346.年上趣味の男[終]

 不可能なことなどない。昨日の夢は今日の希望であり、明日の現実なのだから。

 ――ロバート・ハッチングズ・ゴダード


――――――


 大人になれば顔は変わる。それでも、人の親になるのが当たり前の年齢になると、この子が将来どんな顔になるのか、想像できてしまう目がいつの間にか身についている。人間とは面白く、そして厭らしい。

 この子は相当な美少年になるだろう。母親似だ。

 人がすれ違うのもやっとの路地裏で、新九郎は腰を落とし、その少年に向き合っていた。

 谷中の細い路地裏のこじんまりとした平屋の戸建てが、〈紅山楼〉を引退した紅緒と、彼女についてきた沙知、そして紅緒が産んだ子の三人が暮らす家だ。吉原の華やかさと比べればあまりにも地味。それでも、肩肘張らないそれなりの幸せがある。

 紅緒は谷中銀座の隅で小さな雑貨店を営み、周りの子供らにあくまで習い事としての琴や三味線、奥さんたちに和裁を教えている。評判は上々――時折店や自宅にやけにのっぽの怪しい男が現れることを除けば。

 沙知はといえば、〈紅山楼〉を離れて随分と生意気になった。元々紅緒の後継者候補のひとりとして育てられていた彼女は、表に出ればそんじょそこらの同世代には負けない学力を身につけており、今は定時制に通い、店の手伝いと喫茶店の女給、それに加えて子供の面倒も見ながら、大学進学を目指している。伊瀬の先生が入れたんだから楽勝でしょう、などと不遜な口も聞く。こざっぱりとしたおかっぱに、洋式の制服がよく似合う。今年で一七歳である。

「話してあげてくださいよ、先生」とその沙知が言った。「話さないと、一生懐きませんよ」

「懐かれない方がいいのさ。少し嫌われるくらいがいい。その方が、彼は強くなる」

「また、そんなことを……」

 新九郎は少年の頭を撫でる。癖の強い髪は母親に似なかった。きっと遠からず、帽子で抑えなければ野放図に広がる厄介な髪になる。他でもない、新九郎と同じように。

 すると、その少年は、居心地が悪そうに新九郎の手を振り解くと、その辺に落ちていた木の枝を拾って、構えた。

「ほら、嫌われた」

「もう三歳か。早いな」

「だから、わたしじゃなくて、新八と話さなきゃ」

 年齢が半分の少女に窘められ、新九郎は腹を決めて、少年、赤羽新八に向き合った。

 つくづく似ていないな、といつも思う。だが、枝を構える彼の顔に、懐かしさに似た感傷が急に押し寄せる。どんなに目を背けても、確かにこの少年には、伊瀬新九郎の血が流れているのだ。

「偉いな」と新九郎は言った。「ちゃんと、母さんと姉ちゃんを守るんだぞ」

「おまえ、きらい」と新八は応じた。

 後ろで沙知が吹き出す。新九郎は、新八の小さい身体に手を伸ばす。枝を両手で持たせ、片足を引かせ、背筋を伸ばさせる。

「一〇になったら、僕の倒し方を教えてやる。だからちゃんと、母さんと姉ちゃんの言うことを聞いて、いい子にしてろよ。……さて」新九郎は袴の埃を払って立ち上がる。「さくらさんは?」

「お店の方です。渋るなら、ふん縛ってでも連れてこいって、母は」

 新九郎は大きく肩を落とした。

 絶対行ってくださいよ、という沙知の声に追い払われるようにして、密やかに家族を営む赤羽家を後にした新九郎は、普段は着けない腕時計を気にしつつ、谷中銀座の方へ出る。今日だけは、時間が大事なのだ。

