35.ファンタスティック
「おうおう、随分デカいのがいるじゃねえか」と男は言った。
下駄履き。無精髭。白髪交じりの髪を後ろに撫でつけ、口元には不遜な笑み。ほつれて汗染みだらけの黒い司祭服の胸元を開け、これ見よがしなロザリオを提げる。そして背中に、十字に組んだ二刀を背負っている。
空飛ぶ要塞島の岬に立ち、高空の風を一身に受ける男の名は、葉隠幻之丞。
足下の通信機に聞こえるよう大声で、幻之丞は怒鳴った。
「話は後だ。切札を持ってきた」
「ネタは割れてますよ。あんたが出鱈目に強いのは、
「だからそいつを貸してやる」
幻之丞はさらに胸元を開ける。すると現れる、鳩尾のあたりにめり込んだ赤く輝く光球。先代の天樹の主である〈奇跡の一族〉が封じられたものだ。
幻之丞は、彼とともに世界各地を旅した。地球生命と知的生命体の営みを見せるためだ。〈奇跡の一族〉にとってそれはただの観光ではなく、呼吸や食事に等しい行為だった。彼は地球を深く愛した。〈アルファ・カプセル〉の主とは異なる形で。
その光球を、幻之丞は掴み、癒着した皮膚を引き千切る痛みに唸りながら引きずり出した。
「目には目を。奇跡には奇跡を。ちゃんと返せよ、新九郎!」
そして幻之丞は、手にした光球を、傷ついた〈闢光〉めがけて力の限りで投じた。
〈奇跡の一族〉の姿を直に目にしたことのある人間は少ない。伊瀬新九郎とて、妻を失い星鋳物の信任を得たかの瞬間に一度だけである。普段は天樹の奥深くに隠れ住み、力が必要な時は、一族の遺体を用いた星鋳物に代行させる。彼ら自身がやむを得ず地上に現れる時は、必ず赤く光る超電装大の球体に乗る。新九郎や政府の人間と対面する時も同じく球体越しである。
しかし今、天樹の麓に逃れたすべての市民が、奇跡の目撃者となる。
葉隠幻之丞が投擲した〈奇跡の一族〉の元・五号監視官を納めた球体は、全身から物理の煙と超常の虹色をちらつかせる傷だらけの星鋳物第七号〈闢光〉へと吸い込まれる。
直後、〈闢光〉の全身がのけぞりながら浮き上がり、蒼白に発光した。摩天楼の灯りもかき消し、川向こうの金色の怪物の輝きさえも霞む強烈な光だった。そして、その光の中で、〈闢光〉の姿が変わる。
内蔵されていた光線砲が砕け、内側から押し出される。全身を覆っていた黒鋼の装甲板が分解と再構築を繰り返しながら次々と変形し、逆三角形のずんぐりとした肢体が細くしなやかな姿へと変貌する。
地球人よりもやや腕が長く、肩幅が広く、少し脚が短いところは、人々が見慣れた〈闢光〉の姿と共通している。胸のあたりの鎧と、頭頂部の偃月飾りも同じだ。だが細い身体を締めつけるような新たな黒鋼の装甲は、誰も見たことがない。全身を包む青白い光も。内側から透けて見える――目で見えるのではなく、存在を悟った者の五感のすべてに感覚される直立二足歩行の光の巨人も。そして胸に輝く青い光球も、かつてないものだった。
その体内で、伊瀬新九郎は歪みの中にいた。時が乱れ、心が交わり、自己を定める軛が半ば解けて知覚し得ないはずのものを知っていた。
頭の中であり外でもある場所から声が響いた。
「三分間だ。それ以上は、この骸と君が砕けてしまう」
「あなたは、〈奇跡の一族〉か。先代の」新九郎は応じたが、自分の声が自分の中から発せられているという確信が持てなかった。
「いかにも」
「そうか。僕はあなたであり、この星鋳物でもある。あなたは僕であり、この星鋳物である。そしてこの星鋳物は僕であり、あなたでもある」
「いかにも。私と君と、かつてかの者を封じた者の骸。愛と理を喰らう下天の者を、今こそ討つのだ」
「向こうが〈奇跡の一族〉なら、こちらも〈奇跡の一族〉とね。相変わらず馬鹿げたことを考える男だよ、僕の師匠は。手札が互角なら、負けないさ」
「あれを侮るな。あれは、いかなる世界にも存在してはならないものだ」
「世を記述する文書を書き換え、書く者と書かれる者を入れ替えることすら可能にする存在。これ以上野放しにはできないな。ところで」
「時はない。歪めるにも限りがある」
「こいつの名は」
「〈
「そのあなたがたがつける長ったらしい名前、僕は結構好きだよ」
