27’.上野恩賜公園裏 不忍通り 午後〇時五〇分

 インカムから聞き知った上司の声がした。

「ホシが逃走。西郷像……訂正、交番の方へ行った。お前らが近い。アメヤ横丁に行かせるな。騒ぎになる」

「しゃあなし。行きますよ先輩」と隣の後輩が言った。「先輩、何ぼんやりしてんですか」

 後輩、門倉駿也は髪型に妙なこだわりがあるようで、頬まで垂れる前髪を決して切ろうとしない。何度言っても直らないので、これが最近の若者か、と最近は上司とふたり呆れて諦めている。縦社会に抗うことが仕事であるかのように、口も悪い。しかし仕事は優秀。度胸も体力もある。あいつは出世しないと笑いながらも、彼を出世させることが自分の仕事のひとつでもあると、伊瀬新九郎は考えていた。

 長い夢を見ていた気がした。

 先輩、ともう一度呼ばれて我に返る。行くぞ、と声をかけて、走り出した。

 風俗資料館に近い出入口を固めていた新九郎と門倉は、不忍池を背に駅方面へ走り、ドラッグストアの角を左へ折れる。休日の駅前広場は、動物園や博物館を目指す家族連れや、美術館へ向かうだろう学生風の男女、毎日の散歩コースにしていると思しき老夫婦や、トレーニングウェアで汗を流す男女らで賑わっている。ありふれた光景。日々移り変わるが毎日同じ風景。その中に、一見してわかる異物が姿を見せる。

 まるで中世の王侯貴族か何かのようなコスプレ衣装に身を包み、階段の最上段に現れた、頭部にアクションカメラを装着した男。連続窃盗犯として上野署が追跡していた、安藤和夫という男である。

 別の捜査員から報告が入る。「逃走を生配信してる。マスコミに注目されてる事件だ。確保は慎重に」

 これが安藤の手口である。彼は都内各所で、主に戸建てを狙う空き巣を繰り返していたが、必ずその犯行の一部始終を頭部のアクションカメラで生配信していたのである。犯行を重ねるたび、視聴者数は増加の一途を辿った。動画サイトの運営もアカウント削除等の対応を取ったが、すぐに似たIDを取得しまた空き巣生配信。直近の一回などは、被害総額よりも配信中に投げ銭機能で視聴者から受け取った金額の方が大きかった。

 当然、マスコミも注目する。繰り返しの犯行を許す警察への非難の声も高まる。特に被害者の怒りと嘆きのSNS投稿がバズった三回目からは、事件を担当する上野署の電話が鳴り止まなくなった。警察は何をしている、いつまであんなふざけた男を野放しにしている、アントワーヌを捕まえないでください、彼こそは資本主義の欺瞞を暴く真の英雄である、等々――。

 アントワーヌ、とは彼の投稿者としての名だった。IDにも、フランス語や音読みしたローマ字でアントワーヌという語が必ず盛り込まれている。コスプレも毎度王侯貴族風であるため、誰からともなくいつの間にか、〈犯罪王子アントワーヌ〉などという大層な二つ名までついてしまった。ファンたちは家臣と呼ばれている。

 警察も手をこまねいていたわけではない。三度目の犯行は、配信開始直後に場所を特定。所轄の警官らが急行した。しかし、逮捕には至らなかった。その理由は、常人離れした身体能力である。

 新九郎らの眼前で、階段を固めていた数人の捜査員が安藤へ突進する。しかし安藤は、前方宙返りで階段端の手摺の上に着地。そのままの勢いで手摺に尻を乗せて一気に滑り降り、仰天する似顔絵師の頭上を飛び越えて着地。さらに加速しカエルの噴水の縁を足場にジャンプし、三段飛ばしに階段を降りる。