 そして、窓硝子に大きく金魚の尾のような意匠が描かれた雑貨店の前に立ち、その金魚を狙っているかのように店の前をそぞろ歩く野良猫を退かせて店内に入った。

 豊かな黒髪をシニヨンに結った女が顔を上げた。

「さくらさん」と新九郎。

 紅緒、という名はもう名乗っていない。出産後、仕事をかつての揚羽に預けた彼女は本名の赤羽さくらに戻り、今ではすっかり雑貨店の女店主だ。だが、そうして暮らしていけるのも、かつての帝都の大物だったからこそ。この界隈で赤羽さくらという女の過去を詮索したり、噂したりすれば、どこからともなく現れる厳つい連中の脅しが待っている。そして彼女は、何食わぬ顔で、なんとなく訳ありの女として商店街に溶け込んでいる。

 その、赤羽さくらの、無遠慮で不機嫌を隠そうともしない目線が、新九郎の頭頂部から爪先までを往復した。

 いつもの立襟。いつもの着物。いつもの袴。いつものブーツ。腕時計だけは違う。

 何もおかしいことはない――首肯する新九郎に、冷ややかな言葉が浴びせられた。

「なんですか、その襤褸は」

「襤褸」

「ああ、やっぱり呼んでよかった。どうせそんなこったろうと思ったんですよ」さくらは立ち上がった。「奥へ。そんな格好で、あの子を迎えに行くつもりですか。みっともない」


 三年。帝都の中でも、八百八町と呼ばれる特別区は、その姿を大きく変えた。〈下天会〉事件で焼け野原になった街には今、奇妙なビル群が林立する。巨大な幹のような円柱型の建物と、そこから広がる枝葉のような空中回廊が街を繋いでいるのだ。燃えた市街の復興にあたり、政府と天樹の協議により打ち出された基本概念は、『代謝する都市』。即ち、モジュール化した柱とフロアを相似形に繋げたオフィスビルや、円い窓を持つ直方体の居住ブロックを積み上げることで海中に立ち上る泡か、伸び広がる珊瑚のように見える集合住宅により、街そのものが機能単位ごとに臨機応変に拡大縮小するのだ。まるで街が一個の大きな生物のようにになり、栄養素を取り入れ老廃物を浄化し、成長する。

 柱がひとつ立ち、四方八方にフロアを広げ、そしてそのフロアの末端で別の柱に繋がる。天面には浮遊車の走行路が作られ、いよいよ空を飛ぶ車の存在を前提とした都市が形作られていく。

 新九郎が見上げる先で、フロアが大きく回転し、柱から別の柱へと接続されている。地上の日照維持と、蒸奇消費のためである。この街を漂うDORとも呼ばれる余剰蒸奇の有毒性が明らかになり、これを浄化する機構が必要とされた。〈闢光〉に搭載されているものの応用である。もはや生活と切り離せなくなった蒸奇機関による健康被害・催奇形性は、公害と呼ばれた。

 再建された上野駅も、随分姿が変わった。だが、随分と意匠が省かれ角張って直線的になったものの、引いて見た時の佇まいはかつての駅舎によく似ている。文句を言う者も多かったが、新九郎は気に入っていた。

 再建されたアメヤ横町も、建物自体は小綺麗になった。だが、暮らす人々が綺麗なままでいることを許さない。看板。屋台。意味不明な装飾。一歩踏み込めば何を売っているのかわからない奇妙な店々が並ぶ。通りにはみ出るように置かれた席で大騒ぎする酔客たち。みるみるうちに往時の姿を取り戻す横町に、街は、すなわち人なのだ、と改めて思い知らされる。

 顔見知りを見つけ、新九郎は片手を上げた。〈BAR シルビヰ〉のマスターだった。彼の店は、街の再建に伴い地下から路面店へ大出世した。その代わりに道理のわからない一般の客も増えてしまい、最近は二階以上か地下の物件を探して移転しようか検討中なのだとか。

 そのマスターは、新九郎の出で立ちを見て言った。

「めかし込んで、Where to go?」

「どこというわけでも……」と新九郎は応じた。

 縞模様の袴に、ややくすんだ緑の着物。上から黒い外套を羽織ってはいるものの、裏地の模様がやけに派手で落ち着かない。色使いは地味なのに目立つ。これは完全に、吉原時代から変わらない、さくらの趣味だった。

