相手をする理由はなかった。

 宙返りしながらバスから飛び降り、ぼろ布男の斬撃を躱す。バスの乗客が悲鳴を上げて次々と降車し、騒然とする通行人に出迎えられる。血の臭いが鼻をつく。バスの運転手が背中を鏃のような短刀で貫かれ、運転席で事切れていた。彼はそれでもバスを安全に停めたのだ。

 上から両腕の剣を交差させて振り上げたぼろ布男が迫る。

「鋭!」

 二刀と二刀の激突に火花が散る。落下の加速が加わった斬撃を、幻之丞の膂力が上回った。

 だが敵もさる者。弾かれても即座に体勢を整え、再び斬りかかってくる。

 一合、二合と打ち合う。周囲は野次馬だらけ。目の端に、発車を待つ列車がある。その屋根の上に、白装束を含む三人の姿。

「幻之丞!」と胸元から檄が飛ぶ。

「うるせえ! こいつ、なんて馬鹿力……」

 鍔迫り合いの刀を押し返し、布に覆われた心臓のあたりを柄で打ち据える。甲高い音。金属のような妙な手応え。明らかに生体のそれではなかった。

 数歩後退するぼろ布男。まるでこれまでの斬り合いが準備体操だったかのように肩と首を回す。人間の関節ではありえない角度。微かに蒸奇モータ音がする。

 そしてぼろ布を脱ぎ捨てた。

 捻じ曲がった艶のない銀色の部品が無数に織り上げられ、まるでうっかり塗装ラインに紛れ込んでしまった人体模型のよう。発光機は頭の中心に位置しており、さながら一ツ目の怪物だった。両手の甲には固定式の刀。そして刃渡りの短いものが、切先を後方上に向けて頭部に設置されている。頭にめり込んでいるかのようだった。

筋電甲オートシェル……いや、全電甲フルシェルドか」幻之丞は二刀を構え直す。「こんなやりすぎトンデモ生体兵器、地球の技術じゃねえ。お前さん、カッショーの残党に改造されたな?」

「夢の守り人、赤のソードマン」と男が言った。抑揚が不自然な機械音だった。全身から微かに漂う翠緑の光が、まるで闘気のようだった。「行かせはせん、葉隠幻之丞」

 後ろを向いていた脳天の刃が脳天のあたりを軸にゆっくりと回転し、斜め前上方を向いて固定された。まるで一本角の鬼。そして。

「……ここから本気の三刀流ってか。ちきしょうめ」

 駅から発車の鐘の音が響く。だが、背を向けられるほどたやすい相手ではない。

 全電甲フルシェルド、即ち肉体を可能な限りすべて機械に置き換えた超人兵士は、葉隠幻之丞といえど初めて戦う相手だった。戦時中に試行され、失敗した研究として噂は聞いたことがあった。つまるところそれは、脳と肉体の関係への完全な理解と、脳の活動を維持するための機構を人体よりも小型化して搭載する技術が必要だからだ。

 一五〇年ほど前、この英国でひとりの天才が死者の肉体を継ぎ合わせることで強靭な肉体と知性を併せ持つ怪物を作り上げた。だが、そのヴィクター・フランケンシュタインという天才の背後には、優れた生体改造技術を有する異星人、カッショー星人の指導者がいたことが現在では通説になっている。

 その後もカッショー星人は地球上の各地に出現し、巨人・怪人・怪物の伝説という痕跡を残した。帝都東京では双子の女学生を拉致し、生体兵器へと改造して送り返した。

 シャーロックが予言したカッショー星人の関与。その証拠たる禍学の怪物が、三本の刃を幻之丞に向けていた。

「幻之丞! 列車が出るぞ!」また胸元の赤い光球が騒ぐ。

「落ち着けよ。第四次元と意識が繋がった高度な半精神生命体なんだろ」

「私は君らの言葉で言うヤンキーであり、プロレタリアートなのだ」

「どっちかというと左翼かぶれの学生だろ……んん?」

 幻之丞の第六感が異物を捉えた。

 野次馬がざわつく。幻之丞は刀を収める。〈赤のソードマン〉を名乗る全電甲が、怒りを表すかのように発光機を明滅させ、石畳を蹴って突進する。

 その時、野次馬を割って一台の車がけたたましい発動機の音とともに真横から出現。空を写すほどに磨き上げられた黒い車体を台無しにしながら、一切速度を緩めずに〈赤のソードマン〉に横から追突した。アストンマーチンDB5――大英博物館の監視中に数回現れた謎の車両だった。

