9.摂氏四〇〇〇度の火の玉
午前一〇時四五分。頭の代わりに銀時計が乗っている天樹の使者は、その日も定刻通りに現れた。新九郎も今回ばかりは主義を曲げ、午前にもかかわらず事務所を開けて彼を通した。
だが、新九郎の提案を聞いたクロックマンは、文字盤を縦に振らなかった。
「今の〈
「なぜだ。雲を放置すれば〈闢光〉が破壊される危険がある。僕の夢で受けた攻撃は量子倉内の〈闢光〉にも現れているはずだ。只者でない相手であることは、君らも把握しているだろう」
「〈闢光〉の状態が問題なのです」応接ソファで腕組みするクロックマン。文字盤が下を向く。「蒸奇技官五名が犠牲になりました」
「何?」書斎机の新九郎は目を見開く。
「整備のため量子倉を開いた直後、途轍もない高熱に晒されたためです。遺体も残りませんでした」
「翠玉宇宙超鋼の限界付近まで熱エネルギー砲弾を浴びた。そのせいか」
「おそらくは。即座に封じたためデータが不十分ではありますが、現在の〈闢光〉の装甲は、表面温度で四〇〇〇度に達しています。ペンローズ・バリアを全開にしていなければ、装甲以外の部分が融解ないし炭化して戦闘不能に陥っていたでしょう。あれは単なる防御以上に、他への侵襲を装甲上に誘導する効果の方が重要ですから。不幸中の幸いでした」
「なら市民を避難させればいい。多少の火災なら、木造家屋が少ない異星砂礫の瞬時建設地区を選べば……」
「不可能です。四〇〇〇度ですよ。我々も試算しましたが、半径一
「だが東京駅は瓦が飛んだ程度で……」
「それはブリゾードの方が輻射熱や衝撃波をすべて吸収していたからです」
「なら一度湾内に降ろして冷却する」
「津波になります。いずれにせよ帝都は壊滅です」
「太平洋上なら……」
「あなたが向かう必要がある。星鋳物の操縦師転送機能は、原理的には私が使うものと同じで、半径五粁が限度です。船か航空機を手配して〈闢光〉を太平洋の沖合に降ろし、その後あなたがその五粁圏内まで移動し、そして自走で戻れば可能ですが……」
「それしかないなら、やるしかない」
「水蒸気爆発による機体への損傷が計算できません。ただでさえ左腕部が損傷しているのです。致命的になるかもしれない。まして、あなたが乗らず、ペンローズ・バリアも起動できない状態でそれを受けるのです。量子倉からの開封直後はすべての運転操作がリセットされますから、間違いなく、翠玉宇宙超鋼ではない部位に損傷が及びます。〈奇跡の一族〉のご遺体にも」
「あらかじめ降着地点の五粁圏内まで僕が移動しておけばいい」
「それはあなたの命に危険が及びます」
「この際だ、度外視しろ」
「できません」
「なら君ではなく、六号監視官と話す。彼のところに僕を連れていけ」
「今議論した内容は、既に私と六号監視官の間でも議論したことです。結論は同じ」クロックマンはソファに背を預けた。「夢の中で、きっちり倒してください」
「無茶を言う」
「いつものことです」
新九郎も椅子に背を預け、煙草に火を点けた。
味方ならこの上なく頼もしいが、敵に回すとこの上なく厄介。自分の仕事がいかに二ッ森姉妹に助けられてきたかを思い知る。
すると、クロックマンが話は終わったとばかりに立ち上がる。
「参考までにお伝えしておきます。今回の被害試算をこうして即座にお伝えできたのは、既に別の試算が存在していたからです」
「超高温の物体が急に出現した場合の、試算か?」
「原子爆弾です」
新九郎は煙草を吹かす。「米国の、使われなかった秘密兵器か」
「ええ。二五年前、日本の翠光艦隊旗艦による
「よい勝利などありはしないよ」
「そう言えるあなただから、我々も星鋳物を預けられる」銀時計の長針がカチカチと鳴った。「期待していますよ、スターダスター」
