大地の子クムシュ

 オアシスに留まる避難民の中に、クムシュという男がいた。クムシュは生まれつき目が見えなかった。しかし彼は目が見えないことに不自由をしたことがなかった。目が見えずとも風が運んでくる音や匂いが、クムシュに様々なものを教えてくれるからだ。砂を踏む足音の癖、呼吸の仕方から声色に乗る感情。肌に照り付ける日差しの暖かさや、水の冷たさ。指先から伝わるものの感触と形。目に光は映さないが耳も、鼻も、肌も、頭髪から足先の爪までがクムシュの目であった。そんなクムシュに、ある日訊ねる者があった。


大地の子アル・アシェラのクムシュというのはお前か」


 男はタウルと名乗った。そして、イスマイーラという男と、アズライトという不思議な匂いのする女がいた。


「いかにも。水脈潰しのせいでお困りかね」


 クムシュは皮肉そうに頬を歪めた。

 大地の子アル・アシェラは、豊穣を司る大地母神アシェイラの姉妹の一人。隠された恵みを司る末神アシェラのことで、カムールでは水探しの名人のことを指している。カムールに住まう多くの者は物心ついた頃から家族や氏族の老人達から水場を教え込まされるが、教えられる多くの水場は有名な場所ばかり。万が一争いが起こった際、真っ先に狙われやすい場所でもあるため、水脈潰しを初めとする毒を投じられた際、すぐに使えなくなってしまう。そうなると他の水場を探さねばならなくなるため、新たな水場を探さねばならなくなる。それを代わりに探してやるのが、地下水脈の流れを熟知した大地の子アル・アシェラと呼ばれる者達だった。


「カムールの連中が水脈潰しを投じたせいで、避難民共が割を食っているそうだな。すれ違う度に連中への悪口が聞こえてくる」


「ははは。お陰様で随分と稼がせてもらっている」


 休む間がないというクムシュに、タウルは放るように言った。


「雇いたい」


「金が要るぞ」


「いくら欲しい」


「一日に玉貨百枚」


 タウルが面白げに喉を鳴らした。


「細かい。金貨五枚でお前を雇う。前金で金貨を一つやる。残りの四つは我が軍の大将から貰え」


「大将とは」


「ダリウス」


 てっきり硝子谷で陣を構えている領主達の名が聞けるかと思えば――――隣国の、それも名のある猛将の名にクムシュは息を詰めた。


「知っているな」


 そういって、タウルは強引にクムシュの手に硬いものを包んだ。形は丸く、材質は固い。表面なのか裏面なのかは定かではないが、刻印でもあしらわれているのか凹凸のようなものがクムシュの指先に触れた。金貨には生まれてから一度も触れたことはないが、しっかりとした金属の感触は確かだった。


「今さら出来んとは言うなよ?」


(これはまた、とんでもない奴に出会ってしまったものだ)


 大地の子アル・アシェラで生計を立てているからには、当然ながら危険な連中からの依頼もある。が、今度ばかりは覚悟を決めなくてはならないかもしれない。目の前の奴らはそういった類の連中だ。


「……ここで暴れなければ何をしようが構わんさ」


 片頬を歪めるクムシュを、タウルがじっとみつめる気配がした。


「それからな、これは興味本位なんだが。このオアシスについてなにか心当たりは無いか。俺は海原のように大きなオアシスを産まれてから一度も見た事が無い。まるで、砂漠中の水脈から水が一気に溢れ出したかのようだ」


 クムシュが眉をひそめた。鼻につく水の匂いの方角に顔を向け、息を吐いた。


”ムトの道には水が無い。”


 今年は四つあるオアシスの道のうち、例年通りに水が湧いたのはサハル街道、イマーム、ジャバードの道だけ。元々、ムトの道は地下を流れる川が少ないことに加え、なだらかな丘のような地形になっているせいでオアシスが現れにくい。仮にもし現れたとしても、湖のような大きなオアシスは出来ないはずだった。


「……さて。俺も分からない」


 問い訊ねるような気配にクムシュは苦笑いを浮かべる。

 心当たりは、


 それは仲間達と共にカムールを脱しようとしていたクムシュが、ムトの道にたどり着いた時のこと。その頃には、既に多くの民がひしめくように身を寄せ合っていた。水が無いのを知っていながら集まっていたのは、水場が無いからこそ戦乱を避けられると考えた者達が多かったせいだ。クムシュもまた、そういう風に考えていた者の一人だった。


「ここまで水の気配がないとくると、いっそ清々しいな」


 とある氏族の長に頼まれて水場を捜し歩いていたクムシュは、溜息をついた。水の匂いもしなければオアシスの出来初めに現れる流砂も無い。


(明日も駄目なら移動するよう、長に提案でもしてみるか)


 もう少し先を行けば他にも隠された水場が見つかるかもしれない。そう思ったクムシュは、疲れたように歩き始めた。その瞬間、光を映さぬクムシュの目が、奇妙なものを捉えた。

それはだった。

沢山の薄ぼんやりとした丸いものが、黒々とした闇の中を漂っている。


(……なんだ)


