8.学ぶのに早すぎることもある
「可愛いおっぱい……」
耳元からひやりと忍び込む声と、胸元に差し入れられた冷たい手。指先が下着の中まで潜り込み、早坂あかりは悲鳴を上げて二ツ森凍の腕を振り解き壁際へ逃れた。
「凍さん? どうしちゃったんですか?」
「あら、わたくしの心配をしてくれるの? 本当に可愛い……」
蕩けるような笑顔。舞い落ちる雪のように揺れる目線が、あかりの足元と、きつく胸元を抑えた手と、緩く開いて浅い呼吸を繰り返す唇を彷徨う。それからぴたりと目線が重なった。
「や、やめてくださいよう。こんな貧相な身体、触ったって……」
「それがいいの。たまらないのですわ」
「やだなあ。変な薬ですか?」
「ええそうよ。言ったでしょう? わたくしはずっと我慢してましたの」
冗談で済ませようとしても、彼女が操る刀のような鋭い一言で切り捨てられる。
出口を見る。すでに凍結させられ、水蒸気の煙が上がっている。階下の夫妻を呼んでも彼らにあの扉は破れない。凍が近づいてくる。一歩ごとに、足元に氷の花が咲いては散っている。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。
これは、冗談ではない。二ツ森凍は冗談で相手を怖がらせるようなことはしない。彼女が刀を抜くのは必要な時だけだ。圧倒的な力の持ち主だからこそ、なんの罪もない相手を自分の利のためだけに脅しつけるようなやくざまがいのことはしないのだ。だからこそ、伊瀬新九郎は彼女のことを信頼している。
だが今の彼女は、紅白草の樹液を浴びている。
惚れ薬などというものが実在するとは俄には信じ難い。しかし彼女の様子を見るに、その影響下にあるとしか考えられない。ならば、止めなければならない。今ここに伊瀬新九郎はいない。
止められる――彼女を救えるのは自分しかいない。
考える。二ツ森凍を止められるかもしれない手段。持てる手札を全部切るのだ。
まず思い出したのは、やけに慕ってくれる機械人間のこと。先日の事件では、超電装相手に身を挺して立ち向かってくれた。だが彼は今、残念ながら壁に磔にされている。
次の手札たる生物の名をあかりは叫んだ。
「フレイマー! 来て!」
「大人しくしてて、ね?」
凍が微笑むと、一瞬のうちに天井裏から降りる配管が凍結する。それでも、配管の中から、いつもの頼りない声が聞こえた。
「おお、おお……力が吸われていきます。この氷は一体……」
「いいから助けて!」
「ですからわたくしは『大変なことになります』と申し上げたのです。申し上げたのに、なんたること……」
「だから早く!」
「よいでしょう。この配管なり壁なりを破って飛び出すのは簡単です。二ッ森凍さん相手にどこまでわたくしの力が通用するかはわかりかねますが、早坂さまをそこからお連れすることなら、あっしかし、しかし……」
「しかしじゃなーい!」
「そうは参らぬのです。新九郎さまから、どんな形であれ他の生物を攻撃するときは、新九郎さまのご許可を頂くか、それが致し方ない事態であると第三者がいらっしゃる場所で声に出して宣言するように仰せつかっているのです。ええ、わたくしは役立たずの不法移民でございます。ゆえに後に星外退去にならぬよう、新九郎さまはわたくしの身を案じ……」
「じゃあ代理! わたしが代理で許可するから!」
「しかし新九郎さまからわたくしの行動に関する許可の権限を早坂さまにもお預けした旨を明言いただいたことはなく……そもそも自信を持っての明言を避けられる方ですので……」
「これだから男って!」
問答にならない問答の間に、冷気が眼前に迫っていた。
凍が壁に手をつく。その手があかりの右耳と後ろ髪を掠める。耳元の大きな音に身が竦む。ひんやりした指先があかりの右頬を撫で、顎先に達してくいと上げた。
「あ、あのー……」
「学ぶことに早すぎることはありませんわ」
「何を……」
「女同士の世界」
甘さの中に涼しげな香り。顔と顔、唇と唇が近づく。ああ、この人は女性が好きなんだ、と急に理解する。そしてこんなことをするのが薬のせいであるのなら、受け入れた方が誰も傷つかないのではないか、と思う。
その時、誰かが閉じた扉を激しく叩いた。
「早坂くん! そこにいるか、早坂くん!」
「先生!?」
「ええい仕方ない……窓から離れろ!」
「窓って……」あかりは言われた方へ目を向ける。
凍が舌打ちした。
炎が窓を吹き飛ばした。そして身体を丸めて室内に飛び込んでくる、燃えるような橙色の髪の女。二ッ森焔だった。
