知らない私の、知らない記憶

 夢のような景色を見た。

 青々とした緑草の大地があった。優しく吹く風が丈の長い草葉を揺らし、さざ波のように揺れている。その中を一人佇んでいた。

竜の民ホルフィスの里には無い景色だった。エル・ヴィエーラ聖王国の王都でも見たことのない草原。当然、アル・カマル皇国で見た景色でもない。でもなぜか懐かしくて、胸の奥が締め付けられる。

知らないはずなのに心が震える。切なさや苦しみじゃない。これは歓喜だ。ああ、っていう喜び。

自然と弾む心を胸に、草原を踏みしめる。

 さく。さく。さく。

 さく。さく。さく。

 踏みしめるたびに青臭い草の匂いがする。両腕や足に当たる草がこそばゆい。景色を心に焼き付けるように、草原をぐるりと見渡す。どこまでも青い草の海が穏やかに流れている。私の知らない、私だけの記憶。その中を歩み続けた。歩み続けたいと思った。


「エリシャ!」


 自然と歩んでいた足は止まり振り返る。青々とした空の下、輝く太陽の下に、兄さんがいた。


「帰ろう。リーファが林檎のパトフィロを作って待ってるよ。エリシャも好きだろう」


 パリパリに焼いた生地の中に、とろっとろに煮詰めた林檎の入った甘いお菓子。それに甘酸っぱいウルの果汁を絞って食べる私の大好物。そしてリーファの得意だったお菓子だ。嬉しいはずなのに、涙が溢れた。

私を抱いてくれたリーファの暖かくて柔らかな両腕も、ふわふわの長くて綺麗な金髪も、慈しんでくれる優しい瞳も、真っ赤で熱い海の中に消えちゃったんだって。林檎のパトフィロも、もう食べられないんだと、知らない私が、私に告げる。


「ほら、リーファが待ってるよ」


 青草の海をかき分けてやってきた兄さんが、私に手を差し出した。

 私はそれを、握り返さなかった。


「兄さん、あのね」


 あの人はいないの。

 心はそう言いたくてたまらなかった。

 頭では分からないことだらけだ。

 リーファのことも。

 この草原のことも。

 何もかも分からない。

 分からないはずなのに、いる。


「どうした、エリシャ?」


「もう、思い出したくないの」


 兄さんの手を払う。ごん、と、私の手が、兄さんの手にぶつかった。手を払ったはずなのに額が痛かった。兄さんだった影はぼやけて黒くなる。かと思えば「ひゃあっ」って可愛らしい悲鳴があがった。どんがらがっしゃん、どん。派手な勢いで何かが転んだらしい。すぐそばで誰かが呻いている。こっちも額を打ち付けたのかとても痛い。ずきずきと痛む額に手を当てながら目覚めると、寝台の下で少女が鼻を押さえていた。


「あの……大丈夫?」


「ごっ、ごめんなさい!」


 がばっと顔を上げた少女は、鼻を赤く腫らしていた。湖水色の綺麗な瞳が潤んでいる。その少女の手には、濡れた手拭いがあった。それをぎゅっと握りしめ、途端に、ハッとした顔つきを浮かべて、


「あの、手拭いどうぞ!」


「……ご、ご親切にどうも」


 差し出された手拭いを額に当てる。ひんやりとした心地よさが、さっきまでの夢を覚ましてくれるようだった。少女はばつが悪そうな表情で、深く息を吐いた。


「……まだ寝ていてください。熱が引いてないみたいですから。あああ、それに、喉乾きましたよね。ちょっと待っていてください」


 まろびいでるような慌てぶりで部屋の外に出て行ってしまった。

 その後ろ姿をぼうっと見送りながら、居場所が変わっていることに気が付いた。


 薄暗い小さな部屋だった。その寝台に寝ていたらしい。天井には蚊避けの薬草がぶら下がり、淡い緑色りょくしょく蓄光石ニナハドが部屋の壁に埋め込まれている。蓄光石ニナハド鉱石光サナとは違って水を必要としない。昼間に太陽の光を集めて、暗くなると光を発する石だ。その輝きは星々の光のように穏やかだという。当然ながら値段もそれなりにする。鉱石光サナの三倍くらいの値段のはず。それを部屋の四隅と天井に設えられるとは相当の金持ちじゃあないだろうか。その部屋の窓は二つ。西日が部屋の中に射しこんでいる。窓の下には小さな文机と本の山。それらを水を入れたばかりの鉱石光サナが青白く照らしている。


(さっきの子の部屋? にしては本以外何もないっていうか)


 殺風景。裕福な家だったら部屋に一輪挿しくらいはありそうなものなのに、花の代わりに本しかない。

ふと、文机の下に銀色の首飾りが落ちているのに気が付いた。車輪を抱えた翼の紋章。それが紗のような柔らかい布の中から零れ落ちている。


「……東の大通りに居たはずなんだけどなぁ」


 状況の不自然さに、自然と眉間に力がこもる。

一緒に居たはずのアルルの気配がない。あのシルビアっていう女の気配も。耳に足音が聞こえたかと思えば、少女が木製の盆に水の入った器を手にして戻ってきた。どうぞと差し出された器を手に、軽く礼を言う。