 初めに猛烈な違和感があった。続いて自らの身に起こっていることに震えた。クムシュは生まれてから一度も光というものを見た事が無い。陽射しの暖かさや冷たさは肌で分かる程度で、目に何かを映すなんてことは無い。だというのに、目の前に広がっている光景は、クムシュの生涯を簡単に覆してしまった。


 のだ。


 生まれてこの方一度も物を見た事が無いクムシュにとって、それは異様なものだった。もし、クムシュの見ている光景を誰かが視る事が出来たとしたなら、こう言ったのかもしれない。


 魔法クオリアの光がそこいらじゅうに漂っていると。


 クムシュはあまりのことに立っていられなくなった。地べたに座り込むと、這うような恰好で辺りへぐるりと顔を向ける。どこもかしこも光だらけだった。丸い大小の光が金臭い匂いを発しながら漂っている。ふいに、地面についた手から、わずかに大地が揺れているのを感じた。まるで大地の奥深くで眠っている巨大な何かが寝返りでも打ったような揺れ方をしている。クムシュは助けを求めるように傍にあった小さな岩にしがみつくと、光が漂う闇の中で、幾つかの影が浮かびあがった。

丸くて凹凸のある輪郭が岩の向こうで幾つも直立している。クムシュは身を屈め、息をひそめるようにして影を見守った。大小の影が、徐に口を開いた。


「……こんなのでオアシスが出来るの?」


「一応、ムトの道にも水脈があるからな。丘になっているせいで他の場所よりも表に出にくいってだけだ。魔法クオリアで水脈を繋げてやればこの通り。後は、大地の子アル・アシェラにでも見つけさせればいい」


 俺達は知らん顔でいればいいのさと、老人の声はあかるげに言い放った。それへ、中年の女の声が答えた。


「他の連中に手柄を預けるってのはなんだか嫌な気分だねえ。そうだ、あんたが見つけたってことにすりゃいいんじゃないのかい?」


「ばかいえ、明後日には凄い量の水が出てくるんだぞ。おさに追及されるのはまっぴらだ」


「違いない」


 沢山の、密やかな笑い声が上がった。


(一体、なにが)


 クムシュはそっと、岩陰から顔を出して外を伺った。影の立つ大地が、眩しい光で輝いているのが見えた。薄暗いくぼみの中から滾々と光が湧き出ている。その周囲を見渡すと、四方の大地から光が川のように流れているのが見えた。それはさながら砂漠を流れる光の大河だ。幾筋もの光がうねるようにして揺蕩い、闇の彼方へ伸びている。呆然とするクムシュの鼻に、覚えのある匂いが漂ってきた。湿ったような、どこかかび臭い雨の匂い。


(これは、水の匂いか)


 それが光の方角から漂ってきているのを感じて、クムシュは自然と立ち上がってしまった。その瞬間、がらりと空気が変わった。ほの暖かな気配から、刺すような気配へ。それはクムシュに向けられていた。


「誰、このひと」


 剣呑な少女の声がした。


「見たな」


 怒気とも殺気ともつかぬ気配が、一斉にクムシュへ注がれる。


「……あんた、ひょっとして大地の子アル・アシェラのクムシュかい?」


 しわがれた老女の声が聞こえた。背の低い影が、のそのそと、こちらへ近づいてくる。


「いかにも。そういうあんたは」


 訪ねようとしたクムシュの言葉を塞ぐように老女が言った。


「これが見えるかい?」


 何を指して言っているのか一瞬分からず、クムシュは首を傾げた。


「これって、なんだ?」


 人々が騒めく気配がした。見えていないのかという囁き声を耳にしながら、クムシュは冷や汗を流した。見えているなどと知られたらどうなるかが想像できてしまったからだ。


「……水の匂いがするが、何か見つけたのかね」


 何か感じるところがあったのだろう。周りが安堵するような気配がした。後ろへいるだろう数人へ、老女が放るように言った。「ほら、やっぱりね」と。


「何がやっぱりねだ。俺にはさっぱりわからんぞ。目が見えん奴をからかうのもいい加減にしろ」


「……いや、からかっている訳じゃないんだ。まあ、そんなことよりさ、聞いとくれよ。水が沸いていたんだよ」


 誰かがクムシュの手を取ると、光の溢れる窪地へ招いた。恐る恐る眩しい光に手を伸ばすと、意外なほどに冷たく、指先が濡れる感触があった。


「大分湧き出ているから明日、明後日には大きなオアシスが出来ているだろうと思うが、あんたの見立てではどうだね」


 滾々と湧き出る水の感触を指先に感じながら、クムシュは確信したように頷いた。


「……いい水だ。オアシスが出来る。長へは、俺が伝えよう」


 間違っても、魔族によって作られたオアシスのことを言うつもりはない。命の代わりに得た水だ。真実を話すには、あまりにも代償が大き過ぎた。


(このことは、胸の奥に留めておこう)


 そう決めたクムシュは、知らぬふりを決め込んだ。



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