結縄と隼
その日の夕刻。アルルを連れ帰った三人は、イスマイーラに叱られていた。ルークはイスマイーラの言葉に耳を傾けながら、げっそりとした表情で手当てを受けているし、アズライトとウィゼルに至っては、俯いたまま言葉もない。あまりにも長い説教が三人から気力を奪っていたせいだった。
「三人とも何事も無かったから良いようなものの……今後は気をつけて頂きたい」
腕の傷に薬草をすり潰したものを直接塗りこみながら、イスマイーラは普段と変わらぬ口調で締めくくった。痛みに呻き声を上げ続けるルークのことなどお構いなし。あまりにも酷い痛みに、ルークはイスマイーラの腕を引き剥がそうと彼の腕に手をかけた。
「暴れないでください」
ルークの手を、ぴしゃりと払うと、イスマイーラは眉間に
「俺は怪我人だぞ……?」
「ご自分から望んで怪我をされた人は、怪我人とは言いません」
「なぁ……薬を直接傷口に塗りこむのは怪我人に負担をかけると聞いた事があるんだが」
「それは傷が深い場合です。浅い時は直接塗り込んだ方が治りも早い」
「早くないいっつ!」
叫んだ瞬間、ぎゅっと包帯を巻かれた。ルークの赤い瞳には、うっすらと涙がにじんでいる。イスマイーラはそれを、涼しい
「よ、邪魔するぜ」
いつものように片手に箱と枝を持ち、軽い調子で笑顔すら滲ませて。集まった視線にラビの笑顔が、すーっと消えていった。
「……どうした?」
「取り込み中でした」
イスマイーラが投げるように言い放つと、ラビが薄笑いを浮かべた。
「ひょっとして、昼間のこと?」
非難がましい目つきで睨まれながら、ラビはその隣へどっかりと腰を下ろした。
「今日は読み書きを教えてやれるような気分じゃない」
「だろうと思ったよ」
「じゃあ、帰れ」
寝転がったルークにねめつけられて、ラビが苦笑した。
「かあちゃんに用事を言いつけられたから逃げて来たんだよ。頼むからちょっとだけ匿ってくれよ」
朝から動きっぱなしでへとへとなんだと足を放り出し、くたびれたように首を鳴らした。
「隠れても無駄だと思うぞ」
「見つかったら観念するよ」
ラビが笑うと、ルークがあっと言う表情を浮かべ、懐にしまい込んでいた紐を手に取った。
「そういえば、ラビは読めるか?」
「読めないのか?」
「読んでくれ」
ラビがおどけたように肩をすくめた。普段は読み書きを教えてもらっている立場だったのに、一瞬で教える方の立場へ逆転してしまったことに可笑しみを感じたらしい。紐を受け取ると、まじまじと眺め、少しだけ首を傾げた。
「これ、北カムールのやつらの結び方じゃないか?」
「なんて書いてある?」
「待て待て、急ぐなっての。案外せっかちなところあるよな、ルークって」
「悪かったな、せっかちで」
不機嫌そうな呟きは、聞こえていなかったらしい。ラビは目を細め、薄汚れた白い紐を端から端まで眺め、呟いた。
「我、北部と南部の戦士、千五百人は北上。至急、増援求む。何だこりゃ?」
「もう二つは?」
「急かすなっての。
残りの二種類の縄を、じっと見つめる。やがて、浅く息を吐いて肩を落とした。ラビの、大きな黒い瞳が揺れている。
「見たところ、どっちも良い話じゃなさそうだ……」
ルークとイスマイーラが顔を見合わせ、表情を曇らせた。心当たりがあった。
「色のついた
ぐちゃぐちゃに結われた青い紐を
”我、ルワラのハリル。アクタルと合流、国境にて隣国と交戦す。のち、転戦のため北上。カムール在住の全氏族は、ニザルと合流の後、直ちに逃げられたし。”
「緑は?」
「南カムールの領主が使うものだ。アクタル様のだな」
ラビが納得いかなさそうな表情で、赤茶色の染みで汚された緑色の紐を眺めた。
「汚されてる……」
「汚れていると、都合が悪いのか?」
「悪い。こんだけ汚されてると、最悪なんてもんじゃない」
ラビが嫌悪するように吐き捨てた。まるで不吉なものだとでもいうような物言いに、天幕の中の誰もが目を剥いた。
「普通、ちょっとやそっとの悪い事じゃあ、
「汚すほどの悪いこと?」
「例えば、沢山の人死にが出たとか、一族が危機に瀕しているとか、領主が殺されたとか……」
不意に、ラビが口を閉ざした。ぼうっとしたような目つきで、汚された紐をいじる。手が、微かに震えていた。
「
ラビは、動揺する心を落ち着かせるように、何度も深呼吸を繰り返した。そして紐に指を這わせ、上から順に、ゆっくり読んだ。
「南カムールは、諦めろ。サルマン王子とダリウスが相手では勝ち目がない……なんだよ、諦めろって。アクタル様らしくもない」
「王子と、二人の将……」
ルークに心当たりがあった。アル・リド王国第一王子、サルマン。彼は戦や内乱が起こると、必ず前線に出向き、陣頭指揮を執りたがる。彼の存在について、ルークはさほど驚いていない。当然、いるだろうと思っていたからだ。しかし、ダリウスについては違う。彼はサルマン以上に頭が回り、戦場での経験も豊富な古強者。野戦指揮官として、アル・リド王国軍を率いているのなら、苦戦どころでは済まない。
(サルマンだけでも十分厄介なのに、ダリウスまで)
「あんた、やっぱりここにいたね」
天幕の外から、アリーが顔を覗かせていた。その後ろから、見知らぬ女がラビを睨んでいた。大きな丸い瞳に、ラビそっくりの面立ち。ラビの母親らしかった。
「アリーさんに迷惑をかけるんじゃないよ」
「ちょっとくらい休ませてくれたっていいじゃんか」
むくれ顔のラビへ、母親が眉をつり上げた。
それを見て、うすら笑いを浮かべたルークの頭を、ラビが小突いた。
「言わんこっちゃない」
「……うるせえよ。まぁ、兎に角そういうことだから」
「うん。感謝する」
ラビが、母親に腕を引っ張られながら出て行く姿を、ルークは苦く笑った。アリーがつられるように微笑む。眼差しは、ルークとラビに向けられていた。無言で笑んだアリーが、子供を眺めている母親のような眼差しをしていたものだから、ルークは少しだけ奇妙な気持ちになった。
ずいぶん昔に失ってしまったものを目の当たりにしたような。どこか懐かしくて、哀しい想い。なんとなく辛くなって、顔を背けた。ラビが持ってきた木箱と枝に目が留まった。
「ラビのやつ、そそっかしいな……」
天幕から出ると、外はすっかり陽が落ちていた。
薄墨を流したような空の下、天幕から漏れ出る明かりが点々と大地を照らしている。風に乗って流れてくる夕餉の匂いを楽しみ―――ふと、ルークは闇の向こうに視線を止めた。やがて、見る見るうちに表情を強張らせた。
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