0.幻之丞・魔都倫敦血風録(後編)
自由業、と言えば聞こえはいいが、実態としては不安定な収入と朝も昼もない仕事、そして自堕落な生活から来るその日暮らしの毎日だ。五〇を過ぎ、還暦が近づき、かつての友人たちが一角の人物になり、時折新聞や雑誌で名前を見かけるようになっても、自分だけは東京の底辺を駆けずり回るばかり。救いといえば、周りの人間に恵まれたことだ。
「お義父さん、ちゃんと食べてるの?」
散らかり放題の六畳間に呆れ顔で仁王立ちするのは、一応、娘だ。一応とつくのは元嫁の連れ子だからで、血の繋がりはない。離婚した今となっては、もう赤の他人と変わりない。それでも気にかけてくれるのは、警察官である彼女の夫が、元警察官であり、かつては彼を指導する立場で、だが現在は興信所の職員に落ちぶれている幻之丞と親しいからだった。お義父さん、と呼んでくれるのは偏に彼女の優しさの成せる業だった。
昼の日差しが眩しい。開け放たれたベランダから流れ込む新鮮で冷たい空気が、部屋の淀みを洗い流していく。だがこたつテーブルの上には汁を残したまま乾いたカップ麺の容器やチューハイの空き缶と、小銭が少々。コインランドリーから帰ってきてそのまま積み上げたぐちゃぐちゃの洗濯物は、汚れ物との境界線がわからない。音を消しているテレビから流れるのはお昼の情報番組だった。万年床の下はカビが生えているが、布団を上げなければ気にならない。
「ちゃんと自炊しなきゃ。コンビニの買い物ばかりじゃ栄養が偏るし、身体壊すよ? そしたら入院、貧困、介護、寝たきり、孤独死。嫌でしょ?」
「お前なあ。もうちょっとだな、歯に衣を着せてだな」
「そんなんだから母さんにも愛想尽かされるの」
「ああもう。女ってのはなんでこうわかってることを何度も何度もねちねちと」
「わかってないからでしょ」
「昨夜は朝まで円山町に張りつきだったんだよ。しょうがねえだろ」
「また浮気調査?」
そうそう、と幻之丞は応じる。彼女は、結婚後もフルタイムで働き、勤め先では若くして管理職に出世するほど優秀なくせして、下世話な話が好きだ。いい嫁を捕まえたな、とかつての部下のにやけ顔を思い浮かべ、さすがお前の娘だよ、と別れた元嫁のしかめっ面を思い出す。
「ま、どこにでもある話だよ。妻が娘の担任教師の男とやけに親しい、調べてほしいって依頼でさ。その教師も既婚者だったんだが、睨んだ通りの不倫関係だった。しかも、娘の方とも関係してた。ひでえ話だろ? ご依頼人の男、嫁と娘を同じ教師の男に寝取られたってわけ」
「それはちょっと、どこにでもはないんじゃないかな」
「幸せと不幸せは差し引きゼロってえのは、ありゃ嘘だね」幻之丞は煙草に火を点ける。値上がりしてばかりのアメリカン・スピリット。訊かれたら一本あたりの吸える時間が長いからと答えるが、本数単位で吸うためあまり節約には繋がらない。「ホテルに出入りする客を眺めていると実感するぜ。この世は不幸せの方が多いのさ。もしもお前が今幸せなら、絶対に手放しちゃならねえ」
「そのことなんだけどね」
「どのことだよ」
「できたみたい。今日は、そのことを報告に来たの」
「何が」と応じ、義理の娘に目を向ける。下腹のあたりに手を当てていた。「まさか」
「うん。これでお義父さんじゃなくて、おじいちゃんだね」
「お前、そりゃ、俺とは何の関係もない。他人の子だ」
「でも嬉しいでしょ」
自由であることに、ずっと復讐めいた気持ちを抱いてきた。
人並みの幸せを得られないからこそ、目一杯の自由を選ぶ。それは自由のようでいて誰よりも不自由だった。実子もなく、妻もない。仕事も収入も不安定で、実家筋とは絶縁状態。元嫁の連れ子と昔の部下に気遣われる生活を、開き直って楽しむには歳を取りすぎた。自分は惨めではないと言い聞かせながら暮らし、他人の不幸を覗き続けることより惨めで不幸なことはない。
だが、光はあるのだ。
「産まれたら顔見に来てよ。お義父さんが来ないならこっちから見せに行くから」