「すごいな。まるでスーパーヒーローだ」と門倉が言った。

 今は削除された安藤の最初のアカウントには、空き巣動画とともにフリーランの動画が上がっていた。身元が判明したのは、その動画で一緒にパフォーマンスを披露していたトレーサー仲間を通じてである。しかし彼らは互いの本名も知らなかった。聞き出せた断片的な情報から最寄り駅を特定し、コスプレ衣装が既製品ではなかったことから行動範囲と思われる手芸店やホームセンターに地道な聞き込みを行い、最終的にはクレジットカードの個人情報から本名が判明した。ポイントカードは偽名だった。五度目の犯行を許した直後のことである。

 しかし今回は、いつもゲリラ的に配信する安藤には珍しく、生配信を事前予告した。よりによって上野公園で。

 あまりにも違和感のある行動であり、警察を動かして遊ぶことが目的ではないかと考える者も署内には多かった。一方、ネットは盛り上がった。博物館や美術館の財宝を安藤が盗むに違いないと推測したのである。

 結果として、上野署は万全の警備を敷くことはできなかった。そして安藤は何も盗まず、人員不足の警察を翻弄しながら、ただ上野公園を走り回った。

 だが、そんな犯罪王子のショータイムも、終わりに近づいていた。

 安藤の背後からは三名。正面には門倉と新九郎。さらにその背後で車のドアが開き、待機していた数名の捜査員。さらに他方からライオットシールドを持った制服警官が追いついてくる。さすがに安藤も体力も尽きている頃合いだ。問題は、既に十分目立ってしまっていること。走る安藤を喧騒とスマホのカメラが追う。声を張り上げて野次馬を引かせ、姿勢を低くして門倉が安藤へ正面からタックルする。

 右か左へ避けるに違いない。それでも追い縋り、衣服の一部でも掴めれば速度が鈍り、他の捜査員が追いつき止められる。安藤は武器を持っていない。持てば、動画の視聴者から支持を得られないからだ。そして最良の逮捕術は、圧倒的多数で囲んで逃げ道を塞ぐことだ。多数は、優れた技量を持つひとりの人間に必ず勝るのである。

 しかし安藤は、突進する門倉を、真正面から飛び越えた。

 片手を門倉の肩につき、困惑する彼の背を滑るように越える。門倉が振り返った時には、もう速度を上げている。

 続けて新九郎。安藤は左へフェイントをかけた。そこへ新九郎は、ジャケットの胸ポケットから取り出したものを放った。右へ走り抜けようとした安藤の膝にそれが当たる。テンポが乱れた。タックルをかけ、尚も暴れる安藤に足払いをかけて倒す。放り投げたもの、煙草の箱が押し潰される。

 捜査員らが集まってくる。新九郎は安藤の左手首を掴んでうつ伏せにし、右手首も同じく背に回して極めた。

「暴力だ! 暴力です! 警官の不当暴力!」

 捜査員のひとりが、安藤の頭から外れたアクションカメラのレンズを塞ぐ。新九郎は腕時計を見て、安藤の腕に手錠をかけた。

「安藤和夫。〇時五〇分、公務執行妨害で現逮」


 安藤への取り調べは極めてスムーズだった。取調室に新九郎が入るや否や、聴いてもいないのに自身の犯行を朗々と説明し始めたのである。

 そして静止も構わず延々と喋った挙げ句に、こんなことを言う。

「私は時代の寵児になりたかっただけですよ。盗んだ物品は自宅や貸し金庫にすべて保管してあります。スパチャと広告収入でゲットした金額は、弁護士代や示談金や罰金を支払ってもお釣りが来ますよ。窃盗罪って一〇年以下の懲役か五〇万円以下の罰金ですよね? 私、初犯ですし。被害者の方々とは丁寧に対話して、誠意をもって弁償させていただくつもりですよ。自分ではワンチャン起訴猶予もあると思うんですけど、どうでしょうかね、刑事さん。なれてますかね、時代の寵児。いえ、王子ですかね」

