逃亡

 布越しに伝わる心地よい体温と冷たい風が頬を撫でた。

誰かに背負われるのはいつ振りだっただろう。闇の中で思ったのは、暖かな父の背中だった。微睡まどろみながら、よく物語を聞いたものだ。


 双子の太陽神ホルシードの話に、鉄女神マルドゥーク魔王ワーリスの戦争。はるかな昔、暴君にあらがった勇士達や、神とあがめられた司祭の話。


 物語を最初から最後まで眠らずに聞けたのは指で数えるくらいしかなかった。

どれも夢中になって耳をかたむけているうちに父の背中で眠ってしまったから。微睡みの中の、あのなんともいえない心地よさを感じながら、みじろぎをする。

父のような、太陽に晒された砂の匂いとは違う。乾いた血と汗が混じった、見知らない誰かの匂いがした。


「もう少しお休みになられていても宜しかったのですが」


 その声の主は、


「―――な」


 んでお前がここに居ると声を上げかけたルシュディアークに、男は気付かれると低くささやいた。


「大声を出さないでください」


 男が険しい目つきで周りを見渡した。黒々とした巨大な壁が二人の両隣に延々と続いている。時折、点々とした鉱石光サナの青白い光が目に入った。男は通路に誰もいないのを確認すると、安堵の息を吐いてから再び歩きだした。


(一体どうなっている?)


 腹も、頭も痛かったけれど、それ以上に理解し難い状況が更に頭を混乱させた。考えれば考えるほど、妙なことだらけで。


(俺はターリクに殺されたのではなかったか。いや、実は俺は死んでいて、処刑人そっくりのこの男は冥府めいふの使者なのではないだろうか。にしては生温い風の感触も、口内の残った甘ったるいあの毒の味も腹の痛みも生々しすぎる。やはり現実か。だとしたら、何故。罪人を生かす道理など無いはず……)


 訊ねるような気配を感じたのか、男はささやくような声で話し始めた。


「事情が変わったのです」


「誰だ、俺を生かすように命じたのは」


「イダーフ様でございます」


「兄上が?」


「はい。殿下をアル・リド王国へお連れしろとのご命令をたまわっております」


 隣国の、それも大国の名を聞いて、ルシュディアークは瞠目どうもくした。


「……兄上は何を考えている?」


 アル・リド王国といえば、この国の東に存在する国だ。

アル・カマル皇国の南、カムールの砂漠を超えた先にある国で、南方大陸の半分を治めるほどの大国でもある。しかし、その国はアル・カマル皇国の西に存在するもう一つの大国、エル・ヴィエーラ聖王国と政治的な緊張状態にあった。


「アル・リド国王ガリエヌスを尋ね、我が国への庇護ひごを求めよとのご命令にございます」


 庇護ひごの意味、それはつまり。


「戦争がしたいのか、あの馬鹿は!」


「お静かにお願いいたします」


「これが騒がずにいられるか。我が国は、アル・リド王国とエル・ヴィエーラ聖王国に挟まれた国だぞ。その事を、お前も知らない筈がない」


「仰せの通りでございます。互いに緊張状態にある二大国に、我が国はどちらの大国にもおもねることなく今まで中立を決め込んでおりました。その我が国が、片一方の大国、アル・リド王国に庇護を求めるという事は、アル・リド王国とエル・ヴィエーラ聖王国の緊張状態が解かれ、一気に戦争となる可能性が高まってしまう行為。此度のイダーフ様のご命令は、我が国にとっても、アル・リド王国とエル・ヴィエーラ聖王国にとっても、大きな波乱となりましょう」


「であるならば、どうしてイダーフの配下は危険行為を止めろと進言しなかったんだ。我が国が大国間の戦争に巻き込まれてしまうのは、お前達でも分かるだろう。ああ、そればかりじゃないぞ。もっと大事なことをお前も兄上も忘れている。俺が魔族で、ついさっき廃嫡はいちゃくされただってことだ」


「存じております」


 ならば何故だと眉をひそめたルシュディアークに、男は声を潜めて言った。


「殿下が廃嫡はいちゃくされたのはつい先ほどのこと。お命じになられた皇主カリフ様と、殿下の兄君イダーフ様、そしてあの場に居合わせたターリク様と、私しか知る者はおりません。突き詰めて言えば、我らが黙っていれば誰も殿下が殿下ではなくなったことなど、誰も知りはしないのです」


