7.天国と地獄
檜の湯殿に水蒸気が充満している。主が代替わりするにつれて改修を重ねられた浴場は、今では蒸奇の発熱を使う最新式へと入れ替えられている。かつては自前の大風呂を持つのは大店の証のひとつだったが、洋式の風俗店では浴室でのサービスが一般的になりつつある。〈紅山楼〉でも行為の前か後に客を連れて風呂に入るのが普通になった。しかしここはひと味違う。
入り口付近のスイッチを押すと、天井から衝立が降りてくる。その衝立が複雑に入り組んで迷路を作る。すると広い浴場に、洗い場と浴槽が隔離された空間ができる。客はここで、ご同類や他の遊女たちの艶っぽい声を聞きながら、自分についた遊女とふたりきりで洗体を受けるのである。
なんとも大掛かりなからくり仕掛け。入り口のからくり芸者と同時期、前の女将がまだ若かった頃に導入されたのだという。当時はまだ天樹が降りてきたばかり。どこもかしこも競うように、天樹由来の奇天烈な機械仕掛けを使いたがった。そして戦争が終わって、超電装を始めとする機械需要が激減。この手のものが薄い利益で作られることが後を絶たなかっった。
新九郎は浴槽の縁に腰掛ける。その股ぐらに揚羽が潜り込む。三方を真鍮色の壁が囲む。
「しんどいんやろ、新さん。今うちが楽にしたるかんね」
「揚羽さん。これは、これはまずい。よろしくない」
「いけないと思うた方が興奮するやろ?」
「そういうことじゃ……ううっ」
「ほんまによろしないなら、逃げたらええやないの」
「しかし……」
嗚呼! 豊穣の実りを約束する一対の柔桃に沈む本能の剛直! 心は屈し、身体はそそり立ち、地の祝福が若木を大樹へ変える。寄せては返す永遠の波が黒鋼を天上の魅惑へと誘い、むき出しの弱さを甘い絹が滑らかに包む。今にも花開かんとする蕾のように膨らんだ若い乳嘴を自ら捏ね、蝶は枝を離れる。苦しみに限りなく近い快楽から一時開放された新九郎をちらりと見上げ、そして今度は、名残に震える青い幹の先端を幾度も啄む。
嗚於! 果てしない陥穽へと飲み込まれる男自身! 禁断の実を食べよと唆す蛇のようにうねる舌が彼の分身を擽る。いつも悪戯に微笑む唇が、鈴の鳴るような声を発する喉が、躊躇いなく汚れた水音を発する。手折られた草の汁が大地に染み込むように、滴る涎が湯に溶けていく。そして樹液に吸い付く蝶が一頭。羽ばたくように広げた手が新九郎の腰を抱え、なお深く奥底へと剛直を導いた。
「揚羽さん、おかしい。僕はおかしい。どうしてこんな……」
咥えこんでいた異物を吐き出し、顔を上げ、深呼吸して揚羽は応じる。「新さんはなーんも悪うないんよ。全部うちのせい」
「君は、薬を使った女を探すために……」
「もう、鈍いんやから」
揚羽はいきなり立ち上がり、新九郎の顔を胸に押しつけるようにして抱いた。
一方の新九郎は、掌に余るほどの豊満な膨らみに埋まり、自分の手が動きそうになるのを必死で押し留めて言った。
「僕に使ったのか」
「ご名答」
「どうして」
「あんたがはっきりせんのが悪いんよ」浴槽の縁に足をかけ、新九郎へ跨るようにして揚羽は言った。「新さんが女将のものじゃないなら、今だけうちのものになってもろてもええやん?」
器用に少し腰を浮かせた揚羽の濡れそぼる蜜壺が、新九郎の陽物の先端に触れる。
「今だけ……」
「そう、今だけ」顔を寄せ、触れるだけの口づけ。「楽になっちゃいなさいな、新さん」
「僕は悪くない、そう、名分、名目、星団憲章をひっくり返せば……」
「もう。こんな時まで仕事の話? うち怒ったで。全部忘れさせたるわ。覚悟しい」