午前中のうちに、新九郎はエフ・アンド・エフ警備保障へ向かった。
扉は鍵が掛かっていなかった。不用心のようだが、二ッ森姉妹の恐ろしさを思えば侵入する方がよほど不用心である。
まずは手前の応接ソファで、焔の方が真っ黒な寝間着浴衣で大の字になっていた。頬を叩いても肩を揺すっても起きる様子はない。
彼女を抱き上げて奥の寝室へ進むと、ダブルベッドの上で、真っ白なパジャマ姿の凍が膝を抱えて丸くなるようにして眠っていた。
ふたりを並んで寝かせ、新九郎は表へ出た。
屋台で昼食を済ませて、向かった先は有楽町の〈喫茶 ロイヤル〉。
先に着いていた財前と門倉が、新九郎を認めると片手を挙げた。
「よう、伊瀬の。また呼び出して悪いな」と財前が言った。「今度はまたまるで違う連中が昏睡状態になってな。しかし今度は、共通点ははっきりしていて……」
「和菓子店の店主だ」と門倉。「心当たりはあるか、探偵」
なるほど、と新九郎。「二ッ森姉妹だ。今しがた様子を見てきた。昏睡状態だったよ」
「あの鉄砲玉お嬢ちゃんたちか。またお前さんの身近な人間だな」
門倉が渋い顔になる。「あの娘どもは銃刀法でしょっぴけんのですか……」
「天樹の後ろ盾があるからなあ」
「彼女たちは彼女たちで不憫な境遇だから、見逃してやってくれ」
「理解はするが、納得は別だ。私も理解はする」門倉は今日も今日とて手帳を差し出す。「これだ。上野みはし、岡埜栄泉、亀戸船橋屋、鉄砲洲の塩瀬総本家、銀座空也……」
「ふたりのお気に入り揃いだな」
財前が訝しむ。「あのお嬢ちゃんたちのお気に入りが、なんだって攻撃対象になるんだ」
「それを言うなら昨日までの〈紅山楼〉の客もわかりませんよ。狙われたのは紅緒さんだった。確かに周辺の人間ですが……」新九郎は煙草に火を点ける。「働く自分。甘味に舌鼓を打つ自分、ということか」
「どういうことだ、探偵」門倉の目が鋭くなる。
「人間には多面性がある。財前さんに刑事としての顔以外に、家庭での顔があるようにね」新九郎は煙を深く吸い込んで続ける。「僕と仕事をする以外の顔、ということかな」
「意味不明だ。ちゃんと説明しろ」
「例の雲は侵略を目的に、特定侵略行為等監視取締官、伊瀬新九郎を狙った。そしてお前さんを中心に周りの人間を狙い、彼女らのお前さんと直接かかわらない部分に関係する人間をついでに狙い、夢の怪獣を作る上での情報源とした。……こういうことか?」
「さすが財前さん。察しがいい」また煙草を吹かす新九郎。「面白いな。人間とは、その人の内側だけでは完成しないということになります。その人と関わる別の人間の中身を合わせて始めて、人間ひとり分の意識を再現することができる。人間は社会的な動物とは、よく言ったものです」
「それでなぜ怪獣なんだ」相変わらず納得とは遠い様子の門倉。
「怪獣、ではなく、
「講釈は結構だが、倒せんのか?」
「そこですよ、財前さん」新九郎は深々息をつく。「ダメ元でのお願いなのですが、明日までに上野から一五粁圏内の住民をすべて避難させることは可能ですか?」
「なんだそりゃ。いくらなんでも不可能だぞ」
「かなり厄介な敵なので、こちら側で、あの雲を破壊してしまおうと思ったのです。しかし夢の中で損傷を受けすぎまして。今の〈闢光〉は爆弾も同然の状態です。昨日までとは違い、あれの侵略企図も明らかになりましたし、出動にあたっての法的根拠を確保できそうなのですが」
「それなら、憲兵隊が攻撃を計画中だ」
「財前さん、それは……」
咄嗟に口を挟む門倉に、「いいんだよ」と応じて財前は続ける。「明日の正午。半径一粁の住民を避難させて、超電装で包囲してあの雲を砲撃する予定だ。住民には直前まで秘密でな。誘導する側の身にもなれっつぅ話よ」
「いいんですか? 財前さんらは、こんなところでのんびりしていて」
