逃亡者達
布越しに伝わる心地よい体温と冷たい風がルシュディアークの頬を撫でた。誰かに背負われるのはいつ振りだっただろう。闇の中で思ったのは、暖かな父の背中だった。その背中で
双子の
物語を最初から最後まで眠らずに聞けたのは指で数えるくらいしかなかった。どれも夢中になって耳を
「もう少しお休みになられていても宜しかったのですが」
その声の主は、ターリクと一緒にいた男だった。
「―――な」
んでお前がここに居ると声を上げかけたルシュディアークに、男は気付かれると低く
「大声を出さないでください」
男が険しい目つきで周りを見渡した。黒々とした巨大な壁が二人の両隣に延々と続いている。時折、点々とした
(一体どうなっている?)
腹も、頭も痛かったけれど、それ以上に理解し難い状況が更に頭を混乱させた。考えれば考えるほど、妙なことだらけで。
(俺はターリクに殺されたのではなかったか。いや、実は俺は死んでいて、処刑人そっくりのこの男は
訊ねるような気配を感じたのか、男は
「事情が変わったのです」
「誰だ、俺を生かすように命じたのは」
「イダーフ様でございます」
「兄上が?」
「殿下をアル・リド王国へお連れしろとのご命令を
隣国の、それも大国の名を聞いて、ルシュディアークは
「俺に刑を科しておいて、今度はアル・リド王国に向かえなど……兄上は何を考えている」
アル・リド王国といえば、この国の東に存在する国だ。アル・カマル皇国の南、カムールの砂漠を超えた先にある国で、南方大陸の半分を治めるほどの大国でもある。しかし、その国はアル・カマル皇国の西に存在するもう一つの大国、エル・ヴィエーラ聖王国と政治的な緊張状態にあった。
「兄上は、なんと言っていた?」
「アル・リド国王ガリエヌスを尋ね、我が国への
庇護の意味、それはつまり。
「戦争がしたいのか、あの馬鹿は!」
「お静かにお願いいたします」
長いため息が出た。
外交的にも政治的にも緊張状態を続けている二大国は、真ん中で中立を決め込んでいるアル・カマル皇国を盾にしながらお互い
「どうしてイダーフの配下は進言しなかったんだ。イダーフの命令が危ないことくらいお前達でも分かるだろう。ああ、そればかりじゃないぞ。もっと大事なことをお前も兄上も忘れている。俺が魔族で、ついさっき
「存じております」
ならば何故だと眉をひそめたルシュディアークに、男は声を潜めて言った。
「殿下が廃嫡されたのはつい先ほどのこと。お命じになられた
そしてと、男は更に小さな声で
「我が国は、アル・リド王国とエル・ヴィエーラ聖王国に目をつけられております。殿下にもお心当たりがあるでしょう」
ルシュディアークは神妙な表情で
「我が国に眠る
男は静かに
「確かに
だが、ならぬのだとルシュディアークは溜息をついた。
「我が国は
遥か古の時代、
「二大国が
「なるほど、俺は同盟のための人質というわけだな?」
男は、言いづらそうに黙り込んだ。
「しかし、何故アル・リド王国を選んだ。エル・ヴィエーラ聖王国も我が国の
エル・ヴィエーラ聖王国はアル・カマル皇国の西にある大国だ。内海を挟んで隣にあるこの大国は、協会と呼ばれる先史の文明に詳しい組織を抱えている。彼らは失われゆく過去の文明と、その文明が生み出した高度な技術を保有、保管、研究し、後世へ残そうと各国へ働きかけている。先史の文明に詳しく、理解があるとすれば、これほど頼りになる国は無い。しかし、男は首を振った。
「詳しいからこそ駄目なのです。仰られる通り、聖王国は先史の遺物に詳しく、現代でも扱える太古の兵器をいくつか所有しております。しかし、詳しいがゆえに我が国の方が利用されてしまう可能性が高い。対して、アル・リド王国にはそのような組織がない」
組織がない事は即ち、あるべきはずの知識の集積物が無い。無いとくれば、こちら側でいろいろと手心を加える事も出来る。その事に気が付いたルシュディアークは、なるほどと
「アル・リド王国のほうが、聖王国よりもましと判断したか」
「恐らく」
「だが、俺は
カダーシュでも良いように思うという言葉を、男は否定した。
「カダーシュ様ではなく、ルシュディアーク様でなければならないのです。どちらにせよ、いま全てを説明する時間がありません。現地まではイスマイーラという兵士が同行いたしますので、どうか」
ルシュディアークは、諦めるような溜息を吐いた。仰いだ天井は暗い。まるで先行きを暗示するような闇が広がっていた。
暗い通路を抜けると広場に出た。広場の中心に、円状に建てられた柱があり、ちょっとした祭壇のようになっている。その中心に一人の男と、二頭の翼の無い竜のような風体をした
「待たせたな、イスマイーラ」
「何処で道草を食っていたのです」
「すまない、ターリクの目を誤魔化すのに手間取って―――って、そんな怖い顔をするな、大丈夫だから。見つからないように隠し通路を通って来たし、追手も今のところ、無い」
「で、こちらは、その?」
イスマイーラは、無遠慮にルシュディアークを見下ろすと、軽く会釈をした。歳は三十そこそこだろうか。世の享楽に飽いたような眠たげな眼をしている。彼は厚手の
「アル・カマル皇国第二皇子、ルシュディアークだ」
イスマイーラが何かの間違いじゃないのかと言いたげに肩を竦める。ダルウィーシュが
「
「皇子らしからぬ
兵士として相応しい
「名も召し上げられてしまったから、俺のことは殿下とも、皇子とも呼ばなくて良いぞ」
「では、今後はどのようにお呼びすれば?」
「ルークと」
「
「堂々と名乗れない、かといって新しい名前を今考えろと言われても思いつかない。なら
「長い名前よりは、余程覚えやすく呼びやすいかと存じます」
一人ダルウィーシュが
「日もいよいよ顔を出し始めます。急ぎましょう」
ダルウィーシュが、さっと周囲を見回し、声を潜めるように言った。
「道中お気をつけて。我々の
「分かっている。お前の仲間が手向かってくるなら、俺は迷わず斬り捨てる」
ほんの一瞬、ダルウィーシュが複雑な表情を浮かべたのを、ルークは見逃さなかった。
「……すまない」
ばつが悪そうにダルウィーシュから顔を背け、寄って来た竜のような生き物の首を撫でた。ざらざらとして、ほんのり暖かい。馬よりも乗り心地が悪そうだと思いながら、ルークは表情を引き締めた。
「殿下、どうかご無事で」
「お前も身辺に気をつけろ。誰が何処でお前の寝首を
そういって、ルークは竜のような生き物の背にまたがった。
広場から見える天を仰いだ。目覚めたばかりの頃よりも星々の瞬きも、月の光も弱々しい。もうすぐ朝がやって来る。その前に、二人は城から逃げ出さねばならなかった。
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