「うああ」
新九郎が情けないうめき声を上げたその時だった。
からくり仕掛けが轟音を上げて畳まれ、天井へと収納される。揃って入口の方を見る新九郎と揚羽。身体も表情も硬直したふたりの前に、裾をからげて表情のない女が現れた。
「あたしの
「ね、姐さん。あんね、これは違くて……」
「そんなに若い女がよろしいんですか、先生?」
「いやいや、紅緒さん、これは誤解だ。まったく誤解だ」
「へえ。どこが?」
「おっぱいです」
「はあ?」紅緒は顔をひきつらせた。
「僕が好きなのは年齢とともに張りが失われつつも本人の弛まぬ努力で美しい形を保っているおっぱいだけです!」
天井裏の歯車仕掛けが最後の音を鳴らした。
沈黙が降りた。どこかで水滴が落ちる音だけが静まり返った湯殿に響いた。揚羽の目線が新九郎と紅緒を往復する。
一方の紅緒は新九郎に虚ろな目を向けたまま叫んだ。
「粂ェ!」
するとどこからともなく番頭姿の老人が現れる。吉原隠密集を束ねる粂八老人である。
「へえ、なんでしょう女将」
「あたしゃ頭にきたよ。このたわけをつまみ出せ! 今すぐ!」
雨が一時上がった路地に濡れ鼠の男がひとり。それもそのはず、彼は風呂から追い出されたのである。その上、バケツの水を次から次へと浴びせかけられている。
「悪かった! 僕が悪かったですから!」
「知らねえってんですよ!」
上野千束、吉原仲之町の遊郭〈紅山楼〉。その表で、なんとか引っ掛けてきた浴衣を帯もなしに腰に巻きつけ、泥に塗れる男の名は伊瀬新九郎。そして一方、着物が汚れるのも構わず、新九郎に次々と水を浴びせかけているのが、女将の紅緒だった。彼女の背後からは店内まで人の列が伸びている。水を満たしたバケツをリレーで受け渡し、新九郎に浴びせているのだ。戦中に培ったバケツリレーの技、未だ健在である。
「まあ、薬ってのはわかりました。仮にも天樹が選んだお人です。薬でも盛られなきゃあ、下半身の邪な欲求に屈して手近な女に手ぇ出しなさるような人じゃあない。わかってますよ。あたしはよーくわかってます。だからその薬を洗い流して差し上げようってんじゃないですか」
「いや、なら別にやり方が……」
「やかましい!」
また一杯。新九郎は目を白黒させる。
「しかしまあ、風呂にも入っただろうし、雨にも濡れた。それで効き目が薄れねえってこたあ……」紅緒が手を差し出すと、すかさず法被の男衆が道具を載せる。紅緒はつかつかと歩み寄り、新九郎の顎を持ち上げて手早くその道具を装着した。「吸引かもしれませんねえ。遅効性か、なかなか吸収されないのか……ちょいと鼻の粘膜を綺麗にするとしましょう」
鼻の穴に突っ込み、無理矢理上げさせる性具である。女にこれを装着させて喜ぶ加虐趣味の男も、逆に装着させられて喜ぶ被虐趣味の男も多い。しかし伊瀬新九郎は、幸か不幸かいずれでもなかった。
息も絶え絶えのところに柄杓を手にした紅緒が近づく。そして開かされた鼻の穴から水を流し込まれる。
「やめ、やめて、紅緒さん」
「ご存知ですか? 鼻の粘膜には、中枢神経と繋がる独自の薬物送達経路があるんです。もしも鼻に吸着した何かの塊から少しずつ妙な薬が脳に入ってるとすれば、あんたの状態も説明がつくんですよ」
「堪忍、ご堪忍を」
「嫌です」
一杯、二杯。新九郎が激しく咳き込んでも構わずに水を流し込む紅緒。何やら満足気な笑みを浮かべている。
