5.それでは跳んでください

 簡着物とは、その名の通り簡単に脱ぎ着ができる着物である。多くは綿や化繊。見た目は和服だがボタンやファスナーを備え、多くは上下で別れている。上野中央女学校の制服もまた簡着物であり、和服のように前を合わせて着る上衣と、洋風のキュロットスカートないしスカートのような形状で見た目は袴のような下衣から成る。襦袢のようにも見える肌着は襟元から見せるのが普通で、何色を着るかに感性が問われる。一応無地という指定はあるが、色の指定はないのである。上級生には敢えて縞模様や市松模様のものを着る生徒もおり、得てして彼女たちは、学級一のモダンガールだ。

 同じ制服といえど、各々工夫を凝らしているものだ。足元からレース飾りを覗かせてみたり、脛の半ばくらいまで丈を詰めて洋風の靴を合わせてみたり。なるべく身体の線に合わせるべくみな工夫を凝らしているが、それは扇情的であるとかなんとかで、風紀指導の女性教諭が日々熱を上げて取り締まっている。

 そして、誰もが工夫に工夫を重ねているのが、飾り帯の結び方だった。

 昔の着物や袴はともかく、今の簡着物は内にホックとファスナーがついているため、帯やベルトを結ばなくても落ちることはない。しかし、だからこそ、飾り帯の結び方は感性が問われ、肝要である。

 そしてあかりの頭を悩ませるのもまた、飾り帯だった。

 故郷の学校は華美な飾りを禁じていたため、簡袴と同じ色のものをぐるぐる巻いて結んで結び目を入れ込んで終わり。だが花の帝都ではそうもいかない。膝まで垂らしてひらひらさせる生徒もおれば、牡丹の花のように見事に結ぶ者もある。目を奪われ、そのたびに真似ようとするが、これが上手くいかない。

「難しい。銀河標準語A種の方が絶対簡単」

「いやあかりちゃん、それはない。絶対ない」と応じた田村景は、至って地味なお団子を作っている。地味だがとても難しいのが肝要だ。彼女を真似したこともあったが、どうしても解けてしまうのである。

「えー、でもA種は発音できるしさー」

「あたしゃあ英語だって無理だっての」生真面目そうに見える景だが、実は算法以外は滅法苦手なのである。

 すると、なぜだかとても得意気な笑顔を浮かべた北條撫子が近づいてくる。

「はい早坂さん、起立」

 両手を広げて立ち上がるあかり。

 撫子の手があかりの腰に伸びた。そのまま抱きつくようにして、手早く解き、結んでいく。袴より少し明るい色の飾り帯が、見る間にあかりの左腰で蝶のような形になった。

「はい、できた」

「おおっ、お見事」

「いいのよ。これから毎朝やってあげるからね。明日は解いてきてね」

「それは駄目」

「えっ……」途端にこの世の終わりのような顔になる撫子。

「いや、やだってわけじゃなくってね」

 それはモダンガール五つの誓いに反する。どれに反するわけではないが、きっと、人の親切におんぶに抱っこでは、姉の語ったモダンガールにはなれないのだ。

 景が頻りに頷いて言った。

「向上心のないやつは馬鹿だって漱石先生も言ってるからね。……それでおふたりさん」景は眼鏡にこれ見よがしに片手を触れる。「今日はこの後、お暇?」

「わたしは……」無愛想な探偵の顔を思い浮かべつつ、あかりは応じた。「うん。暇」

「撫子さまは……」

「わたしも今日は、大冒険できるわ」握り拳を作って撫子は応じる。「今日はお迎えがないの」

「よし、じゃあふたりともうちのお店来ない? 来月から夕方に喫茶営業しようと思っててさ、うちのお父さんが友達を味見に連れてこいってうるさくって」

 おお、と思わず声が出た。

 これは、学校帰りに、学友と寄り道をするやつである。、モダンガールっぽいのである。

「行く。今すぐ行く。ありがとうおケイちゃん」

 撫子が口元に手を添えながら「楽しみですわ」と微笑む。

 だが、教室を出ようとすると、あかりの耳に同級生たちの忍び笑いが聞こえた。

 撫子さんったら、あんな田舎娘の世話を焼いて。撫子さんは優しいから。田村さんも図々しいよね。

 全部聞こえなかったことにして、景と撫子の肩を押した。

 しかし泣きっ面に蜂という言葉もある。校門へ出たあかりを待ち構えていたのは、よりによって無愛想な探偵、その人であった。

 詰襟シャツに着物の書生姿に、今ひとつ似合わない地味な色の帽子。隣に時計頭の謎の男まで従えた伊瀬新九郎は、悪びれる様子もなく言った。

「や、早坂くん。ちょっと急ぎの仕事だ。いいかい?」

「え……わたし、今日は予定が」

「侵略者は待ってくれないんだ」

 すると意外なことに、撫子が頭を下げて言った。「ご無沙汰してます、伊瀬のおじさま」

「こちらこそご無沙汰だね、撫子くん」新九郎は帽子を取って応じた。「意外だ。早坂くんとは親しいの?」

「わたしが早坂さんに構っていただいているというか……」

「ありがとうね。彼女はまだここの暮らしに慣れていないから、君が手助けしてくれると嬉しい」

「そんな。お礼を言われるようなことは、何も……」

「え、あの、先生、知り合いなんですか。撫子ちゃんと」

「ああ。ちょっとね」

 ちょっとってなんだ、と訊きたくなる気持ちを堪えた。こういうときの伊瀬新九郎は、問い質しても適当に誤魔化してしまい、絶対に答えてくれないのだ。

 しかし、伊瀬新九郎の、撫子への、愛想がいい。これはどういうことなのだ。

「あかりちゃんあかりちゃん」と景が耳打ちする。「この人が噂の蒸奇探偵さん?」

「そうそう。正体はこんなんですよ」

「意外と真面目そうなお人だねえ」

「意外と?」

「お仕事なら仕方ないですね」肩を落としつつ撫子は言った。「ふたりで参りましょうか、田村さん」

「しゃあなししゃあなし。また明日ね」

 ひらひらと手を振る撫子に、ぶんぶんと腕を振る景。

 ふたりを見送ったあかりは、苛立ち紛れに新九郎を睨んだ。

「なんだ。何を怒っている、早坂くん」

「別に怒ってないですけど……」

「それならいいが。……頼めるか、クロックマン」

「かしこまりました」英国流に一礼して、時計頭の男が言った。「それではおふたりとも、跳んでください」

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