硝子が床に飛び散る。カーテンが灰になり、掛けたばかりの風鈴が床に落ちて割れる。凍が振り返ろうとする。だが一手遅い。
焔は一足飛びに近づき、凍の襟を掴んだ。
「お姉さま……」
「こォの色ボケが!」
鮮やかな背負い投げ――改造人間の剛力が凍を窓だった穴の向こうへと放り投げた。
「……先生、ご存知だったんですか?」
「まあ、ね」
珍しく応接椅子の方に腰を下ろした伊瀬新九郎。向かいに座るあかりは、焦げた穴と化した窓の向こうに響く悲鳴を聞く。
「髪が! 髪が燃えてますわお姉さま!」
「うるせえ! 火炙りで済むだけありがてえと思え!」
声の主は二ッ森姉妹。凍の身体のどこかに付着した紅白草の樹液を焼却しているのだ。
「おおい焔、鼻か喉だ」と新九郎が外を向いて言う。
「よっしゃあ! 任せろ!」と焔。
凍の悲鳴とともに、炎が轟々と渦巻く音がする。まったく、と肩を落とし、新九郎は服の襟元を整え、あかりに向き直った。
「まあ、そういう人もいる。人間は色々だからね。そのへんにごろごろいる外人との差に比べれば小さいものだが、彼女があまり開け広げにしなかった理由も、想像はつくね?」
「はい」
「薬のせいとはいえ、彼女は君に性的暴行を加えた。扉を凍結させたり、フレイマーが出てこられなくしているから……」新九郎は煙草に火を点ける。「これはわいせつな行為に暴行または脅迫の行為が伴っていたとみなされ、帝国刑法における強制わいせつ罪の構成要件を満たしている。彼女自身に責任能力を問えるかは、前例のない薬物であるため、責任能力の有無を科学的に立証できるかわからない。迂闊には判断できないが……いや、そもそも不法移民であるフレイマーの証言で行為を立証できるのか? わからん……」
「先生、わたしは……」
「八雲のやつなら、成立しない方に立つだろうな。あいつは保守的だから。すると僕は成立する方に立つ。君が被害を受けた事実は揺るがないからね。しかし重要なのは、これが親告罪、つまり君が訴え出るか否かで刑法犯罪になるかが決まるわけで……」
「訴え出ませんよ」
新九郎は眉を顰めた。「交友関係に遠慮する必要はない。君が生まれながらにして持つ権利が侵害されたんだ」
「遠慮とかじゃないです。ただ、ちょっと、思い出したことがあって」あかりは応接椅子に深く背を預け、天井の木目を数えながら続ける。「怒らないで聞いてください」
「どうぞ」煙が漂ってくる。
「実は友達から、あの惚れ薬を手に入れて欲しいっていう依頼を請けたんです」
「間違っても渡すんじゃないよ。あれのお陰で僕も酷い目に遭った」
「彼女は」とにかく言い切る。新九郎を無視してあかりは続ける。「切実だったんです。六歳の時から慕っているのに拒否されてばかりの、年上の男性に、どうしても振り向いて欲しくて、わたしに頼んだんです」
「それは」新九郎は煙でひと息入れつつ応じる。「さぞ切実なのだろうね」
「先生。恋って、そんなに切実なんですか?」
「切実さ。それまでの常識や、当たり前の倫理や、世界そのものだって裏切ってしまえる。逆にそれまで普通にできていたことができなくなったり、叶ったときのことを思うと無限の力が湧いてきたり、叶わなかったときのことを思うと子犬のように無力になってしまったり。強い人を弱くすることもある。もちろん、その逆もね」
あかりは首だけ起こして新九郎を見た。「……なんか意外です。先生がそういうこと仰るの」
「君ねえ。僕をなんだと思っているんだ」
「凍さんもそうだったんでしょうか」
「さあねえ。あの薬、どちらかというと、三大欲求の一角に忠実なところを刺激するようだし」新九郎は煙草を押し消す。「君は、その友達の、そんな姿が見たいかい?」
姿勢を正してあかりは首を横に振る。
新九郎は息をついて続ける。「じゃあ、その依頼はちゃんと断りなさい。いいね?」
「そうですね。そうします」あかりは布の切れ端を入れた硝子壜を机の真ん中に押し出した。「これも焔さんに燃やしてもらいましょう」
凍の服の、樹液を浴びて染みになった部分から切り出したものだ。その凍の悲鳴は、今も表の路地から断続的に聞こえる。
しかし新九郎は壜を手に取る。
「いや、こいつはちゃんと調べよう。敵の正体に繋がるかもしれない大事な手掛かりだ」
「敵の正体……」そう呟いた直後に思い出し、あかりは立ち上がった。「そうだ! 画廊!」
「画廊?」
「そうです! 先生が留守の間に、門倉さんがいらして、それで……」
新九郎は座りを直し、また煙草を取り出した。「詳しく聞こう」
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