「そいつは頼んだぜ、女王陛下のしもべさんよ」

 言い捨てるや否や全力疾走。野次馬をかき分け、車の屋根から建物の屋上へと駆け上り、さらに屋根伝いに走る。そして気合声を上げ、まさに駅を離れようとする列車に向け跳躍した。

 折しも満月。昇り始めた月光を浴び、十字に組んだ刀を背負った黒衣の神父もどきが宙を舞う。

 そして最後尾車両のこれまた最後尾にたたらを踏んで着地。前方の三人組を睨み据え、目一杯引き絞られた矢のように走り出した。

 流れていく景色。漂う蒸奇。倫敦の街は高層ビルに乏しい。市街のどこでも手近な丘に登ればセント・ポール大聖堂が見えるように規制されているのだ。江戸の大火、大正の震災、彗星爆弾の空襲、そして5号怪獣と、街を丸ごと造り直さざるを得ない災厄に幾度となく見舞われた帝都東京とは都市計画の根本の発想が異なっている。

 その聖堂のドームと夜に沈む庭園を左手に望み、列車は進む。常人を遥かに越えた肉体を持つ幻之丞が一歩進めば、鋼板でできた列車の天井が凹む。そのうち乗客が窓から顔を出す。

「引っ込んでろ!」と幻之丞が英語で叫ぶ。まさにその時、正面から刃が飛来する。

 これもぼろ布を脱ぎ捨てた、闇に浮き上がる緑の発光機を持つ全電甲の男が、両手から交互に短刀を投擲していた。

 応じる幻之丞も身を捩り、伏せ、そして刀を抜いて弾き飛ばし、なおも前進する。

「何本持ってやがるんだ」と呟くと、

「五ダースくらいだね!」とどこからともなく応じる声があった。

 胸元に手をやるが、彼ではない。すると、足元に突然、きれいな円形をした人の顔のようなものが出現する。羅馬ローマの真実の口を思い出す奇妙な能面だった。

「なんだおめえさん」

「やあ! 僕はトミーだよ、ミスター・ゲン。僕はこの列車だ」円形の顔がにっこりと微笑む。「君のことは聞いてるよ。僕のお父さんで師匠のシャーロックからね」

「あいつ、こんな立派な息子がいやがったのか……」

「この街の列車はみんな、僕みたいに、天才のシャーロックに造られた知性化列車なんだ。あれれー、もしかして知らなかったの?」

「なら停めろ! 連中を逃がすわけにはいかねえ」

「うーん。でも、時刻表通りに運行するのが僕の使命で、僕の産まれた意味なんだよなあ。停めたらふとっちょのボスに叱られちゃうよ」

「世界の平和と星界の安寧が……」飛来した短刀を弾く。「かかってるんだぜ。ちょいと融通利かせてくれよ、なあ」

「それは駄目だよ、ミスター・ゲン」

「一貫性とは、想像力を欠く者の最後の拠り所である」

「人生とはシンプルであり、シンプルなことこそが正しい」

「オスカー・ワイルド」

「君もだね!」トミーの笑顔が列車の上を進む幻之丞の足元を追いかける。「英国人の言葉を引用して、皮肉のつもりだったかな?」

「皮肉で英国人に喧嘩を売った俺が間違いだったよ。いや、人間じゃあねえか……」

「まもなく停車しまーす」

「停まんのかよ!」と叫んだ直後、幻之丞は慌てて身を屈める。駅舎の梁が白髪交じりの幻之丞の髪を掠めた。

 テムズ川に架かる橋の上に造られた駅に列車は滑り込む。まるで屋根の上の乗客など存在しないかのような滑らかな減速。完全に停車するや否や、幻之丞は一歩で客車の半分を飛び越えて、たじろぐ三人組へと迫った。

 耳元を掠める短刀――とうとう緑発光の全電甲男の懐に飛び込む。

「蒸奇殺法、兜落とし」

 両手の刀で左右から繰り出す必殺の突きが全電甲男の喉仏を狙う。頭を落とさない限り死なない異生物に対抗するために他でもない幻之丞が編み出した技である。ちょうど脊椎のあたりで二刀が交差するため、頭部に脳があり全身の運動を司っており神経のような機構で肉体へ命令を伝達している生物ならば、確実に仕留めることができる。