 この物言いに、新九郎の上司である刑事課の財前警部補は、呆れて肩を竦める。

「万が一にも起訴猶予なんてことがあっちゃならねえ。安藤は有名になりすぎた。痛い目を見てもらわないと、模倣犯が出る。やつのやり方のコスパの悪さを証明する必要があるってことだ。厳重処分つけて送検だな。それにしても、ユーチューバーってのはさっぱりわからん。なんでこんなことすんのかねえ」

 これを隣で聞いていた門倉駿也は、一〇分後に自販機の前でこう言った。

「模倣犯、もう出てるんですけどね。安藤のようにエレガントに犯行を重ねられないだけで。でも迷惑系って基本支持されませんし、安藤はたまたま図抜けたスキルがあった特殊なケースですよ。そもそもYoutubeじゃなくてYoutubeやTwitterから誘導した怪しい動画サイトですし、なんだか不安になってきましたよ」

 特殊、は新九郎も同意するところだった。警察の前に姿を見せたのは、十分に黒字化する収入の目処が立ったから、と安藤は語った。警察との大捕物は再生数と投げ銭を押し上げ、結果的には、警察が安藤に手を貸す形になってしまっている。

 そして続けて、門倉は言った。

「先輩は上がってください。そもそも安藤の件、先輩の担当じゃないでしょう。それに、待ってる人がいるじゃないですか。……そういう時期ってどれくらいで終わるんです? 興味あるんで、教えて下さいよ」

 うるせえ、と応じて門倉の肩を小突いた。その瞬間、大きな違和感が新九郎を襲った。似たようなやり取りを一〇〇回は繰り返した気がする。ひねくれ者の後輩と交わす軽口。予想外の出来事の多い仕事。鈍いのか鋭いのかよくわからない上司。何もかもが思い通りに進むことなどひとつもなく、しかし確かな自信と充足感が積み重なっていく日々。新九郎はこれを知っていた。だが、知らない。まるで他人の人生を背後からずっと眺めているかのようだった。

 その日は他の捜査員に安藤の調べを引き継ぎ、新九郎は帰路に着いた。しかし署を出た時にはもう日付を跨いでいた。

 街並みの隙間から、東京スカイツリーが時々見通せる。一番美しいスカイツリーだと思う。

 まだ灯りが残る繁華街でふと、新作映画の広告に目が留まった。半世紀ほども前のアニメのリメイクか続編かの劇場版だった。戦艦が空を飛び、宇宙を飛び、焼け野原になった故郷を浄化する装置を受け取るために果てしない旅をする、荒唐無稽な物語だ。望んだとはいえあまりにも仕事が多忙で、もう何年も映画館に足を運んでいなかった。

 その隣には、巨大ロボットが出てくる漫画の広告。子供向けの改造人間が出てくるドラマの劇場版。刑事ものの新作テレビドラマの広告。目を上げると、時代劇ものらしい海外制作のドラマシリーズの看板がある。主人公は神父で侍で宇宙人と仲がいいらしい。荒唐無稽だ。

 視線を感じ、足を止める。中華料理店の裏手で、上下レザーに身を包んだ短髪の女と、少女趣味なドレスでいやに髪の長い女が、並んで車止めに腰を預けてどこかで買ったらしき缶チューハイを傾けている。このあたりで、夜中に一風変わった風体の若者を見かけたら、十中八九まで芸大の学生だ。

 煙草を失くしたことを思い出した。

 コンビニに立ち寄り、値上がりしてばかりのアメリカン・スピリットの黄色を買った。少し歩いて、この時間には閉店している煙草店の前で、一本咥えて一〇〇円ライターで火を点ける。何時であろうと、帰宅前にここで一服することがいつの間にか新九郎の習慣になっていた。いつからのことかは思い出せなかった。男子寮を出て今の公舎に移り、それから――。