 そしてと、男は更に小さな声でささやいた。


「我が国は、アル・リド王国とエル・ヴィエーラ聖王国に目をつけられております。殿下にもお心当たりがあるでしょう」


 ルシュディアークは神妙な表情でうめいた。

 そう、のだった。

 太古の昔から実しやかに囁かれるその忌々しき名を、ルシュディアークはため息と共に囁いた。


鉄女神マルドゥークか……」


 男は静かにうなずいた。

 鉄女神マルドゥークとは、はるかな昔、アル・カマル皇国の前身である王国が創り出した超技術の結晶の名だった。

神殿に保管されている伝承曰く、鉄女神マルドゥークは大いなる神の力を秘めたものであるという。その力は、一昼夜にして国を滅ぼし、緑あふれる大地を死の砂漠に変えたほどだという。

決して、人が扱ってよい力ではない。人が再び手にすることなく、永久に封印せねばならない。

が、この国には眠っている。


「確かに鉄女神マルドゥークに伝承通りの力があれば、隣国どころか世界を手中におさめる事が出来る。欲しいだろうな、我が国の国土が。我が国に眠る鉄女神マルドゥークが」


 だからこそ、それはいけないと、ルシュディアークは首を横に振る。


「我が国は鉄女神マルドゥークがあるからこそ、戦争に参加せず、どのような国とも中立の関係性を維持しなくてはならない。封じられている鉄女神マルドゥークを使うような事態になれば、戦争どころか古代の文明を滅ぼした伝承が再現されてしまう」


「それは、イダーフ様も分かっておられると思われます。現状、アル・リド王国とエル・ヴィエーラ聖王国は、周辺諸国との貿易を盛んに行っております。それも、例年にないほどの食料や生活用品、そして、武器や船舶を大量に仕入れている向きがある。殿下が危惧しておられる戦火が、いつ起こってもおかしくない状況にあるのです。そうであれば、有事に備えて殿下をどちらかの大国へ預けることで、我が国は戦火を避けることが出来るのではないかとお考えのようでした」


「つまり、アル・リド王国とエル・ヴィエーラ聖王国のどちらも鉄女神マルドゥークを狙っているはず。であるのなら、その所有者である皇族の一人、すなわち俺の身柄をどちらかに預ければ、万が一戦争が引き起こされた場合、大国は留飲を下げ、良いようにはからってくれるだろうと……同盟の為の人質というわけか」


 男は、言いづらそうに黙り込んだ。


「しかし、何故アル・リド王国を選んだ。エル・ヴィエーラ聖王国も我が国の鉄女神マルドゥークを狙っているぞ。さらに言えば古代の文明と、その高度な遺失技術の結晶である”神の遺産”に関してはエル・ヴィエーラ聖王国が詳しく、その幾つかは王立の施設に保管してあると聞く。使用できるかどうかは別として、助力を乞うならばエル・ヴィエーラ聖王国であったほうが良いように思うが」


「我が国とエル・ヴィエーラ聖王国の間には、小さいとはいえ海がございます」


「距離、か」


 男は、頷いた。

 エル・ヴィエーラ聖王国はアル・カマル皇国の西にある大国だ。

マンスールという小さな海を挟んで隣の大陸にあるこの国は、と呼ばれる神の遺産と呼ばれる旧時代の遺物に詳しい組織を抱えている。彼らは失われゆく過去の文明と、その文明が生み出した高度な技術を保有、保管、研究し、後世へ残そうと各国へ働きかけている。先史の文明に詳しく、理解があるとすれば、これほど頼りになる国は無い。


「それだけではございません。エル・ヴィエーラ聖王国は、からこそ駄目なのです。仰られる通り、聖王国は神の遺産に詳しく、現代でも扱える旧時代の遺物をいくつか所有しております。しかし、神の遺産について詳しいがゆえに我が国の方が利用されてしまう可能性が高い。対して、アル・リド王国にはそのような組織が無い」


 組織がない事は即ち、あるべきはずの知識の集積物も無い。

こちら側で事も出来る。その事に気が付いたルシュディアークは、なるほどとつぶやいた。


「アル・リド王国のほうが、聖王国よりもと判断したか」


「恐らく」


「だが、俺は廃嫡はいちゃくされた皇子で魔族でイブティサームを殺した犯罪者であることに変わりがない。こんなこと、アル・リド国王ガリエヌスの耳にでも入ってみろ。同盟を結ぶどころか我が国を攻める口実を与えてしまいかねない。なら、同盟の進言も人質も俺ではない方が良いと思うが」