「いいのか? あいつは嫌がるだろう」
「母さん? いいのいいの。うちの人だって、名前は葉隠さんにつけてもらおうとか言ってるし」
「そうか」幻之丞は掌で顔を覆った。「孫か。この俺に」
「差し引きプラスになった?」
「かもな」
「……ちゃんと元気でいてよね。母さんだって腹の底では心配してるんだから」
「そうか」と応じ、顔を上げた。「名前は」
「え? だから、つけてもらおうかなって……」
「そうじゃない。お前の名前だ」
「さくら」
「旦那は」
「どうしたの、急に」
「答えろ」
「新九郎だけど……」
幻之丞は大きくため息をついてから、のそりと立ち上がった。「なるほどな。甘ったりぃ夢を見せてくれるじゃねえか。なあ」
さくら、と名乗る女は苦笑いで応じる。「どうしたの? ははあ、とうとうおかしくなった?」
地味で小洒落た格好をした黒髪の若妻。面倒見と愛想がよく、警察官の夫が帰る家を甲斐甲斐しく守る女。
似合わない。
幻之丞は煙草を押し消した。好みの銘柄ではなかった。なぜ自分がこんなものを吸っているのかわからなかった。
「さくら、いや、紅緒ちゃんは肝っ玉な人妻。あいつは警官で、子供作って幸せな結婚生活か。俺はその親類。こいつはお笑いだぜ。手品にしちゃあ手が込んでる。信じられんが、こんな世界も実在するってわけだ。だがな。下天かペテンか知らねえが、腑抜けた夢で誑かせるのは、腑抜けの雑魚だけだ」
「どうしたのお義父さん。紅緒って誰?」
「俺を父と呼ぶんじゃねえ」幻之丞は胸を叩いた。「おい、そこのやさぐれ宇宙人。使うぞ、例の三分間」
*
「老いたりといえど、恐るべき相手でした」
膝をついて項垂れる葉隠幻之丞を前に、白装束の男が装置を懐に納める。
榊が恐る恐る近づき、幻之丞の頬を指で突く。
「この男、何者なんです?」
「先代の
「でも夢は見る」
「ええ。刀を持つ者は誰でも、刀を置いた自分の夢を見る。そこが彼の弱みです」
「自分の人生に完璧に満足してるやつなんて、いやしませんからね」
「ゆえに我々は必ず勝利する。あなたは監獄から抜け出せた」
「感謝してますよ」
刺青の腕を撫でる男、
その榊に注目したのが〈下天会〉である。超電装は極めて強力な兵器だが、銃火器と比較して扱いが遥かに難しい。星外の犯罪組織に目を向ければ本体の整備・補給を行える技術者には事欠かないが、彼らも人間仕様の操縦席は整備できない。そして、力を行使する当事者と人間の言葉で話せなければ使い物にならない。よって、榊のような、会話できる人間で超電装を用いた戦闘が行え、そして犯罪歴のある人間は組織犯罪集団やテロ組織に重宝される。彼の脱獄にあたっては、地球圏での勢力拡大を目論む〈レッドスター・ファミリー〉も手を貸した。
完全に清廉潔白な人間など数少ない。帝国陸軍が保管していたはずの榊の超電装は不可思議な法的裏付けと追跡できても撲滅はできない闇の経路を通じて、自由の身となった榊の手元に戻り、修復と改造を受けた。
「ま、俺の出番がなくてよござんした。俺にも美意識ってものがありますから」減速する列車。榊は眼前に広がる光景に口笛を吹いた。「本当にロンドン橋を落とすのは御免でさあ」
見事なゴシック様式に彩られた一対の尖塔に挟まれた、テムズ川に架かる跳ね橋。魔都倫敦の象徴ともいえる建造物だ。観光名所にして生活道路でもある橋は、今も多くの車や歩行者が行き交っている。塔と塔の間を繋ぐ二本の通廊からは倫敦の景色が見渡せるのだという。絵葉書や写真のままの景色は訪れる者を魅了してやまない。だが、誰もが知る童謡のために、多くの人が誤解する。
「あれはタワー・ブリッジですよ。ロンドン橋は左手」
「別だったんですかい」
列車が甲高い制動音を鳴らす。立つふたりの足元が揺れるが、膝立ちになった葉隠幻之丞は微動だにしない。
後方から鈍く光る銀色の男が大跳躍し、着地する。全電甲戦士のひとり、〈赤のソードマン〉である。剣技にもかかわらず切断ではなく衝撃だけを与える謎めいた剣術、蒸奇殺法・鬼ノ爪を受けた彼の胸部が無様に凹んでいる。