通りには次第に野次馬が増え始める。それもそのはず、〈紅山楼〉といえば一度でもこの界隈に足を踏み入れた者なら誰もが知る大見世である。その暖簾の前で、女将が半裸の男に冷水を浴びせているのである。そして中には、哀れな男が上野界隈で少し名の知れた、花街通いの道楽探偵・伊瀬新九郎であると気づく者もいる。
「まあこんなもんでしょう」
ようやく鼻に突っ込まれていた性具が外され、新九郎は両手を地面について浅い呼吸を繰り返す。しかし今度は、もっと凶悪なものが紅緒の手に握られていた。
「そ、それをどうするんですか……」
「いやあ、粘膜経由と仮定して、吸引でしょう? 鼻以外にもう一か所あるじゃありませんか」
「だからやり方をもう少し……」
「言えた立場ですかっ!」
鼻を摘み上げられ、たまらず開いた口に突き入れられたのは、特大の張形だった。
喉の奥を容赦なく突かれ、咳き込み涎が垂れる。それでも紅緒は手を緩めない。
「安心してください、あたしのお古じゃないです。そっちの方がよかったですかい、先生?」
「あががが」
「泣け! 喚け! この豚野郎!」
「おご、おごご」
「おら、吐け! 吐くんだよっ!」
絶妙に反り返った張形に喉の奥を的確に抉られ、たまらず新九郎は嘔吐する。往来の真ん中に吐瀉物を撒き散らし、息をついて顔を上げるとまた口に張形が突っ込まれる。そして新九郎は、酸素の足りない頭でこれ以上は無理だと悟り、決死の抵抗を試みた。
紅緒の手を何とか押し返す。しかしその間にも再び吐き気に襲われる。
また吐瀉物を撒き散らす。野次馬から笑い声が上がる。
するとその時、ざわめきの中にやけに派手な排気音が混ざっていることに気づいた。
「あー……焔、君か。いいところに」
「おお伊瀬の。いったい全体何してんだ」
「訊かないでくれ……」
二ッ森焔は単車を降り、紅緒と二言三言交わす。
そして深呼吸する新九郎のところに戻ってきて、屈んで言った。
「そりゃ旦那が悪ぃわ」
「まったくです」と紅緒が鼻を鳴らす。「目ぇ醒めましたか?」
「たぶん……」
少なくとも、頭の靄はかなり晴れている。
粘膜に張りついての経鼻吸収か胃内への長時間滞留。一応頭の中に書き留めておく。
焔が口の端で笑った。「ま、旦那は日頃の行いも悪いしな。いつも天樹をだまくらかしたバチが当たったんだよ」
「意外と冷たいんだな、君は……」肩を落とす新九郎。「冷たいといえば、妹はどうした」
「旦那の事務所に置いてきたよ。あかりちゃんとお話したいですわ、とかなんとか」
「真似ると似てるね」
「そりゃ遺伝子は瓜二つだからな」
「で、君の用向きは」
「いや、まず服を着ろよ」焔は苦笑い。「その凍がよ、紅白草を処理する時に妙な液体を浴びちまってさ。その件と、後はナッソーっつうバケモンが……」
「そりゃまた、災難で……ちょっと待て」新九郎は姿勢を正した。「液体、惚れ薬を浴びた」
「ん? そうらしいな、あの桃色の……」
「今事務所には早坂くんと凍のふたりきりだ」
焔が橙色の眉を寄せた。「フレイマーは」
「あれは気が弱い。凍相手では分が悪い」
「ロバちゃんは」
「諸事情あって磔の刑にされている」
焔の表情が引きつる。「……こいつぁやばいな」
「ああ。筋金入りの女好きなんだろう」
「特に女学生に目がねえ。自分で女学生の服を毎日着てるくらいだ」
「新車にも乗せてたね」
「そういやあ」
「もしも惚れ薬で箍が外れたら?」
顔を見合わせる焔と新九郎。
数秒の沈黙の後、新九郎は叫んだ。
「服! 服をください!」
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