少しだけ警告しておく。
実際に男子校に通っていた人は、この青春のまぶしさに目がくらんで体調を崩すかもしれない。また、恋愛の機微に通じていない人も、自分がほんとうに鈍感なんだと思い知らされるだろう。
実際問題、モテるけど性格に難があるやつとか、モテないやつの身勝手ぶりにリアリティがありすぎて、キャラクター小説にはない嫌な感じが少しだけ、スパイス程度にある。でも、遠くから見る青春はきれいでも、近づけばこんなもんなのだ。
だが、そこも含めて、稀代の理系青春小説だ。
化学が人を幸せにすると信じているという意味でも、そう言える。深刻な問題を扱っているにもかかわらず、下村智恵理の書いた小説の中で一番読後感が良い。それは、主人公たる子どもたちの周りの大人たちが、保護者として極めてまっとうに機能しているからだ。困っている時には手を差し伸べ、難しい課題にはヒントを出し、行き過ぎた言葉でぶつかり合ったときには関係を修復できるような適切なアドバイスをする。そして何よりも、危険なことをしたらきちんと叱り、身の危険が迫ったときには身体を張る。
先ほど深刻な問題と言った。それは、主人公チャールズの両親の離婚だけではない。地方と都市の経済・教育の格差・差異もそうだし、思春期の対人トラブル、それから十代の犯罪もそうだ。
作中ではそうした社会の影と真っ直ぐ向き合っており、チャールズも自分の考えが偏っていると否が応でも悟らされる。読者もまた、当たり前だと思っていた価値観が相対化されていく。教育を受けたほうが幸せだとか、都心部のほうが幸福に暮らせるとか、本当だろうか?
ただ、蒙を開かれるだけではない。確かに、作者の広範な知識に、この作品は支えられている。先ほど述べた子どもたちの周りの社会だけではなく、恋愛の繊細な押し引き、高校から大学院レベルの化学、自動車やバイク。これら1つだけのジャンルで突出する作者はいるが、複数の専門性を備えた作家ってのはめったにいない。でも、その知識以上に読者の心をとらえて離さないのは、十代の鮮烈な感受性とやりとりに潜む、この時期にしかない輝きだ。
必読である。
理系とミステリの相性は良い。
その専門性は勿論のこと。
やはり知識によるキャラクターの格差は、事象における認識のズレを産み出し、文章で伝わる読者に対して、トリックや伏線の重要な部分を担うことが出来る。
理系最強か! などとやっかみ、「あぁ、すうがk・・・・・・算数や理科のどこまで遡れば、理系としてやり直せただろうか」とお嘆きのアナタ。
分かる分かりますよ完全に文系に属する私のような方々は、理系に憧れにも似たコンプレックスを抱えること幾星霜。
ただ、こちらの作品。
理系と文系のバディものとして、非常に優れたバランスを保っておいでだ。
また、一話ごとの文字数と展開の区切りも良いおかげか、ストーリーのテンポも良い。知識の専門性を保ちつつも、文系が安心して読めるミステリというのは、とても有り難い。オススメしやすい。
キャラクターに対しても言及しておこう。
金髪ギャルの白衣モノ、と。新たな性癖をくすぐられた諸兄は今すぐ処刑といきたいところだが、まず真っ先にレビューの書き手たる私が処刑なので寛大な処置を願いたい。
ぎゃ・・・・・・失礼、ギャルについて語りそうになってしまったので割愛するが。
ギャルという属性が持つ本来のファッショナブルな最先端な流行の軽薄さと、物語の根底にある田舎という地域性が持つ社会の停滞感が、秀逸だ。
新聞記者の父を持つチャールズの社会派、なんて表現もそのひとつ。
或いは、引っ越し先の、買い物のシーンに訪れる大型ショッピングモールや、燃費や排気量を気にしない車を用いたガジェットもそのひとつ。
キャラクターが持つギャップ、というのは、当たり前のようで。現実的にも誰もが型に嵌まる人物像ではないように。だからこそ、それぞれが魅力に富むわけだが。