「顔色は良さそうですね」


 少女は安心したようにほっと息を吐いた。


「ここに来るなりいきなり倒れ込んだから、びっくりしたんですよ」


 鈴の転がるような声で、綺麗な微笑みを浮かべる。目が笑っている。心からの笑みだ。彼女を見ると、何故だかこっちもほっとする。そう感じるのは少女の明け透けな態度ばかりじゃないだろう。街ではあまり見かけない白くゆったりとしたチャードルに、何かの職の位を表す銅の腕輪、車輪を模した銀の首飾り。そして、鉄女神マルドゥークの横顔と車輪の模様があしらわれたヒジャブを緩く頭に巻いている。その成りがきちんとしているから。


「ねえ、ここって……」


 ひょっとして。


「はい、鉄女神マルドゥーク神殿で暮らす神官達の一室ですが」


 ぽかんとしている間に、少女は落ちていた銀色の首飾りを大事そうにしまい込む。


「承知の上で来られたのでは?」


 少女の湖水色の瞳が警戒するように扉の方を見つめた。

 いつの間にか来ていたシルビアが扉に寄り掛かったまま、


「はぁい、おはよう。


 その姿を見た瞬間、水の入った器を投げつけていた。


「どういうことよ!」


「思ったより元気そうね。シーリーン様、手拭いをもう一枚頂けなくって?」


「は、はい!」


 目を白黒させたままの少女が慌てたように出てゆくのと同時に寝台から飛び降り、シルビアの胸ぐらに手をかける。それを、シルビアは叩き払った。


「はいはい、落ち着いてちょうだい」


 何処か嘲笑するような眼差しに腹が立って拳を振りかざすと、首を掴まれ、壁に叩きつけられた。


「言葉も通じない狂犬なのかしら」


「……アルルはどこ。あの子と私に何をしたの」


「何をしたと思う?」


「分からないから聞いているのよ!」


 名前を言われ、指を指された瞬間からの記憶がない。それを嘲笑うようなシルビアの態度が気に食わず、その顔へ唾を吐く。シルビアの表情かおに怒りが滲んだ。


「もういっぺん、ニレの呪言じゅごんを唱えてあげましょうか」


 首を掴む指に力がこもる。抵抗するように手足をばたつかせても、シルビアは手を離さなかった。


「御存知かしら。魔法マナを介さない魔法クオリアって」


「……っ知らないわ」


「ニレの民っていう神代の民が使うまじないよ。神代の民は生来から特殊な力を持っていてね、ムルグ・イ・アーダーミーだったら空気中のマナを背中の翼に取り込んで空を飛び、魔法クオリアを意のままに操れるわ。竜の民ホルフィスだったら竜と意を交わせる。そしてニレの民は、魂の傷を利用した呪言で人心をの。魔法クオリアなんか使わずにね」


「嘘つき。魂に傷なんかつくわけ無いわ」


「つくわよ。生きている内は何度でも。言葉があって、理解できる頭がある限りずっとね」


 シルビアの爪が首に食い込む。痛みと苦しみで呻きそうになるけれど、一声でも漏らしたらシルビアが嗤うだろう。それが嫌でたまらなくて、唇を噛みしめ、耐えた。


「肉体の傷はすぐに癒えるけれど、魂についた傷って、ずっと残っているものなのよ。誰か優しい人に言葉で癒されたとしても、それは生傷から瘡蓋になっただけ。本当は癒えていないの。それをね、見抜いて剥いでつつくのがニレの呪言じゅごん


 シルビアが嗤った。


「昔はね、魔族と言ったら、ニレの民だったの。ニレの民に名前を知られたら呪われるなんて言われてね。ま、そんなことはどうでも良いわね。だって私達、今は味方同士だものね」


「違うっ……!」


「味方同士よ、私もニレの民だもの。神代の民仲間ってやつ。でも私、味方の貴女にそれを使っちゃったわ。ごめんなさいね。でも、仕方ないわよね。だって命じられちゃったんだもの」


「命じられたら何をしても良いってわけね。最低」


「……非力なくせに歯向かってくる馬鹿な子って、私嫌いじゃないわ。むしろ従順な子よりも好みよ。壊しがいがあるもの」


「……貴女、嫌いだわ」


「私は貴女のことが好きよ」


 大好き。いた甘い息に吐き気がした。この女、性根から歪んでいる。その彼女の蛇のような目が、笑みを刻みながら横を見た。手拭いを頼まれた少女が戻ってきていた。


「彼女ね、殿下と三月もの間一緒だったのよ。ねえ、三月も寝食をともにしてきたんだもの、既にあんなこととかそんなこととか、していたりするの?」


「するわけないでしょうっ!」


 手をはぎ取ろうと藻掻いた瞬間、床に叩きつけられた。そこからお腹を蹴られ、苦しさに唾液を吐き出した。痛みの中でシーリーンを見上げる。青褪めた顔でこちらを見つめていた。湖水色の瞳が揺れる。信じたくない気持ちと、本当なのかと疑う気持ちの狭間で揺れている。最初に逸らしたのはシーリーンだった。手拭いを放り出して駆け出してしまった背中に、シルビアは可笑しそうに笑った。


「彼女ね、第二皇子殿下の許嫁でしたのよ」


 愉快そうな視線に見下ろされながら、力が抜けた。


「……あの子が」


 遠ざかってゆく背中を、呆然と見つめるしかできなかった。


「悪い虫はどちらかしらね」


 あの子は彼の本当の想い人で。

 悪い虫は、私のほうだった。



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