29’.湾岸、C1、待たせたね

 長い長い山手トンネルを抜けると、そこはもう湾岸地区だった。帝都なら、八百八町の南端である品川やかつての海岸線を一気に抜け、東京湾内の埋立地に出ている。煌々と灯りが燃える清掃工場を横目に、依子はジャンクションの分岐を左に逸れて、台場・有明方面へと車を向けた。

 開けた窓から、排気ガスに混じって潮の香りがした。

 そしてまたトンネル。今度は東京湾の海底を貫いている。

 ナビを見る様子もない依子に、新九郎は訊いた。

「このルート、よく走るの?」

「風光明媚だからねえ。深夜は逆に走り屋の人が増えて……」言う間に、派手なエアロパーツとステッカーで装飾したスポーツカーが爆音を鳴らして隣の車線を疾走し、あっという間にテールランプが点になる。依子は苦笑いになった。「結構危ないんだけど」

「いいのかあれは」シートに身を埋めつつ新九郎は言った。

「駄目だよそりゃ。でも深夜の湾岸線って、そういう場所だからねえ」

 車は地上に出る。

 少し走れば、左右には台場の大型商業施設とテレビ局。そしてまた左の分岐に入る。ジャンクションに次ぐジャンクション。走り慣れていなければ、どこかで道を間違えていただろう。そして緩やかな登りに入り、景色が開けた。

 道路は運河を挟んでモノレールと並走している。その向こうに広がる景色に、新九郎は感嘆の声を上げた。

「風光明媚って言ったでしょ」と依子が得意満面で言った。

 埋立地に並ぶ高層住宅と黒々とした東京湾の向こうに、星空よりも眩い、都心を彩る無数の光が見えた。朧諸星、という言葉をふと、思い出した。星鋳物〈闢光〉の、通常は使用を許可されない大規模戦用の特殊戦闘術式である。自機の周囲に多数の蒸奇光線砲を生成して、狙い澄ました乱れ撃ちを縦横無尽に行うものだ。だが、あの光よりも淡く,そして弱い光が、途方もなく美しく見えた。きっと、人を殺すものではなく、人が生きている証の光だからだ。

 そして、一際目立つ巨大な構造物が、次第次第に大きくなる。

「ほら、見て」依子はフロントガラスの向こうを指差した。

 照明塔が次々と流れていく向こうに見えるのは、海を繋ぐ巨大な橋だ。すごい、と新九郎は呟く。虹色にライトアップされたそれを、帝都の私立探偵である伊瀬新九郎は知らない。だが東京の刑事である伊瀬新九郎は知っている。レインボーブリッジだ。

 彼方に広がる、芝浦や浜松町、汐留の高層ビル群。その光の中に、あり得たかもしれない過去と未来を新九郎は見る。

「綺麗だ」と新九郎は呟く。

「そういうのは、私の方見て言ってよ」

 依子のその物言いに、急に懐かしさが胸に押し寄せる。そう、こういうやけに自信満々の、向けられている好意を疑わず、そして自分の言うことなすことを恥じないところに、強く、抗し難く惹かれたのだ。

 先行車との距離が詰まり、依子が車のシフトを落とす。衝撃もなく、適切な回転数に合わせられたエンジンが唸る。緩いカーブを抜けて、車はレインボーブリッジへと差し掛かる。左右と上を区切る主塔は、ライトアップされ虹色に彩られている。見上げれば、超電装よりも高い。まるで、巨大な虹の門の中を通り抜けるかのようだった。

 空気圧を高めにしたタイヤが、橋の継ぎ目の段差をよく拾って車内が揺れる。車の流れが緩やかになる。皆、この絶景を眺めているのだ。闇の墨色に染まる東京湾と、星を堕としたような街の灯。

「湾岸線の特権だからねえ」と依子。「一般道もゆりかもめも、歩行者が通れる道も、全部下段だから。最上段は首都高」

「人間は、こんなものも作れるのか。天樹の助けなしに」

「もう三〇年前だけどね。開通したの」

「星外技術もなしに」

「まあ、この世界に宇宙人がいないとは限らないけど。最近は東京も外人さんが増えたけどねー。インバウンド、とか言ってるの」

「外国人の、外人?」

「あっちでは異星人のことを外人とか、異人とも言ってたよね」

「帝都東京は地球の宇宙人出島。外国人より宇宙人の方が多い」

 だったねえ、と気の抜けた声で依子は応じる。

「想像と実際の間に埋め難い隔たりがあるって、本当なのかな」と新九郎は言った。「時間はかかるかもしれないけど、この世界の人類は、想像したものを本当にする力をちゃんと秘めているように思える。この景色を見ていると」