 もちろん、刃が届けばの話である。

 火花が散る。全電甲の男が、仰け反り、本来刃の交点になるはずだったところへ両手にひと振りずつの短刀を重ねて受け止めた。明らかに人間離れしたその挙動に幻之丞は舌を巻く。

「願いの守り人、〈緑のダガーマン〉」

 脳天にめり込むように切先を斜め後方に向けて固定されていた鏃型の短刀が、ゆっくりと回転して前を向き、固定される。即ちこれがこの全電甲軍団の共通仕様。同じ仕様で製造された他の個体も存在するのかもしれない。

 駅の利用客が場違いな奇人怪人を見上げて唖然とする。客車は飛び降りるには高い。榊、という男と白装束の導師が躊躇っていると、駅舎に鐘の音が響いた。

「発車しまーす。列車揺れますのでお気をつけください」また足元に現れたトムの顔が言った。嫌味ったらしく、幻之丞と〈緑のダガーマン〉の足元を滑るように往復移動している。

 振動が走る。列車が動き出す。幻之丞の二刀とダガーマンの短刀の拮抗が崩れた。

 一旦距離を取る両者。再び肉薄せんとする幻之丞へ短刀が投擲される。列車はテムズ川を渡る。後方車両に新たな敵の影。置き去りにしたはずの、赤い発光機を持つ三刀遣いの全電甲だった。

 一方の榊と白装束は、客車から眼下の川を覗き込む。そして腰を沈めた。

「飛び込もうってか!?」

 逃げられる、と直感する。彼らは、決して闇雲に逃げていたわけではないのだ。大英博物館から車で逃走し、その後の計画が彼らにはある。ヒースローとは反対の東へ逃げたのは、航空機のハイジャックなどではない手段を用意しているからなのだ。

 だが、そこへ新たな乱入者が現れた。

 今まさにテムズへ飛び込もうとしていたふたりの行く手を阻むかのように、宵闇をかき消す激しい光と共に、真下から空飛ぶ男が現れたのだ。堂々たるショルダーラインのシングル・スリーピース。質実剛健なストレートチップの革靴。暗い褐色の髪を七部に分けた伊達男だが、背負った推進機のせいで何もかも台無しになっている。片手に拳銃。走る列車に速度を合わせながら撃つが、さすがに当たらず客車の鋼板に火花を散らすばかり。

 しかし、川へと逃れようとしていた榊と白装束の思惑は潰えた。列車は橋を渡りきり、大きく左、テムズ川の流れと同方向へと進行方向を変える。

 男は背負い物を脱ぎ捨てつつ着地。直後に〈緑のダガーマン〉が彼に襲いかかった。

「葉隠幻之丞だな!」と男が叫んだ。

「味方か!?」

「君が女王陛下の敵でない限りね」男の靴先から刃物が現れ、〈緑のダガーマン〉の短刀を蹴り飛ばした。「車を壊してもあの赤いのを止められなかった。そこは素直に詫びよう」