赤い発光機が明滅する。
「礼はさせてもらうぞ、葉隠幻之丞。……構いませんね、導師」
「もちろん」片手を開いて応じる白装束。
〈赤のソードマン〉は、目を見開いたまま硬直する幻之丞の正面に立つ。
そして目一杯仰け反る。額の刃が月光を受けて妖しく煌めく。
胸の赤い球体に共生する何者かはともかく、二刀しか持たないただの人間に身体を傷つけられるばかりか、列車から叩き落されそうになり、ようやく這い上がって戻ってこられたのだ。加えて、この葉隠幻之丞という男は、技を出し惜しんだ。全身を機械に置き換え、この地球上に他に並ぶ者ない戦士と自認する彼にとって、これほどの屈辱はなかったのだ。
鋼も切り裂く額の刃で脳天を貫き、無様な死体をタワー・ブリッジの天辺に晒してやる――そう考え、反動をつけて頭部を振った、その時だった。
溢れんばかりの蒼白の光が葉隠幻之丞の開けた胸元から発せられた。
自失していたはずの葉隠幻之丞が、口の端で皮肉に笑い、叫ぶ。
「蒸奇殺法、十文字斬り!」
*
「やるねえ、赤いの!」
仕留めたつもりだった。
不意打ちに等しい十文字斬りだったが、〈赤のソードマン〉を切り裂くには至らない。だが、刃だったものが一本、宙を舞い、満月に重なり、そして客車の天井に突き刺さった。
〈赤のソードマン〉がずれた歯車のような金切り声を上げる。額から一本角のように伸びていた三本目の刀が、無惨にも叩き折られていたのだ。
今や、葉隠幻之丞の胸の光球からは、目も眩むほどの蒼白の光が発せられている。本来ならば、遺体を、星鋳物という形に堕さしめて初めて人に与えることを許されるはずの〈奇跡の一族〉の力。それがこの三次元宇宙に生存する個体から、葉隠幻之丞という個人に直接重ね合わされ、この世ならざる力を発揮していた。
「急げ、幻之丞」山びこのように遠ざかった〈奇跡の一族〉の声がした。
禁じ手中の禁じ手。幻之丞の肉体への負荷はもちろんのこと、長時間に渡り用い、他の同族に露見すれば、星団憲章への重大な違反とみなされて処罰される。そのための三分間だ。
列車は既に停車していた。幻之丞は言った。
「黙っとけよ、トミー」
「モチのロンさ!」足元に生えた顔が言った。「またのご乗車をお待ちしてるよ!」
返事はせず、刀を構え、跳んだ。
導師と榊は列車を自力で降り、人混みに紛れている。一方の〈赤のソードマン〉は駅舎の壁や柱を蹴って跳ね回る。市民だらけの広々とした駅の広間が騒然となる。その中央に着地する幻之丞。周囲に旋風が起こる。上方から襲いかかってくる〈赤のソードマン〉を見据えて言った。
「悪いな。俺、飛べるんだよ」
跳躍ではなく飛翔――防御の構えを取った〈赤のソードマン〉もろともに、光の尾を引いて駅舎の屋根を突き破る。
青にささやかな赤が巻き込まれる。そして雲に月が見え隠れする上空。テムズ川、タワー・ブリッジ、ロンドン橋、大聖堂、遠くにはビッグ・ベンとバッキンガム宮殿、それらを押し包むようなシャーロック・ホームズの巨体――刹那の間に夜景を満喫し、暴れる全電甲の男を蹴り飛ばした。
緑地帯に墜落した男を、さらに追撃。今や風とひとつになった幻之丞が空から肉薄し、青い光を纏った刀を振るう。飛び跳ねて逃れる〈赤のソードマン〉。刀に沿って一〇〇米ほども、緑地が定規で線を引いたように切り取られる。
一方、強化された五感が新たな動きを捉える。屈曲する光。螺子曲がる空間。星虹の門を抜けて、巨大な機械の人形が召喚される。
「そこまでだっ、葉隠幻之丞!」
超電装の装備にしては大音声な拡声器越しの、目一杯ドスを効かせたチンピラの叫び。幻之丞が横っ飛びで避けたところに、巨大な青い拳がめり込んだ。