 レインボーブリッジを抜けると、さっきまできらびやかな光だった街並みの中に車が飲み込まれていく。左右から迫るビルの壁。まるで切り通しの中を抜けているかのようだ。

「想像通りにいかないことが、沢山あるんだよ」と依子は語る。「誰もが毎日楽しく生きてるわけじゃない。誰もが明日に希望を持っているわけじゃない。朝日に結びつく感情が『喜び』じゃなくて『憂鬱』な人の方が多いんだよ。そうでなくても世界のどこかで今日も紛争をやってるし、毎日人は自殺する。テクノロジーの進歩は誰もが楽して幸せになる世界じゃなくて、富める者をさらに富ませて貧する者を置き去りにする世界を招いた」

「でも、設定に悲劇を書かれた人たちは、この世界での自分を希望として見た」

「別世界は希望に見えるものだよ。満州もブラジルもそうだった」

「それでもこの街に星鋳物の力は不要だ」

「悪がわかりにくくなったから。力で倒せば世の中がよくなる敵なんていないんだよ」

「そうなのかな。君が言うなら、そうなんだろう」

「いいこともあるけどね。かつて迫害されていた人たちが少しずつだけど、本来の権利を回復したり。社会システムの中に組み込まれていた搾取が少しずつ解消したり。まあこれは、あちらの世界でも時代が進めば達成されたかもしれないけど」

 程なく、また一度間違えたら後戻りが効かないジャンクションに差し掛かる。依子は都心環状線C1へと繋がる分岐へと車線を変えた。やはり、どこか楽しげだった。その理由は、数分後に進行方向右手に現れた光景によって明らかになった。

 全高三三三メートルの、紅白に彩られた電波塔。ライトアップされ、闇夜に滲むと、燃え盛る松明のようだった。

 東京タワーだ。

「あれは帝都にもあるよね」と依子。

「どうもへし折られたらしい。北極野郎め、この難局に及んで根性が足りない」

「頑張ってくれたんでしょう?」

「あわよくば倒してくれれば僕の仕事が減ったのだが」

「で、言うことは」

「はいはい東京タワーより君の方が綺麗だよ」

「どうもどうも」

 車はご機嫌に加速する。東京タワーはあっという間に後方になり、ジャンクションの陰になって見えなくなる。

 麻布から六本木を抜け赤坂へ。周囲には巨大なオフィスビルや商業施設が目立つ。やがて霞が関の首相官邸や庁舎群が見えたと思うと、車はトンネルに入った。並走する車に、露骨に官公庁らしい黒塗りのセダンが目立つ。

「ずっと気になっていたんだが」と新九郎は切り出す。「『Strange Steam』は、フィクションの寄せ集めなのか?」

「どうして?」

「見たんだ。宇宙戦艦。改造人間。巨大ロボット。どれも個別のフィクションとして存在していた。でも、僕がいた帝都にはすべてがあった。きっと、〈奇跡の一族〉もこちらでは個別のフィクションなんだろう」

「ポップカルチャーへの参照が多い作風なんだよねえ。すべてがあることが、大事なんだと私は思うけど。私たちがいたあの場所は、すべての夢が交差する場所なんだよ、多分」

「夢、か。選留主がそんなことを言っていたな。目覚めなければならないとか、なんとか」

「あれの意味合い、あなたにはピンと来てないと思うんだけどね。外から見ると、こう言ってるように見える。……『マンガばっかり読んでないで、テレビばっかり観てないで、そんなの卒業して、働きなさい』って。『勉強しなさい』かもね」

「物語の世界に浸っているんじゃない、現実を見ろ、と。妙に説教じみているというか……上から目線だとは思っていた。そう言われると、なんだか腑に落ちるよ。響くわけがない」

 ね、とだけ依子は応じる。車はトンネルを抜ける。

 振り返ると、案の定、こちらの伊瀬新九郎には馴染み深い、警視庁の建物が見えた。皇居の内堀に沿った高速道路は緩やかな上り坂で、エンジンが回転数を上げる。

「すると、やつを追って探せば思う壺かもしれないな。物語の世界を離れれば離れるほど、僕はただの男になる。追えば追うほど追いつけなくなる。つまり、あの瞬間を再翻訳するんだ」