 すると、マスターのぎょろりとした目が光る。

「I わかった。あの子。帰るtoday」

「いやいや、これは知人に押しつけられた服で……」と応じても信じる様子はない。とにかく楽しげな彼と強引に別れ、新九郎は裏路地へと向かう。

 アメヤ横町から通り数本隔てた街角。かつてと少し違う、だが変わらない建物がある。

 袖看板や装飾の類いは可能な限り焼け跡から掘り出して再利用した。建物自体は天樹の瞬時建築に差し替わったが、寸法はきっかり同じにさせた。一階の〈純喫茶・熊猫〉。そして二階の、逆さ三ツ鱗の窓。緑青細工の鬼灯が張りついた看板には、鬼灯探偵事務所、と書かれている。

 その喫茶店入口に、よく知った、宇宙軍の軍服姿の男がいた。

「……本当に帰ってきたのか、八雲」

「彼女の護衛だ。〈殲光〉の姿をこの街で見せるつもりはない」

 外壁に背を預けたまま、腕組みで応じる男――法月八雲。

 地球での〈下天会〉事件の終結と時を同じくして、凍結されていた〈殲光〉は、その乗り手に裁判の審理中だった八雲を選んだ。〈斬光〉の不在による戦力不足を補うため、〈殲光〉はその代わりを買って出たのだ。そして、〈奇跡の一族〉らにとって、死せる同族の意志は絶対である。即座に結審、無罪放免となった八雲は正式に特定侵略行為等監視取締官となり、今、光明星から地球へ里帰りした重要人物の護衛を務めている。

 八雲は鼻を鳴らすようにして言った。

「君にできて、私にできないことはない。これでまたひとつ証明された」

 新九郎は苦笑して応じる。「お前の対抗意識にはほとほと呆れるよ」

「天狗になっていられるのも今のうちだ、新九郎」

「失礼、積もる話もございましょうが」洋装の男が話に割り込んだ。「既に定刻を過ぎております。ご理解ください。何、わからない。ではお教えしましょう。……くるっぽー!」

 男は、頭が鳩時計だった。

 ばね仕掛けで飛び出した木彫りの鳩が、ぱたぱたと羽をばたつかせる。そして巣箱型の装飾の中に戻り、怪奇・鳩時計男が新九郎へ文字盤を向けた。

「お気に召しましたかな」

「あー、ピジョンマン。いつも言っているがね、君の前任はもう少しエレガントだったぞ」

「何、エレガント。では私も本気で行きましょう。……くるっぽー!」

 飛び出した鳩が金色になっている。おそらく純金の塊。異形頭人オブジェクターズたちは常軌を逸した科学技術を操るが、彼の場合は額から飛び出す鳩にその奇跡が宿っている。その気になれば鳩の形をした光線も放てるのだ。

 しかし普段は、ただのびっくり人間である。

「わかった。わかったから。八雲にも見せてやってくれ。こいつ結構そういうの好きなんだ」

「おい新九郎」八雲の額に青筋が浮かぶ。

 ピジョンマンの文字盤が高速回転し、八雲に詰め寄った。「八雲さん! ああ嬉しい。ここのスターダスターは中々このキュートさを理解しないのです。ではお見せしましょう……くるっぽー!」

 口笛を吹きつつ、新九郎は店内に入る。

 珈琲の香りが鼻腔を擽る。カウンターに立つ大熊武志がサイフォンを睨んでいる。〈下天会〉事件の際に店から慌てて持ち出した商売道具は、今も健在だった。

 その武志は、染髪をやめた。怪しげで頼りないロイド眼鏡は相変わらずだが、彼なりに心境の変化があったらしい。なんと、妻の雪枝は現在妊娠六ヶ月の身重である。

 人手が足りなくなった店は二体の小電装に手伝わせている。一体は変わらず呂場鳥守理久之進。そしてもう一体は、理久之進が遠隔操作している。本人曰くは分身の術。最近はからくり喫茶などという評判も高まっていた。