恐らく、元となった機体は戦場で拾われたか軍から横流しされた四八式〈兼密〉だ。だが、右腕が胴体を上回る太さであり、平面を組み合わされた元の装甲とは似ても似つかない曲面主体になっている。装甲の隙間から覗く部品は、闇市場に流通しているものを寄せ集めたためか、注意書きの言語がことごとくバラバラだった。量子倉を経由した転送のせいだろう、深い青色の塗装はあちらこちらが剥げ落ちていた。
そして、腕の表面には和彫りのような龍が描かれている。数えて九体の龍がもつれ合いながら天に登ろうとする図柄だった。
「この時を、この時を待っていた!」操縦席の榊貴利が叫んだ。「俺はツイてる! てめえが野郎の師匠なら、天が与えた雪辱の機会! てめえの屍をあの塔の天辺に晒してやらあ!」
走る超電装。飛ぶ幻之丞。背丈の低い建物の間から、導師を抱えて飛び跳ねる〈赤のソードマン〉の姿が見える。タワー・ブリッジの袂へ向かっているようだった。
公園を抜ける。橋へ向かう道路を走る車が、ざわつく森をかき分けて現れた青い超電装に驚愕し、そこかしこで追突事故を起こす。遊歩道をそぞろ歩きする恋人たちが怯え、野良猫が死にもの狂いで駆け出す。
幻之丞はテムズ川とタワー・ブリッジを背にして着地。構えを整える。
すると、榊は河岸に投錨したあるものに目をつけたようだった。
飛行軽機動艦・HMSベルファスト記念館――大戦中に大英帝国海軍で活躍した蒸奇式飛行戦艦の一隻である。華々しい戦果や英雄譚には恵まれなかったものの、先の戦争の最激戦のひとつである、超電装を大量投入した仏蘭西上陸作戦に参加したことで知られている。そしてつい先日退役し、テムズ南岸にて博物館として生まれ変わったばかりだった。
その水色と灰色の幻惑迷彩が施された装甲を、青い腕が鷲掴みにする。比較的小型の艦といえど超電装を遥かに上回る艦体が、来館者の通路となっている桟橋を砕き、川の水を滝のように滴らせながら、宙に浮く。
そして幻之丞目掛けて、投げた。
対する幻之丞は、身から溢れる蒼白の光を二刀に巻き取り、斜め十字に振るった。
刀跡に沿って、砕けも赤熱もせずに滑らかに四分割されるHMSベルファスト――その背後から、この世の歪みを我が物としたかのように不均整な超電装が迫る。
「この〈
人間対超電装。
見守る市民が息を呑む。曲がりなりにも十字を背負い、曲がりなりにも司祭服に身を包んだ東洋人の男が、遥かに巨大で悪魔的奇形の超電装に叩き潰されようとしている。ある者は目を奪われ、ある者は神に祈った。恋人たちは互いの手を取り、子は親に縋り、親は子を抱いた。
彼らの視線を一身に受け、幻之丞は呟いた。
「しょうがねえな。とっておきだぜ」
振り上げられた巨大な拳。幻之丞の腰が沈む。両手の小太刀の切先が地面に触れる。青い光が渦を巻き、テムズ川を大いに波立たせる。
気合一閃。一瞬だけ生成される光の刃が夜空を焦がし、夜霧を照らす。さらに目にも留まらぬ連撃。二、三、四、五――もしも見定めることのできる者がいれば、八つの光条が閃く様を目に焼きつけられただろう。
〈九悶龍・改〉の姿勢が乱れる。
そして右腕に次々と刻まれる刀筋――計ったかのように正確に平行なものが八。
「蒸奇殺法、八岐大蛇」
本来は超高出力の光刃刀の類を用いて繰り出す、自身よりも遥かに巨大な相手を切り裂くための技である。そして、葉隠幻之丞がまだ弟子に伝授していない隠し玉のひとつだった、
悶える九体の龍が描かれた腕が九枚おろしに刻まれる。飛び散る部品。河岸の柔らかい土に次々と突き刺さる八つの残骸。本体の超電装は平衡を失い、地響きを上げて川辺に墜落する。
遅れて道路や橋上から歓声が上がった。
だが、まだ幻之丞は構えを解かない。強化された第六感が、さらなる怪物の来訪を告げていた。
タワー・ブリッジ直下の水面が盛り上がる。橋の上から、導師を抱えた〈赤のソードマン〉が跳躍する。そして現れる金色の影。
「潜水艇……いや、違う」
幻之丞は地面を蹴って空中へ舞い上がる。