「さっきのDB5か」応じた直後、追いついてきた〈赤のソードマン〉の刃が幻之丞に迫った。

「気に病むな。私の車はいつも壊れる」男は〈緑のダガーマン〉に組みつきながら言った。

「噂の不死身の忍者か。認識番号は? 何番だったか忘れたが、やたら優秀なのがいると聞いたぜ」

「私は……」全電甲の怪力と不死身の超人の力比べ――次第に全電甲が優勢に。

 〈緑のダガーマン〉が得意気に発光機を明滅させ、一方で〈赤のソードマン〉の苛烈な打ち込みに幻之丞が軽口の余裕を失くした、その時だった。

 不意に強く吹いた風が、伊達な英国紳士にして超人諜報員である男の髪を、吹き飛ばした。

 倫敦の夜霧に溶けていく――残った不格好な円形脱毛症の頭。

こんちきしょうBloody Hell!」

 獣のような雄叫びを上げる男は、怯んだ〈緑のダガーマン〉に突進。もつれ合いながら列車から滑落した。

「忍者ーっ!」

諜報員エージェントだ! こっちは私が引き受けた!」

 男の声が遠ざかり、幻之丞は胸元へ向け呟いた。

「覚えときな。ハゲってのは辛いんだ」

「殺し合いよりもかね?」とはぐれ者の〈奇跡の一族〉が呑気に応じる。

「時と場合によっては」

 軽口を叩く間にも幾合も交わされる刃の応酬。〈赤のソードマン〉の疲れを知らない猛攻に、さしもの葉隠幻之丞もたじろぎ、苛立つ。

 相手は鋼。切断するのは容易ではない。そして、機械仕掛けの男に切断できるような隙はない。

「よお、そこの白装束とやくざ!」打ち込みを一度受け、身を沈め、一気に跳ね返してから幻之丞は叫ぶ。「何を待ってやがる? お前さんがたも日本人だ。日本へ帰るんだろ?」

「黙れクソジジイ!」やくざ、榊の方が懐から拳銃を抜き、撃った。

 意外にも、ほとんど偶然に幻之丞の後頭部に迫る弾丸。だが、花が舞うように閃いた刀のひと振りが、この上なく正確に鉛玉を弾き返した。

 榊が悲鳴を上げる。弾丸は彼が構えていた拳銃の銃身に的中したのだ。たまらず手放し、銃は客車の屋根から滑り落ちる。

「なあ御老体。アルファを奪って何をする?」迫る〈赤のソードマン〉を蹴り飛ばす。「世界征服か? 巨万の富か? 残念だがそんな危なっかしいもの、〈レッドスター・ファミリー〉のアホどもでも買わねえぜ」

「葉隠さんでしたね」白装束が一歩進み出る。「あなたは夢を見ますか?」

「あぁん?」

 なおも立ち上がり向かってくる〈赤のソードマン〉に、幻之丞は舌打ちした。

 呼吸を整え、刀ごと両手首を二回転。そして突進してくる全電甲へ振り上げる。

「鋭ッ!」

 右、左、そして左右同時。三連撃が夜霧を裂く。数秒の沈黙。線路を突き進む列車の音が研ぎ澄まされていた空気を砕いていく。

 そして、突如として〈赤のソードマン〉が後方へと吹き飛ばされた。

「蒸奇殺法、鬼ノ爪」幻之丞は左の刀を鞘に収め、右の刀を白装束へと突きつけた。「悪いが人外相手は俺の専門だ。観念しな」

「蒸奇殺法……?」榊が目を見開く。「まさか伊瀬新九郎の」

「おおっ、あいつを知ってるのか」

「忘れるものか!」榊は右の袖を捲くりあげると、見事な刺青があった。「野郎のおかげで俺は府中のブタ箱送り! この昇り龍に誓ってあの野郎だけは絶対に許さん!」

「あいつ、絶対忘れてるぞ。お前なんかのこと……」

「なんだと!?」

「たぶん誰も覚えてない」

「そんな!」

「榊さん」白装束が懐に手を入れつつ進み出る。「彼のような方には、ご説明するよりお見せする方が早い」

「何を」と幻之丞。

 にたりと笑い、白装束は言った。「我々の夢を」

 幻之丞の背筋に悪寒が走った。

 大英博物館の前で感じた圧倒的な存在。胸に〈奇跡の一族〉を飼っている元特定侵略行為等監視取締官・葉隠幻之丞をして戦慄さしめる恐怖の権化が、姿を現そうとしている。

 恐れるのは知らないからだ。幽霊の正体見たり枯れ尾花、という言葉もある。実体がなんなのかを自らの目で確かめ、理屈で解釈すれば、恐怖というものは立ちどころに消え、理解できている恐怖は高揚へと変わる。

 ならば、人類がどんなに認知の手を伸ばしても、決して正体を知ることのできない、外側の存在なら?

 きっと、ただ抗し難い恐怖だけが認識されるだろう。

 突きつけていたはずの小太刀の切先が我知らず震えていた。導師、とも呼ばれた白装束は、悠然と刃を逃れる。そして懐から取り出したのは、巻物のような金属の筒に透明な煙草の箱ほどの電灯のようなものを取りつけた装置だった。大英博物館で不可思議な閃光を放ち、警備兵を無力化したものだ。

 白装束の髭が幻之丞の腕に触れた。耳元で囁かれた湿った声が、幻之丞の頭の中へと忍び込む。

。……真界転生」

 閃光――世界のすべてが遠ざかる。

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