 その武志は、黙って二階へ繋がる階段を指す。

 新九郎は頷き、階段を上る。

 その途中、配管を叩いて言った。「フレイマー、いるかい?」

「はい、こちらに」鳩の形をした炎が音もなく飛び出した。

「少し下にいてくれ。誰か上がってきたらここで止めて」

「仕事! 喜んで勤めさせていただきます! いやしかし、あのお方は随分と別嬪さんになりまして、わたくしはもう炎もちょちょぎれる……」

 いいから、と話を打ち切り、二階へ出た。

 廊下を進む。鬼灯探偵事務所、と書かれた煤けた看板を一瞥して、事務所の扉を開ける。

 丸窓から日が差していた。応接椅子に、女が腰掛けていた。机の上では珈琲が湯気を立てていた。口をつけた様子はなかった。

 近づいても座ったまま。訝しみ回り込むと、その女は、うとうとと船を漕いでいた。

「……早坂くん?」と新九郎は言った。

 女――早坂あかりは跳ねるように立ち上がった。

 そして振り返り、目を瞬かせた。

「……先生?」

「早坂くん……だよな」新九郎は思わず腕組みになる。

 背が高いのだ。一七五糎はあろうか。小柄で、いつも簡着物か制服ばかり着ていた彼女と、今の彼女をすんなりと重ねることができず、新九郎は戸惑う。しかし、紛うことなく、早坂あかりだった。

 彼女が身に纏う紅色三角模様の着物は、かつて依子が着ていたもの。事務所の焼け跡の箪笥から掘り出したものを、彼女に譲り渡した。そして、後ろでひとつに纏めた髪を留める飾りは、形状記憶がすっかり花開いていた。

 その飾りは過ぎた年月を映す。帝都では三年が経った。この飾りが開くには一〇年以上を要する。

 しかし、その他の帯や小物には覚えがない。洋風の靴も、レース模様のようなものが入った帯も、ステンドグラスのような幾何学的な模様の羽織も知らない。既視感はあるのだ。だが、少なくとも、買って渡した覚えはない。

 見惚れてしまった。

 階下の騒がしい声が聞こえた。妙な沈黙が流れて、あかりは両袖を広げて言った。

「あ……これ、実は紅緒さん、さくらさんに用意してもらったんです。着物に合うように見繕っていただいて、天樹の経路で、超光速で、先生にはバレないように」

 なるほど、と応じて新九郎は自分の服装を顧みる。

 赤色と白基調のあかりに対して緑と黒。つまり、彼女の服が引き立つような色使いなのだ。

 とはいえ、そんな服の感想を話すのは、今すべきことではなかった。だが、用意したはずの言葉は出てこない。結局つまらない言葉が口をついた。

「……背、伸びたね」

「そうなんですよ。あの頃はまだ成長期でしたし、低重力に身を置いたせいでしょうね」

「君は今、何歳になった?」

「二六になりました。わたしの時間では、一一年ほど経っています」あかりは柔らかく微笑む。かつての彼女には作れないその表情が、時の流れを物語る。「星霊憑依交信実験の後、チレイン星系との和平交渉と条約締結交渉に同行しました。本能が他の知的生命体への精神憑依を目指す生き物です。相互不可侵が精一杯で、交流を作ることはできませんでした」

「そうか」

「それから、汎銀河調停機構への未加入星系を巡りました。〈奇跡の一族〉と、幾多の星々から集められた異星言語翻訳師の力でも、完全な相互理解へは至れないことが大半でした」