「あなたを鍵とする、暗号化された物語の復号。言い換えれば……」

「僕はここからいなくなるってことだ」

 官庁街を抜け、またトンネル。抜ければ、道は緩やかに右へカーブしている。皇居の西側から北側に入ったのだ。春ならば一面の桜が拝めただろう千鳥ヶ淵を車は走り抜ける。

 流れていく街の夜景を愛おしげに一瞥して、依子は淡々と言った。「不思議なことだけど、私たちからすれば嘘でしかないはずの物語、虚構というものから、現実を生きる力を貰えることがあるの。無為な苦痛に満ちた、ままならない現実に立ち向かう時、心の中には、快刀乱麻を断つ快傑たちや、呪いを解く言葉をくれるヒーローのことを思い浮かべている。もちろん、そんな都合よくいかないよね、と醒めた目で見てしまうこともあるけれど……」

「誰かのため、というのもまたひとつの物語だよね」と新九郎は応じる。「他者のことをイメージするとは、自分とその人の間にある物語を思い浮かべることとイコールだ」

 眠らない神田の出版社や新聞社のビル群を左に見つつ、車は分岐に次ぐ分岐を抜ける。

「もっと面白いことは、力を貰うだけじゃないってことだと私は思う」車線変更を繰り返しながら依子は続ける。「力を送る。応援する。そういうこともある。私たちは、本のページや、パソコンやテレビの画面、スクリーンの向こうにいる人々に、彼らが実在しないとしても、エールを送らずにはいられない。誰かを応援することは、自分が応援されることとひとつなの」

「最も純粋な利他だ。人間の善性の証明でもある。だが、それは最も純粋な利己に非常に近い」

「心に麻酔を打つようなものだからね」

「酒を飲む。依存する。薬物に耽溺する。物語も、それと同じだ、とも言える。違いは、本は閉じれば、テレビは消せば、映画はエンドロールが流れてしまえば、終わるということだ。どんな物語にも終わりや区切りがある。立ち向かうべき現実がある」

「煙草だって、一本の終わりがあるじゃない」

「こちらの僕は、やめたことになっているはずだが」

「いや、気づいてるから。今日だけじゃない。毎日、帰ってくる前にどっかで吸ってるよね」

「そうか。極めて遺憾だ」

「あなたってさあ、都合が悪いと妙に口調が仰々しくなるよね」

 そんなことはない、と新九郎は応じる。依子が相手だと、昔から、なぜかいつでも旗色が悪い。

 車はいつの間にか東京駅の束になったJRの線路の上を過ぎ、環状線から6号向島線に入る。オフィスビルが大半を占めていた景色に、集合住宅が増え始める。突然に始まった首都高クルーズも、終着点に近づいていた。

 やがて、右手のビルの隙間から、あまりにも大きな尖塔が姿を覗かせる。新九郎が天樹東京として慣れ親しんだもの。こちらの世界では、墨田の中洲に降りた〈奇跡の一族〉の乗艦ではない。同じ全高六三四メートルを誇っても、あくまで電波塔あるいは観光施設だ。

「スカイツリー。だよね、あれ」

「もう少し寄るよ」

 隅田川の流れを助手席側に望み、中洲の岸に沿うように車は進む。展望台の上だけが見えて、また建物の陰に隠れることを繰り返す。それでも、北上すればするほどに、青白くライトアップされ、トラス構造に包まれた塔の威容はその大きさを増していく。アサヒビール本社の妙なオブジェを通り過ぎれば、もう見上げていては安全運転ができないほどの高さだ。

 左を見れば、川向うは浅草。隅田川に架かる橋を、〈闢光〉を駆り幾度となく防衛したことを思い出す。天樹への通り道になっているためか、このあたりはしばしば、新九郎の戦場となった。

 やがてスカイツリーは車の真横になり、後方になる。

 向島出口の表示が見えた。依子は車を出口へと寄せた。

「元いた場所に連れて行くから。元々あちらとここは鏡合わせのような関係だから、あの子の力が本物なら、あなたは同じ場所に立って、念じるだけで戻れるはず」

「あの子?」

「早坂あかりちゃん。随分可愛がってるみたいじゃない?」

 棘がある言い方だった。「君まで僕の年下趣味を疑うのか」

「いや、あなたのことは大体全部知ってるから。事務所の簡易ベッドの下に隠してる官能小説、やったら義母と女教師が多かったし」

「ちょっと待った、なぜそれを知ってる」

「誰が掃除してたと思ってんの。まったくさあ、人に愛を囁いておきながらあんなものを飽きもせず。幻滅しますよ、ええ」

「赤信号だ赤信号!」

 幸い交通量は少なく、クラクションを鳴らされながら車は交差点を左折する。

 橋を渡り、川を越え、墨田の中洲から千住側へと渡る。嫌な予感がした。

 果たして辺りは三ノ輪界隈。明治通りと土手通りの交差点を左折する。センターラインが少し盛り上がった道路は、そこがかつて文字通りの土手だったことを今に伝えている。そして正面にスカイツリーを望む交差点で、運悪く信号に捕まり、車は停止する。