「もっとファンタスティックにしろ、と幻之丞は言った」
「なら機装天涯の方は師匠か。そもそも星鋳物も師匠の名付けだったな……」
始めるぞ、と五号が言った。
歪められていた世界が動き出し、音、味、匂い、熱さ、触れるもの、見えるもの、感じられるものすべてが濁流となって押し寄せる。浮遊していた〈闢光・機装天涯〉が、吊り糸を切られたように落下。地響きを立て、砂塵を巻き上げ、瓦礫を跳ね飛ばしながら着地する。全身を包んでいた蒼白の光が、次第に胸の光球へと集った。
俯いていた頭部が前を向く。その先に見据えるのは、戦慄に震える金色の怪鳥だった。
隅田川を挟み、かたや焼け野原の上、かたや摩天楼を背に両者対峙する。
言葉はなかった。〈金色夜鷓〉の羽根と顎部、全砲門が〈闢光・機装天涯〉を照準する間もなく滅茶苦茶に連射される。炎生命体を吸い、恒星の力を〈アルファ・カプセル〉に捧げた今、動力源は無限に等しかった。同時に、〈金色夜鷓〉はすべての機動攻刃と機動防壁を射出した。一切の侮りなく、全火力をもって制圧するという気迫が現れた攻撃だった。
だが、着弾の煙すらなかった。
すべての光線は、〈闢光・機装天涯〉の発した桁外れに強力なペンローズ・バリアにより消滅。射出され近接攻撃を行おうとした羽根は、ひとつ残らず空中で捻られたように変形し、失力して落下した。
そして蒸奇光線の豪雨の中へ、〈闢光・機装天涯〉は歩みを進める。崩れた道路を踏み、川沿いの緑地を踏み、そして流れる水面の上を踏む。落ち窪んだ異型の両眼が、たじろぐように首を引く〈金色夜鷓〉を見た。
胸の光球が閃光を放った。誰ひとり、真正面の〈金色夜鷓〉と選留主でさえも、発射された何かを見定めることはできなかった。その正体は、たった今までのすべての光の砲撃を圧縮し、質量あるものへと相転移させ、光速の六割にまで加速された砲弾だった。
だが、同じ奇跡の力を得た〈金色夜鷓〉と選留主は、ただ撃たれるだけではなかった。発射の瞬間に機体を僅かに捻り、回避動作を行っていたのだ。
結果、砲弾は〈金色夜鷓〉の右翼を粉砕消滅させ、地球の重力加速度を意にも介さず、円に定規を当てて引いた接線のままの軌道で大気圏外へと飛び出し、消滅した。
そして、超高エネルギー体の発射により同時に起きる無数の原子核崩壊と発生する放射線は、ペンローズ・バリアにより閉じ込められ、二段構えの精密に制御された大爆発を招くはずだった。だが、その精密さは知性の証に他ならず、〈アルファ・カプセル〉に眠る者の餌となった。彼らは、母星においては、自ら精密に制御して引き起こした核融合反応のエネルギーを食べて生きるのである。
消滅した右翼が再生する。掠め取りし者、愛と理を喰らう下天の者が、吠える。
巨大な尾が焼けた大地を叩き、猛禽の脚が瓦礫を蹴散らし、はためく翼で嵐を起こし、大河の水を踏み分けて〈金色夜鷓〉は猛進する。そして身構える〈闢光・機装天涯〉と、正面から衝突した。
川の水が雨となって、摩天楼に降り注ぐ。あまりの暴風に、携行防壁を構えていた憲兵隊の超電装が転倒する。建物の先端に接触するほど高度を下げた〈GR〉の空中要塞が、飛行を維持する最低限の動力以外のすべてを費やしてペンローズ・バリアを展開し、足下の避難民たちを守る。葉隠幻之丞は、胸から血を流しながらも、腕組みのまま岬の先端に踏み留り、叫ぶ。
「馬鹿野郎! 街を丸ごと潰す気か!」
応えて、〈闢光・機装天涯〉が腰溜めに構える。そして下から上へ、天地を繋ぐような右拳を放った。
それを受けた〈金色夜鷓〉の下腹部装甲で、破壊と再生が連鎖する。だが、奇跡の光を宿した拳は止まらない。
翼を広げれば三〇〇米にも達する巨体が浮き上がり、空へと弾き飛ばされた。
「空は向こうが有利と思ったが」新九郎は他人事のように呟いた。「悪いね。こいつは、飛べるんだ」
一筋の光となって、〈闢光・機装天涯〉は矢のように飛翔する。音速を超える速度に衝撃波が生じ、人間の女のような叫び声を上げる〈金色夜鷓〉に肉薄。激突と同時に、両者のペンローズ・バリアが引き出す隣接界界面力が反発し、さらに強力な衝撃波が帝都の空を震わせる。
暗雲が打ち払われる。曇天が円形に切り開かれ、星空と粋な満月が姿を見せた。