「そうか」新九郎は深呼吸を挟んで言った。「綺麗になったね」

「そ……そんなことないですよ。ほら、放射線遮蔽されてて、逆にあんまり陽の光を浴びることがなくて、もう生っ白いままで、だからですよ」

「なら言葉を換える。立派になった」

「立派なんかじゃないですよ。わたし自身は。たまたまわたしの身に、珍しい能力が備わっていただけで……」

「なら、素敵になった」

「そんなこと……」

「いつまで続ける? 君が否定しなくなるまで僕は続けるぞ。言っておくが、銀河標準語でなければ僕の語彙は豊富だ。この口先が商売道具なんでね」

「それは違いますよ」あかりが手を伸ばし、新九郎の胸に触れた。「先生の一番の商売道具は、いつも正しさを求める心です。この三年のご活躍も聞いてます。宇宙の涯てまで、先生のお名前は轟いてるんですよ。一触即発、辺境の火薬庫である帝都東京の均衡を守る快傑って」

「それは僕の仕事を絶やさない天樹が……」

 あかりが進み出る。掌が、手首が、袖が、そして頬が、新九郎の胸に触れる。「わたしがどれだけ、またお目にかかれる時を待ち侘びたか。一〇年ですよ、一〇年」

「……辛かったろう。自分で決めたことだから。誰のせいにもできないから」

 あかりの手が新九郎の着物の襟を掴んだ。「そうですよ。先生はたった三年だから、そんなに余裕綽々で。ちょっと癇に障りますよ」

 お疲れ様、と言って、彼女の肩を抱こうと手を浮かせた。すると、それを察したかのように、あかりは身体を離した。

 拍子抜けする新九郎の前で、あかりは応接椅子に置いていた鞄から何かを取り出す。

「そうですそうです、お渡ししなきゃいけないものが」

「……それは?」

「クアンタ・クローク技術の応用品です。ご覧頂いた方が早いですよ」

 頭のないボルトに真鍮色のナットをいくつも噛ませたような、掌大の何かの装置だった。ナット部分のうち中央三個には何かの画面とスイッチが仕込まれていて、指先で押すたび表面に表示される模様のようなものが変わる。何かのパズルのようにも見えた。

 地球では見たこともないその装置は次元曲拐クアンタ・クランクというもので、あかりは単にクランクと呼んでいた。光明星とその周辺では最近一般に用いられるようになった、グモ星人の発明品なのだとか。

「えっと……何番だっけ……これかな」

 番号を合わせて、あかりはクランク頭の部分を押し込む。すると、破裂音とともに、キツネとウサギを掛け合わせたような、金色の体毛を持つ生物が現れた。

「これは……?」

「あっ、違う違う。これわたしのペットです。仕事で行った先で懐かれちゃって。弱いながらも精神感応能力があるんですよ」

「逃げる逃げる」

 素早く走り回り、そのキツネウサギは応接机の中に飛び込む。しかしあかりがクランクの尻部分を押し込むと、再び破裂音がして、キツネウサギは跡形もなく消えた。

「この中に入ってるんですよ。超電装みたいな大きいのを転送するだけじゃ不便じゃないですか。場所も用意しなきゃいけないし。だから、物質を小さくしちゃうんです。でも小さくしちゃう方の技術の出所である種族は、もう星ごと滅んでしまったそうで……」

「その種族、知ってる気がするな。多分その辺でバーとかやってるよ」

「あ、気づきました? そうじゃないかとわたしも思ってたんです。黙ってますけど」あかりはまた別の番号に合わせる。「これだったかな……」

 また破裂音。現れたのは黒々とした金属の塊で、落下して床に落ち、そして貫通する。

「戻せー!」

「わー!」あかりがクランクを押し込むと、その金属はまた破裂音と共に消える。「あの、これはですね……」

「翠玉宇宙超鋼だろ。色から察するに、〈闢光〉の……」

「そうですそうです。あの左腕のやつの試作品で、要らないそうなので貰ったんですよ。せっかくなので」息を整え、あかりはまた番号を合わせる。「今度こそ……」

「それ、三桁ということは一〇〇〇通りあるの?」

「一六進数なので四〇九六ですね。グモ星人の母語の数字です」あかりがクランクを押し込むと、今度は百科事典か何かのような古びた書物が現れる。あかりは目の色を変え、即座に戻した。「これはまずい」