 右手を見れば、姿形がすっかり変わっているにもかかわらず、見覚えがありすぎる路地がある。S字に畝って奥が見通せないのは、目隠しと異世界の雰囲気作りのためなのだとか。

 交差点表記は容赦ない。『吉原大門』である。

「ほら、そこ。見返り柳が一応一本、残してある」

「いや、あちらでは仕事のためにね。うん」

「こちらのあなたが通ってないか、監視はしてるからね。財布の現金の出入りとか。今のところは大丈夫みたいだけど、私は帝都の伊瀬新九郎の悪行三昧を知っちゃったから」

「人聞きが悪い」

「事実でしょ」とすげなく応じて、依子はやけにエンジンを吹かして一速を繋げて発進する。

 やがていつの間にか、スカイツリーは見えなくなる。

 土手通りから馬車通りへ分岐を折れ、交通量の少ない真夜中の道をひた走る。住宅や小規模オフィスが多い街並みに、次第次第に、飲食店や雑貨屋が増えていく。そして浅草駅前の商店が密集した地区へ入る。昼間ならば観光客でごった返す街も、深夜とあって息を潜めている。通りを越えればもう仲見世の商店街だ。

 右折すれば雷門というところを直進し、駒形橋の交差点を右に折れる。

 向かうは上野だ。

 依子はシフトを落として車を減速させる。エンジンブレーキの音がうるさかった。

「私たちは架空の存在のことを思い、彼や彼女の行く手に幸多からんことを祈る。そしてあなたの世界を構成するパーツの大半が、ここにはある。だから、ふたつの世界には、不思議な相補性がある。架空の存在が私たちに力をくれるように、私たちの、かくあれかしという祈りや願いが、あなたたちの力になるの。それがStrange Steam、かの世界に満ち満ちる蒸奇という力の本質なんだよ」

「隣接界に存在する、極めて近しい知的生命体の、祈り?」

「そう。そして今暗号化されているかの世界の主役は、あなた。あなたはすべての祈りと願いの依代なの。だから……」

「蒸奇の申し子、か」

 松濤の地下で散った女、ノラ・ボーアの語ったことを、新九郎は思い出した。

 しかし依子は、気になることも言っていた。

「選留主の致命的なミスとは、なんだ?」

「ヒーローとプロタゴニストの違いを、彼は見極めていない。あなたは主役だけど、主人公ではないの。真打は最後に高座に上がるけど、主人公は彼が語る噺の中にいる。そして選留主にとっては不運なことに、物語の中に残したその主人公は、AESもRSAも復号できる能力を持っている。最初の事件で、彼女はその力の片鱗を示している。選留主が、光学催眠技術とペンローズ脳研究によるQ領域活性化技術、それに〈奇跡の一族〉の力を宿した空飛ぶ超電装の妖力を掛け合わせて生み出した、あなたをここへ吹き飛ばした絶対的な概念攻撃……エルスワールド暗号化攻撃、とでも名前をつけておこうかな。それへの唯一にして最高の対抗手段が、彼女なの」

「紅緒さんがそんなことを言っていたな。二五六ビットの暗号がどうのこうのと」

「今、あの子は意識の外側で復号の再試行を繰り返しているはず。自分が何をしているかも理解していないし、そもそも早坂あかりという存在自体がほとんど暗号化されているけれど、あなたは彼女のことを覚えている。私も、あの原稿を読んで知っている。だから彼女も、あなたがいた世界も、乱数の渦に飲まれてはいない。復号できるの。後はあなたという暗号鍵が、然るべき座標に立てばいい」