「愚かな」と選留主が言った。「その力があれば、いかなる奇跡も一夜のうちに我が物にできるというのに」
「宵越しの銭は持たねえってのが、この街の流儀なのさ!」
〈金色夜鷓〉が次々と蒸奇光線を放つ。だが、主砲も副砲も回転式蒸奇光弾砲も、乱数機動を繰り返す〈闢光・機装天涯〉を捉えることはない。帝都の空を縦横無尽に交錯する無数の光跡。ペンローズ・バリア同士が衝突し、光線を弾き、光が夜空に花と散る。
それを見上げる地上で、誰かが声を張り上げる。
「玉屋ー!」
応じて誰かが叫ぶ。
「鍵屋ー!」
青く輝く黒鋼の拳が、再び〈金色夜鷓〉を捉えた。
弾き飛ばされる怪鳥はしかし、翼を広げて制動をかける。
「これはこれは」新九郎は通信を繋いだまま言った。「聞こえるか、選留主。これが江戸の庶民の心意気ってやつさ」
「己の死に喝采する愚かしさが心意気? 言葉は選んだ方がよろしいですよ、探偵さん」
「花火がありゃあ騒ぐ。家が潰れてもまた建てりゃいい。それがこの街の強さなのさ。お前も知ってるはずだ。芝の小料理屋の徳太郎さんよ!」
「そういうところが嫌いだった……昔からね!」
雨霰と放たれる光線――〈闢光・機装天涯〉は腕のひと振りで撥ね除ける。
「とうとう本音を出したな。大層なお題目を並べても、お前の根元は大方昔の鬱憤晴らしだろう。なぜ遊女たちを改造人間の素材にした? 東京の成功者を甘い言葉と偽りの奇跡で貶めるのは楽しかったか? どうなんだ、徳太郎さんよ!」
「二度と私をその名で呼ぶな!」
〈金色夜鷓〉は顎部砲を展開。六門の主砲と連動し、最大出力で放つ。蒸奇殺砲でも相殺しきれなかった蒸奇の奔流。だが、〈闢光・機装天涯〉は、掌を翳すだけでそれを防ぐ。弾かれた光線が開いた傘のような光跡を描く。そして応射。手刀が光の鏃となって飛び、〈金色夜鷓〉の羽根の一枚を砕いた。
怪鳥と教祖の動揺、その一瞬。
不規則な乱数機動を描いた〈闢光・機装天涯〉が、拳を振り翳し、〈金色夜鷓〉の懐に飛び込んでいた。
「終いだ、小野崎徳太郎」と新九郎は言った。
「真界転生!」と選留主が叫んだ。
そして青い光を纏った右の拳を、RJsfcx+MlV0VXH8nO/IB03TLCZpXXQSIida8N9rGbh44ce7NKdS1gffU68igdfi1RfQ11y/HVVX+CQIFO02Rle7+yfMnB13xa0g9mrtItBMaeoGj7Rt7yVhzIH6QtqeJ/WTscUycsOBXILTyIrsWRIXGPp5gcwHFqygDpxliXPrtiOJEznUrs86+Nmugfp3eqeB8HmN6iJ5dAqXA9JAa5+Abd0MLyDF77qekjwqHxVPgSHZd/FsDRIU2OBs+g1T0870XXsr8+phXHz2CRTOTPbIuEp+lUmC5MVMx50mVDfUa4HGzq2aUmmEIA3QAFuaE7o7pwNS8kmGdexMt05k51Q==
何事もなかったかのように、〈金色夜鷓〉の長大な尾が、〈闢光・機装天涯〉を横薙ぎに弾き飛ばす。
「無駄ですよ! これが私の手にした力! この世界を記述するものを無意味なテキストに変換する、〈
「やかましいっ!」
再び肉薄し、輝きを増した〈闢光・機装天涯〉の拳が、RJsfcx+MlV0VXH8nO/IB08AmsgSXquTY31NEgB51KaE=〈金色夜鷓〉の頭部へ的中した。
金色の嘴が折れ、牙が砕ける。片眼を潰し、額の一角を歪め、鉄の拳が存分に振り抜かれた。
「馬鹿な。復号した?」
「持つべきものは
「助手の娘か! ならばそちらを始末するまで!」
「そうはさせない」急降下しようとする〈金色夜鷓〉の正面に、〈闢光・機装天涯〉が立ち塞がった。「ここは通さない。そしてお前の手下は、僕の仲間たちが止める」
「たかが小娘ひとり、どうにでもなる!」
「奪わせはしない。一四の娘の輝かしい将来を、貴様みたいなおっさんにはね。……僕より年上だったよな、徳太郎さんよ!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。