寄る辺無い心

 俯いた視界の端に、居なくなったはずの白い法衣が映った。全力で走って来たような荒い息遣いが聞こえる。恐々と顔を上げると、シーリーンが小箱を抱えながら立っていた。


「彼女の手当てをしますから、どいていただけませんか」


「あら、放っておけばよろしいのに」


 嫌な笑みを浮かべたシルビアを、シーリーンは見つめることなく通り過ぎる。


「なんで……」


「大分血が出ていますから、ちゃんと薬を塗らないと腫れますよ」


 しゃがんで顔を覗き込んできたシーリーンは、少しだけ痛ましげな表情をすると、脇の下に腕を入れて腰に回し、寝台を背もたれ代わりにして座らせてくれた。


「……貴女、いい子を気取るおつもりですの?」


「……シルビア様、夕刻になりましたので、これより関係者以外は立ち退きとなります。ゆえ、どうかお帰り願いたく」


「貴女にとっての泥棒よ、その人」


「お帰りください」


 振り返らないシーリーンに、シルビアは僅かに顔を曇らせた。


「……分かりました、今日のところはおいとま致しますわ。また連絡があり次第伺いますので、そのおつもりで」


 言い捨てたシルビアへ、シーリーンは身体ごと振り返り、深々と頭を下げた。シルビアの足音が遠ざかってゆくのを聞くと、何事もなかったかのように頭を上げ、持って来た小箱に手をかけた。瓶のようなものが色々と入っているらしく、ガチャガチャと音がする。その中の一つを手に取ると、慣れた手つきで蓋を開け、中身を真新しい手拭いに少しだけ浸し、ウィゼルの口元にそっと押し当てた。


「……嫌なひと


 温度の感じられない呟きに、視線を逸らした。


「……ごめん」


「貴女じゃなくて、さっきの人です。貴女も大概ですけど」


「ごめんなさい」


 表情の無いシーリーンが、大きなため息を吐いた。


「……御二人で来られたので、てっきり親しいのかと思いましたが」


「……全然。仲が良い悪いの問題じゃないわ。敵か、味方かよ」


「ただならぬえにしがおありの様子ですね」


 すっと、目を細めたシーリーンに、少しだけ戸惑った。話したくないと黙っていれば、強く追及してこないだろうということは、シーリーンの目を見れば分かる。でも、またシルビアに会うことがあれば次はどんな言葉を投げつけてしまうか、想像して溜息をついた。やっぱり説明しておいたほうが無難だ。


「……ルークと一緒に居たことがあるって聞いたでしょ。その頃に、シルビアに会ったのよ。その時もやっぱりいい出会いじゃなかったわ。ルークを脅迫をするための人質にしてくれたんだもの」


 怪我の手当てをしていた時だ。不意を突かれて、あっという間。気が付いたら人質になっていた。動くことも出来ず、声を発することも出来ず。ルークとシルビアが交わすエル・ヴィエーラ語を聞きながら、成り行きを見守っているしかなかったと伝えると、シーリーンは僅かに驚いたように目を見開いた。


「……ルーク、ですか?」


 ややあって、あっと、ウィゼルが声を上げた。


「街でルシュディアーク殿下を殿下なんて呼んだら不味いじゃない。だから、殿下に愛称の方を呼ばされてたの。あの人が言うような深い意味はないわ。もちろん変な意味も!」


 三月もの間一緒に旅をしていたけれど、本当に何もなかった。夜這いをされたこともないし、性の対象としての視線もなかった。えて「あった」と言うならば、別れ際に抱きしめられたことくらいか。それでも許嫁たるシーリーンには刺激の強い話に違いない。については墓の下まで持ってゆこうと堅く決意し、口元を引きつらせる。


易々やすやすと信じてもらえるとは思わないけど……」


「殿下はそんな人じゃありません」


 びっくりしてしまうくらい、シーリーンはきっぱりと否定した。

 そして、ふっと、微笑んだ。


「それに、貴女も出来ないでしょう?」


 一瞬だけよからぬ想像をして、顔が熱くなる。それを見たシーリーンは安堵するような気配をかもしながら、薬の入った小瓶を片付け始めた。


「私も、許嫁のくせして接吻せっぷんの一つも出来ませんでした」


「せっ……!」


 大声を出しかけた瞬間、唇に痛みが走った。震えるほどの痛みに顔を強張らせるのを、シーリーンは苦笑しながら見つめていた。


「それだけ清い関係だったということですよ。貴女と同じです」


「じゃあ、許嫁っていうのは……」


「本当です。アル・カマル皇国軍の高官である父が、陛下と交わした約束ごとで」


「いわゆる、政略結婚ってやつ?」


 その通りだと、シーリーンは頷いた。


「ですから貴女が期待するような面白い話なんて、一つもありませんよ」


「面白がるつもりはないわよ」


 興味はあるけど我慢するという顔つきに感じるものがあったのだろう。シーリーンは苦笑いを深くした。


「あまりお会いできないうちに色々とあって、破談になりました」


「それはひょっとして、ルークが魔族だったってことと関係があるの?」


「どうしてそれを……」


 はっとしたようなシーリーンの表情に、確信を覚えた。彼女もまた、知っているのだと。


「出会ったときに、ルークから聞いたのよ。助けた少年が、まさか皇子だったなんて夢にも思わなかったけど」


 驚いた事を正直に告げると、シーリーンの瞳から警戒の色が薄らぎ、


「その通りですよ、エリシャ様」


 夕暮れに溶け込むような囁きを返してきた。


「当然ですよね。魔族とお付き合いなんてさせられるわけがない。会わせるなんてもってのほか。だから、会いたくても会えなかったんです。そうこうしているうちに殿下が亡くなって。その時、後悔したんです。もっと話をしていたら良かったって。殿下が生きている間、私は御傍にありながら何もしてあげることが出来ませんでしたから。だから決めたんです。皇族の墳墓を管理する鉄女神マルドゥーク神殿の神官になって、ずっと殿下の御傍にいようって」