水面を割って現れる金色の角のようなもの。その先端には、列車から落ちたはずの〈緑のダガーマン〉の姿がある。朧気に浮かぶ金色の輪郭は、人の形をしているようにも見える。だが、大きい。あまりにも大きい。星鋳物を含めた超電装は概ねみな四〇米程度であるのに対し、この影はその数倍は巨大だ。たった今四つに切り裂いたHMSベルファストをも上回っている。
〈赤のソードマン〉と導師が着地。圧倒される幻之丞をよそに、何かがまた水面から飛び出す。
蛇腹のように伸びた腕だった。これも金色に輝いており、右腕を失い倒れ伏した〈九悶龍・改〉を掴むと、水中へと引きずり込む。
川底からかすかに虹色を帯びた光が立ち上る。大規模な量子倉が展開されたのだ。
逃してなるものか――幻之丞は悠然と微笑む導師へと挺進する。だがその直後、幻之丞を包んでいた光が消えた。
「済まない、時間切れだ」と胸元の〈奇跡の一族〉が言った。蒼白の輝きは失われ、元の赤へと戻った。
「さらばだ、先代蒸奇探偵」と導師が言った。「天樹の庇護があろうとも、君らに私は止められない」
「お前は何者だ!」
「選ばれし下天の主。人は私を導師と呼ぶ。だが私はこう名乗る。
光の柱が次第に細くなり、金色の怪物が星虹の彼方に消える。赤と緑の発光機を持つ二体の全電甲と白装束、選留主が隔壁を閉じ、金色の中へと消える。
そして、空間を越える門が閉じた。
幻之丞は叫ぶ。怒りでも悔しさでもない。
「おわーっ! 落ちる落ちる落ちる!」
神通力を失った幻之丞は、今や空飛ぶ超人ではない。ただの超人である。空中に放り出されれば落ちるし、水面に激突すれば痛みも感じる。肚を括って刀を納め、身体を丸めて幻之丞はテムズの流れに飛び込んだ。
全身が鉛のように重かった。三分間、人間に許された範囲を明らかに越えた動きを強いた肉体が悲鳴を上げていた。それでもやっとの思いで水面へ出ると、四方八方から投光機の光を浴びせられる。両岸とタワー・ブリッジには夥しい数の軍や警察の車両。大いに出遅れた〈グレナディア〉が野次馬に手を振り制止している。
さらに上空には鉛筆に羽を生やしたような飛行機械が滞空し、さらにその上空には月光を遮る巨大な浮遊要塞が聳えていた。幸いにして、彼らは幻之丞の旧知だった。
飛行機械から大きな画面が空中投影され、髪を整髪料で撫でつけた実直そのものの英国青年が映し出される。
「災難でしたね、ミスター・ハガクレ。今救助します」
ストーンピッカー兄弟。蒸奇技術を駆使した非武装の超機械を多数保有し、英国を拠点に全世界の救命救難活動を行う私設の慈善団体〈GR〉の主催者の孫たちだ。人形か何かのような、あからさまな愛想笑いを向ける英国青年は、彼らの長兄である。
水面で立ち泳ぎしつつ、幻之丞は怒鳴り返す。「俺はいい、それより上流にシャーロック仕込みのエージェント殿が浮いてるはずだ。不死身のハゲだ。拾ってやれ」
「あなたが最優先とグランマが」
「グランパは?」
「グランマの間男など放っておけと」
「あれはお前のグランマの方から言い寄ってきたんだ。俺は悪かねえ」
「申し開きは基地で伺います」
「それより早くお前らの潜航艇を出せよ。連中の痕跡を追うんだ」
「あれは今南大西洋に出動中です」
「じゃあエイだかヒラメとかいう名前のチームは」
「彼らは欧州侵略を目論む半魚人勢力の拠点制圧作戦の最中です」
「ちきしょうめ。世界平和はまだ遠いみたいだな」
「ところであなたは泳ぎがお上手ですね。重たいカタナを抱えて立ち泳ぎとは」
「疲労困憊だよ! さっさと助けやがれ!」
画面が消え、それを合図に両岸から小舟が飛沫を上げて近づいてくる。
「大儀であった、幻之丞」と胸の光球が言った。
「何が大儀だよ。あと一歩だったのによ」
「進めば私も喰われていた」
「そんなにか。あの金ピカ大明神」
「ああ。あれに対抗できる存在はこの地球上にただひとつ。星鋳物第七号〈闢光〉だ」
「はいはい。前座はここまでってな」タワー・ブリッジを下から見上げ、幻之丞は呟いた。「お後がよろしいようで」
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