「僕は颯爽と登場して、天樹に仇なす不届き者をぶちのめせばいいわけだ」

「帰ったらたくさん褒めてあげなさい。君が世界を救ったんだ、って。自分ではわからなくて、目を白黒させてるだけだと思うから」

 わかった、と新九郎は応じる。

 車は浅草通りを西へ西へ。空いた道には見合わない目一杯の減速でも、見る間に目的地が近づいてくる。首都高速環状線と歩道橋に守られるように立つ、上野駅が。

「会えてよかった」と新九郎は言った。「こうして君とまた話すことができた。お別れを言うこともできる。やっぱり僕は、運がいいんだ」

「悪運だけどね」と依子は笑う。「一応訊いておくけど、ここに残るつもりはない?」

「僕は幸せだろうね、その方が。でも、帰らないと。僕の帰りを待つ人がいる。あちらにも、この世界にも」

 だね、とだけ応じて、依子は車を路肩に停めた。

 主役が存在しなければ、『Strange Steam』の続きを彼女が翻訳することもできないのだ。

 シフトをニュートラルに入れた車のアイドリング音が車内に響いていた。

「楽しかった。話せたことも、ドライブも」

「この車も、もうすぐ買い替えだけどね。次が最後の内燃駆動車かな。MX-30もいいかも」

「まだ走るだろ。なんでまた」

「家族が増えるから」と依子は言って、胸元のさらに下の、お腹に目を落とした。「五週間。まだ、こっちのあなたにも話してないの」

「妊娠?」

「そう」

「僕の子?」

「当たり前でしょ。怒るよ」

 新九郎はシートベルトを外した。上半身を乗り出して、運転席の依子を抱き締めようとした。だが、2シーターで着座位置が深い車はセンターコンソールが広く、腕だけ無理矢理伸ばして首を抱くような不格好な姿になってしまう。

 それでも、依子の手が、新九郎の手に重なった。

「よかった」と新九郎は言った。「違うんだな。何もかも」

「うん。私も、同じようにできないと思ってたから、びっくりしちゃった」依子の掌が、新九郎の後頭部を撫でた。「だから、私があなたと一緒に帝都に帰るのも無理。この子がどうなるかわからないし」

 身体が離れる。アイドリングストップで、車のエンジンが止まる。

「羨ましいな。こっちの僕が」

「そのことなんだけど、ずっと謝りたくて」何を、と問うと、依子は助手席の新九郎を真っ直ぐ見た。「新婚旅行の時。あなたを試すようなことを言ったこと。ごめんなさい」

 ――私との関係が後戻りできるってわかって、安心した?

 新婚旅行の夜、定番の熱海を敢えて避けた西伊豆の旅館で、夜半、波の音を聞きながら、彼女は言った。

 新九郎は、依子の視線を受け止めて応じる。

「答えは同じだ。後戻りなんかしたくない。僕の幸せは君だけだから」

 すると、依子は目を瞬かせ、ハンドルを握って、視線を前方に逸した。「あの時も同じこと思った。そういう時だけ、新九郎はずるい。妙に直球なんだもん。柄でもないくせにさ」

「言うな。恥ずかしい」と新九郎は応じる。こういうときの、拗ねたように下唇を突き出した依子の顔が好きだった。

 消えることのない街の灯が、依子の横顔を照らしていた。ずっと見つめていたかった。

 行かなければならない。

 新九郎は車を降りた。通りにはほとんど車がなかった。見かけるものといえば、深酒しすぎた酔客を狙って路肩で網を張るタクシーくらいのもの。

 ふと、上を見た。明るすぎる街のために、星の光が見えなかった。

 なんだ、大して変わらないじゃないか、と新九郎は呟いた。蒸奇雲が空を覆い、青天なき街と言われる帝都。だが世界の壁を越えたところで、いつでも満天の星空が拝めるわけではない。

 依子が窓を開け、言った。「この世界も、物語の中なのかもしれない」

 空を見上げたまま、「そうだね」と新九郎は応じた。

「もしかしたら、本当に現実と呼ばれる世界では、東京は核テロの標的になってるのかもしれないし、それと戦う覆面の男がいるかもしれない。とんでもない疫病が流行してて、みんなマスクして街を歩いているかもしれない」

「僕は哲学は苦手だ」

「じゃあ、ネタバレをふたつだけ」

 ネタバレ、と返しつつ、新九郎は車を振り返った。

 開けた窓の縁に両肘を乗せ、腕を組むように身を乗り出した依子。指を二本立てた右手を上げて、ひとつずつ折って言った。

「あなたは勝利する。そして、あなたの幸せは未来にもある」

「ひとつ目は知ってる。ふたつ目は……楽しみにしておくよ」

 依子は片手でひらひらと手を振る。まるで仕事に行く夫を見送るだけのように。

 新九郎も片手を挙げる。明日の夕方には帰るかのように。

「さよなら、新九郎」

「さよなら、依子」

 もう振り返らない。

 往来の真ん中へと新九郎は進み出る。静まり返る街に、靴音が響く。そして、上野駅――かの金色の怪鳥が木っ端微塵に破壊したあたりを見据え、言った。

「待たせたな、諸君」

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