「今のは?」

「読むと死ぬ呪いの本です」

「なんでそんなものを」

「ほとんどエルスワールド暗号化攻撃なんですよ。これを読むと、存在が別世界に吹き飛ばされるんです。読み解こうと思ったんですけど、飛ばされそうになったので、それから封印してます」

「次は何が出るんだ……」

「今度こそ……」あかりは番号を合わせてクランクを押し込む。

 すると、握り拳大の、何かの種子のようなものが出現し、穴が塞がったばかりの床に落ちた。

「これは……?」

「あ、これ、ご覧に入れたかったんです。例のナッソーの近縁種なんですよ」

「何やら動いてるが」

「窒素の多い大気中だと二〇秒ほどで一気に根を張って成長します」

「戻せ戻せ!」

 また破裂音。根を張られかけた床の表面が崩れ、ややあってから元通りになる。

 それを固唾を呑んで見守り、直って安堵する新九郎をよそに、あかりは難しい顔でクランクを睨んでいる。

「あっ、そうだ。最初に入れたやつだから、確か一〇進数のつもりで……」

 押し込む。破裂音が鳴る。

 あかりは現れたものを右手に息をつき、そして左手で袖を抑えて背伸びをして、新九郎の頭にひょいと乗せた。

 帽子だった。

「ちゃんと返しに来ましたよ、先生」あかりの目線が新九郎と重なった。見上げているが、かつてよりもその角度は緩やかになっていた。「独身で決まった相手もいないと伺っています。さくらさんから」

「それはそうだが……女ってのはなんでこう裏で結託するんだ」

「話を逸らさないでください」

 あかりの目線は微動だにしなかった。

 三年。早坂あかりと出会うまでの三年間は地獄だった。別れてからの三年は、地獄ではなかった。きっと彼女は帰ってきてくれると、新九郎は確信していた。

 〈下天会〉との戦いの最中で垣間見た夢の中で、依子は言っていた。あなたの幸せは未来にもある、と。

「異星言語翻訳師を募集しているんだ。表には出していないけど……いや違う。そうじゃない。駄目だな。やっぱり僕は、君と一緒の人生がいい」新九郎は歩み寄る。「この三年、ずっと考えていた。あの時君を行かせたことを後悔はしていないけれど……いや、僕は最高に運がいいんだ。大人になって帰ってきてくれたんだから! こんな願ってもないことがあるか!」

「わたしもです。すべては、あなたと結ばれるためだったのかも」

 身体が触れる。彼女の体重と体温を感じる。もうどこにも行かせない。新九郎はあかりの身体を強く抱き締めた。

 だが、新九郎の腕は空振りし、あかりは新九郎の胸元をするりと抜け出していた。

「……早坂くん?」

「あの、ちょっと待ってください。わたし、気づいてしまったんです」あかりは眉間に指を触れる。「先生、今三三歳ですよね」

「悪かったな。立派なおっさんだ」

「三年。その間にわたしは一四から二六に。誕生日が近かったので、大体その間一一年です」

「……そうか。やっぱり駄目か。そうだよな、君みたいな女性なら世の男が放っておかないし、なんなら人類以外も放っておかないよな。僕なんかは……」

「いやいやそうじゃなくて」

「じゃあなんだと言うんだ」

 煙草を咥える新九郎。あかりは神妙な顔で指折りつつ言った。

「もう三年経ったらどうなります?」

「僕は三六だな」

「わたしがもう一回似たような任務をこなせば、一一年くらい経って……」あかりは小首を傾げて口の端で笑った。「ほら。今じゃもったいないかもしれませんよ?」

「一一年経てば君も三七。立派な……」新九郎ははたと言葉を切った。

 あかりは得意気な上目遣いで言った。

「わたし、になるんですけど……いかがですか?」

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蒸奇探偵・闢光 下村智恵理 @hisago_a

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