 カダーシュでも良いように思うという言葉を、男は否定した。


「カダーシュ様ではなく、ルシュディアーク様でなければならないのです。どちらにせよ、いま全てを説明する時間がありません。現地まではイスマイーラという兵士が同行いたしますので、どうか」


 ルシュディアークは、諦めるような溜息を吐いた。仰いだ天井は暗い。

 まるで先行きを暗示するような闇が広がっていた。



 暗い通路を抜けると広場に出た。広場の中心に、円状に建てられた柱があり、ちょっとした祭壇のようになっている。その中心に一人の男と、二頭の翼の無い竜のような風体をした四足よつあしの動物がたたずんでいた。


「待たせたな、イスマイーラ」


「何処で道草を食っていたのです」


 随分ずいぶんとここで二人を待っていたらしく、イスマイーラは待ちくたびれたように首を鳴らした。


「すまない、ターリクの目を誤魔化すのに手間取って―――って、そんな怖い顔をするな、大丈夫だから。見つからないように隠し通路を通って来たし、追手も今のところ、無い」


 胡乱気うろんげな眼差しを受け、ダルウィーシュが渇いた笑いを浮かべる。そう簡単に信じられるかというイスマイーラの表情に、ルシュディアークは内心で同意を示した。ターリクが一筋縄ではいかない男であるのをこの場にいる誰よりも知っていたからだ。


「で、こちらは、その?」


 イスマイーラは、無遠慮にルシュディアークを見下ろすと、軽く会釈をした。歳は三十そこそこだろうか。世の享楽に飽いたような眠たげな眼をしている。彼は厚手の帽子グトラをかぶり、皇都でよく見かける裾の長い長衣カンドーラを重ねてまとっていた。そのせいで幾分か太っているように見える。けれど、七分丈の袖からのぞく腕は筋肉質で、無数の戦いのあとが見えた。ふと、イスマイーラと目が合った。


「アル・カマル皇国第二皇子、ルシュディアークだ」


 イスマイーラが何かの間違いじゃないのかと言いたげに肩を竦める。ダルウィーシュがまなじりをつり上げた。


ひかえろ、イスマイーラ」


「皇子らしからぬ格好かっこうだからな、無理もない」


 兵士として相応しいりのイスマイーラとは違い、ルシュディアークは身づくろいなど一切していない。猫毛と言われる黒髪はぼさぼさで肩まで伸びきっているし、母ゆずりの顔には無精髭ぶしょうひげが生えている。物乞ものごい小僧と呼ばれた方がしっくりするんじゃないかと思いながら、ルシュディアークは苦笑した。


「名も召し上げられてしまったから、俺のことは殿下とも、皇子とも呼ばなくて良いぞ」


「では、今後はどのようにお呼びすれば?」


「ルークと」


渾名あだなですか」


「堂々と名乗れない、かといって新しい名前を今考えろと言われても思いつかない。なら渾名あだなを使うしかないだろう?」


「長い名前よりは、余程覚えやすく呼びやすいかと存じます」


 一人ダルウィーシュが渋面じゅうめんをつくる。大いに不満があるらしいが声に出さないのを見てとるに、あえて口出しをしてまで止めるつもりは無いようだった。


「日もいよいよ顔を出し始めます。急ぎましょう」


 ダルウィーシュが、さっと周囲を見回し、声を潜めるように言った。


「道中お気をつけて。我々の組織にしもりは一枚岩ではございません。同胞が殿下の御命おいのちを狙うこともありましょうが、その際は」


「分かっている。お前の仲間が手向かってくるなら、俺は迷わず斬り捨てる」


 ほんの一瞬、ダルウィーシュが複雑な表情を浮かべたのを、ルークは見逃さなかった。


「……すまない」


 ばつが悪そうにダルウィーシュから顔を背け、寄って来た竜のような生き物の首を撫でた。ざらざらとして、ほんのり暖かい。馬よりも乗り心地が悪そうだと思いながら、ルークは表情を引き締めた。


「殿下、どうかご無事で」


「お前も身辺に気をつけろ。誰が何処でお前の寝首をくやも分からんのだから」


 そういって、ルークは竜のような生き物の背にまたがった。

 広場から見える天を仰いだ。目覚めたばかりの頃よりも星々の瞬きも、月の光も弱々しい。もうすぐ朝がやって来る。その前に、二人は城から逃げ出さねばならなかった。




当サイトに掲載されている写真、イラスト、文章の著作権は早瀬史啓に帰属します。無断での複製・製造・使用を全面的に禁止します。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る