 それが何もできなかった自分の、ルシュディアークへの償いになるのだと信じて。


「なのに、ね」


 湖水色の双眸が曇る。薬箱を抱えた手が、僅かに震えていた。


「……殿下は、お元気でしたか」


「ええ、元気だったわよ」


「そう、良かった」


 カダーシュと同じ表情で、同じことを言う。似ている、と、思った。シーリーンもまた、ルークを求めているに違いない。だからこそ、許嫁であった彼女には伝えてあげたいと思った。カダーシュに伝えることが出来なかった分、強く。


「……ルークは、誰のことも恨んでないわ」


 俯いたシーリーンが、はっと、顔を上げた。それをしっかりとみつめる。やましい気持ちなんて無いのに、何故だか少し、後悔した。


「自分を追いやった人達のことも、傍にいてくれた人達のことも。怒りには思っているかもしれないけど、大半はアル・リド王国との戦争を止められなかった自分自身への怒り」


「ご自分の……?」


「本当は、魔族になったから城から追い出されただけじゃない。アル・リド王国と同盟を結ぶための人質になるために追い出されたって聞いてる。それはルークも望んでたことだったみたい。でも戦争が始まって、同盟の話は水に流れてしまった。じゃあ、もう行くところなんてないじゃない。だからこう言ってやったの。逃げたらって。でも駄目だった。聞く耳なんか持たなかったわ。挙句になんて言ったか分かる?」


「うるさい、とか?」


 怪訝そうにするシーリーンへ、肩を竦めた。


「ううん、違う。むしろそんな風だったらこっちも言いたい放題言えたわね」


「……なんて仰られたのですか」


 シーリーンの顔を見るのではなかった。既に芽吹いていた小さな後悔は、徐々に大きくなっていく。それでも、言葉を止めるわけにはいかなかった。


「皇子としての自分が出来る事をしたいから、って。挙句あげくに、我儘わがままで卑怯者の元皇子の、最後の頼みを叶えてくれって言われちゃあ、こっちは何も言えないわよ」


「最後の頼み?」


「文よ。私は荷運びチャスキでね、イダーフ様宛に書かれた文をお渡しするように頼まれてたの。でも色々あって、文はカダーシュ様に渡したわ。ついさっきのことよ。カダーシュ様にはルークの想いをはっきりと伝えてあげられなかったけど。許嫁の貴女になら伝えられるのかな」


 むくむくと大きくなってゆく後悔を押しとどめる。


(想いを文と共に伝えるのが荷運びチャスキの仕事)


 返事を待つ人がうれうなら、それを軽くしてやるのが務めだ。

 伝えなくてはならない。たとえ、自分の胸が痛んだとしても。


「ルークは戻ってくるわ、必ず」


 貴女のもとに。

 想いを乗せた言葉は、


「やめて」


 拒絶された。


「お願い、もう言わないで」


「どうして。ルークが城に戻ってくれば、また一緒に居られるのよ」


 シーリーンの顔が歪んだ。

 言っちゃいけない事だったと理解したのは、既に言ってしまった後で。


「私はもう、御傍にいられないんです」


 揺れる瞳に、涙が溢れた。


「神官って、どうやったらなれると思います?」


「私は竜の民ホルフィスだから、アル・カマル皇国の教義はちょっと」


 シーリーンは涙を拭うと、


「我が国の神官というものは、名前以外の全てを信奉する神に捧げた者のことを意味します。自分のこれまでの生き方や思想も、それまでの周りとの繋がりも、名前以外の全てを自分から切り離すんです。そうやって初めて神官になれる」


 俗世からの解脱げだつだ。

 父も、母も。兄弟も祖父も祖母も。友人も恋人も。俗世に作った縁を全部切り離し、信奉する神の名のもとに生まれ直す。神の子として生まれた神官は、神縁によって巡り合わされた人々と生涯を暮らし、純潔を守りながら一生を終える。それが神官になるということなのだと、シーリーンは告げた。


「神官になった私はもう、殿下の御傍にはべることも、父上や母上のもとに帰ることも出来ません。親たる神、鉄女神マルドゥークの縁を辿りながら生きるしかない」


 シーリーンの瞳は揺れていた。やがて耐え切れないように目を瞑る。


「それにこれ以上、心を揺らして罪を作ってはいけない」


「罪って、なんの」


「……罪のない流民の子の眠りを、冥府より暴いたのです」


 神官にあるまじき愚行だったと、両腕で自身を掻き抱きながら吐き出した。




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