設定を盛ってばかりのキャラクター小説とは違って、リアルな形で、マイルドに舞台に溶け込む、そんなリアルさをストーリーに表現できている。
例えば、理系と文系もそうだし、都会や田舎、ギャルとチャールズを取り巻く環境を含め、青春のエッセンスを散りばめたバディ・コンプレックス。きちんと価値観の天秤に触れていることも好感が持てる。
タイトルにも触れておこう。
天網恢々疎にして漏らさず、老子曰く、となるか。行われた悪事に対して、きちんと天罰が与えられる。
勧善懲悪というと、スケール的に言い過ぎな気もするが。そこは、いい塩梅で不正や悪意や犯罪に対して、きちんとしたアプローチによる、正義が行われていることで、カタルシスを得ることが出来る。
アルケミー、錬金術には、やはり虚実が付きまとう。
そもそも、金をも及ばず、不完全から完全を産み出すことは出来ないのだ。
事件、犯人側はもちろん、この構図の落とし穴にハマるわけだが。
だが、幼きメインキャラクターたちには、夢を旅する少年、少女であって欲しいと願わずにはいられない。
恢々には、大きく包み込むという意味があるそうだ。
物語全体がそうであり、少年少女たちを取り巻く大人達もまたそうである。
最後に、この作品に、このタイトルを、そう名付けた作者に。
敬意を捧げたい。
この小説の魅力は、主人公チャールズこと安井良くんの個性に大いに牽引されています。それを追っていくだけでもとっても楽しいです。お勧めです。
東京の中高一貫男子校に四年間通っていたチャールズは両親の離婚に伴い、地方都市、前崎市の前崎中央高等学校に転入します。そこで、信じられないような運命的な出会いをした金髪理系ギャルの木暮珠理さんに、とことん怯えるチャールズ。何といっても男子校出身、女の子には免疫がないのです。お父さんから前崎には東京の百倍のギャルとヤンキーがいるぞと脅されていたこともありました。
チャールズがどれだけ怯えていたかというと、珠理さんに遭遇するたびに「ひっ……」と引きつった声を漏らすほどです。ちなみに、3-15話まで何回「ひっ……」となったか数えてみたら、なんと15回(「ひぃぃ……」も含む)。痛ましさに顔がにやけてきます。ご愁傷さまです。
チャールズの名言は「ひっ……」だけではありません。女の子皆無の鈍色の世界からやってきた彼は、女の子に話しかけられると、たどたどしい言葉遣いになります。支倉佳織さんに文芸部に誘われ、「感動……」「はい。どうも。見学、是非……」。また、回りくどくてスケールの大きい社会派なことばかり言う新聞記者の父に色濃く影響を受けたセリフも見ものです:「理系の選民思想、排外主義、民主主義の敵……」「訴訟だけは許して……」。無言で肩をぽんぽんと叩いてあげたくなります。
チャールズの縁遠かった青春への夢想はこんなセリフにも表れます:「面と向かってでは伝えられない気持ちとか、密かに秘めた恋心を手紙に書くとか、そういうのが青春とか、恋ってものなんだよ、きっと……」「ところで、告るって日本語って素晴らしくない?」。こういう男子が身近にいたら、いじりがいがありそうです。
もちろん、タイトルからもお分かりのように、この小説のメインテーマは、身近に起きた不思議な事件を科学(というか化学)で調査・研究し、解き明かすことです。そのためには、ちょっとマニアックな原理や分析装置が遠慮なく登場して、私としてはうほうほっと嬉しい限りです。化学分野の小ネタと小説って相性が悪くないと思うので、こういった小説がもっと増えてほしいものです。
チャールズが妹、多紀乃への手紙に書いた言葉に、ほろりとさせられます。
「僕には、動物園暮らしで染みついた、もう取り返しのつかない部分がたくさんあります。ですが目に見える景色は、金色に輝いて見えます」
……妹にこのセリフを言っちゃうところがもう彼らしさ全開ですが。