「刑事部じゃなくて警備部の管轄になってな。併せて、本日をもって例の毒雲の対策の主担当が俺ら警視庁異星犯罪捜査課から陸軍憲兵隊に移った。偉いさんの昏睡事件の捜査に結果が出なかったのが響いたみたいだ。それでなくても、隙あらば出張ってきやがるからな、あいつらは」
「ぶちまければよかったじゃありませんか。全員高級遊女屋の客だって」
門倉が目を三角にする。「馬鹿か。警察幹部の名が上がっているんだぞ。こちらの立場が一方的に悪くなる」
「嫉妬してんのさ」財前は肩を竦める。「軍の方が上なはずなのに、警察の方が天樹に近いから。それもお前さんと俺らの個人的な繋がりにすぎないんだがな」
「私を混ぜないでください」と門倉。
「陸軍としても、実績というか、手柄が欲しいんでしょうね。安藤の件といいロバトリック星人の件といい、このところ陸軍はいいところなしですから」
「お前さんが虎の子の五〇式を踏んづけたりするからだぜ。穏便にお引取り願えばいいものを」
「あの時は様々な状況が切羽詰まっていたんですよ」新九郎は苦笑しつつ応じる。「……しかし、憲兵が倒してくれるのですか。これは僕も楽ができそうだ」
「そう上手く事が運ぶかねえ」財前はすっかり冷めているだろう珈琲を口に運ぶ。「この街で、憲兵隊が
「星鋳物はあくまで最後の切り札であるべきです」
「貴様の場合は働かない言い訳だろうが」門倉の舌鋒は鋭い。
「僕がなるべく働きたくないのは事実だが、行使される武力は常に最小限度であるべきだ。君ら警察の仕事の原則でもあるはずだぞ」
門倉は返事をしなかった。負けず嫌いの傾向がある彼が黙るときは、納得しているが納得しているとは絶対に口に出したくないときである。
新九郎は二本目の煙草に火を点けようとしたが、箱の中身は空だった。
「……仕方ない。今夜も寝不足か」
「でも、それって少しおかしいと思います」
夜半の鬼灯探偵事務所。早坂あかりが声を上げたのは、新九郎がそろそろ意を決して床に就こうと机を片付け始めたときだった。
「おかしい?」
「はい。先生の推理だと、あの雲は何らかの意思を持って、先生と先生の周りの人を探っていることになります。でも、わたしの呼びかけには一切応じませんでした」
「推理ときたか」
「探偵じゃないですか、一応」
「一応、ね……」新九郎は苦笑いになる。「あれは蒸奇獣なんだ。知性はないんだから、おかしな話ではないだろう」
「だとしても、知性を持たず自動化された存在が、人の意識に介入できると思いますか?」
「確かに」新九郎は手を止めて応じる。「あの雲は、特級の技能に近いことをやっていることになる」
「そうです。つまりあの雲は、そのものが
「だが井ノ内さんの証言もある。蒸奇獣であることはほぼ間違いない」
「ってことは」来客ソファに座ったあかりは腕組みになる。「別の誰かがいるってことです。先生や紅緒さん、焔さんや凍さんの意識を読み取った誰かが」
「そいつが蒸奇獣の主か。井ノ内さんは、煙のようなものを見たと言っていたな」
「わたしは話す相手を間違えたんです」あかりは腕組みを解いて顔を上げた。「先生。明日、もう一度あの雲の真下に一緒に行ってもらっていいですか」
「あの雲以外の、僕や紅緒さんの意識を読んだ何者かを探すのか」
「そうです」
「参ったな。明日は都合が悪い。憲兵隊による、雲への砲撃が予定されている。真下には立ち入れない」
「真下でなくとも、意識の流れなら読み取れます。結構大声だと思うので」
「どちらにせよ現場には行くつもりだった。試してみよう。しかし、それには……」
「今夜を乗り切らないとですね」あかりは席を立った。「頑張ってください、先生」
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