 昔のことを思い出すとは、歳を取ったということだ。しかしたかが三〇の巡査長が、先輩らの前でそんなことを言ったら、きっと非難轟々になる。

 伊瀬新九郎。警視庁上野署の刑事課に所属する巡査長。

 たっぷり一〇分ほどかけて一本吸ってから吸い殻を灰皿に放り込み、頭上に手をやった。まるでそこにいつも何かを被っていたかのように。

「疲れてるな」と呟いた。

 そして歩くこと数分。集合住宅の公舎は、ほとんど灯りが消えている。だが、帰るべき我が家からは、暖色の光がカーテンの隙間から漏れている。ひとつ息をついて階段を登り、新九郎は自宅の扉を開けた。

「ただいま」

 奥のリビングの方から声が返ってきた。「おかえりなさい。テレビで見たよ。安藤和夫の大捕物」

 靴を脱いで、スリッパに履き替えて廊下を進む。

「ああ。もう大騒ぎだったよ。あんなのはドラマだけって言えなくなった」

「やめて。夢が壊れる」

「起きてなくてもよかったのに」

「いいのいいの。どうせ私も締切が近くて、どこかで追い込みかけたかったし」

 四人掛けのダイニングテーブルの上に、ノートPCが一台と散らばった印刷物。そして前髪を後ろで縛り、両膝を抱えるようにして椅子に座り、黙々とキーボードを叩いていたジャージ姿の女が顔を上げた。

 妻の依子。学生時代からの付き合いで、今年で結婚して五年目になる。新九郎が大卒後に警察官となる一方、英文科を出た彼女は、現在はフリーの翻訳者として、国内企業のウェブサイトや英文プレスリリースの翻訳を主に請け負っている。だが、本人曰く、一番楽しいのは学生時代の教授の伝手で回してもらう、英語圏の小説の翻訳なのだとか。散らばる資料を見るに、今はその、一番楽しい仕事のようだった。

「締切って、来週って言ってなかった?」

「追い込みにはタイミングがあるの」と依子は応じ、髪留めを外して手櫛を通した。「それに、顔見たかったから」

「顔?」

「心配したんだって。テレビもネットも大騒ぎの事件のニュースに、自分の旦那の姿が写ってるんだもん。連絡してもスルーだし。新九郎さ、たまに自分がスマホ持ってること忘れてない?」

「ごめん、ごめん」

「いいよ。知ってるし」

 ひとつ年上の依子からは、時々こうして説教染みたことを言われてしまって、頭が上がらない。

 鞄を置いて上着を脱いで、ハンガーを探していると、依子が続けて言った。

「連絡してくれないと、仕事、手につかなくて困るから」

 キーボードは、エンターとバックスペースを繰り返している。

「気をつける」

「うん。そうしてよね」と言って、肩越しに振り返った。「煙草。また吸った?」

「……わかる?」

「やめなって。ストレス多いのはわかるけどさ。寿命縮むよ?」

「わかった、わかった」

「全然わかってないじゃん。依存症なんだからさー……」

 旗色が悪かった。話題を逸らそうと、新九郎は依子のPCを覗き込んだ。「どんなの訳してんの? 小説?」

「うん。これが結構難しくて。探偵ものなんだけど、アクションがあるし、固有名詞も多いし、ポップカルチャーへの参照も多くて……」依子がPCを操作し、画面に表紙が映し出された。

 電撃が頭を駆け巡った。新九郎は目を見開き、上着を取り落した。

 原題は『Strange Steam』。

 依子の訳した邦題は、『蒸奇探偵』。

「僕だ」と新九郎は言った。「それは、僕だ」

「……新九郎?」

「僕なんだ。東京じゃない。帝都だ。スカイツリーじゃない。天樹だ。日本は太平洋戦争に敗北した。僕は刑事じゃない。探偵だ」

「鬼灯探偵事務所の」

 言われ、顔を上げた。胸に飛び込んでくる依子が、目の前にいた。突然だった。痛いくらいに抱き締められていた。

 依子は言った。

「ずっとあなたに会いたかった。久し振り、新九郎」

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