ムトの道
イスマイーラが戻るとタウルは
「随分と長かったな。お楽しみだったか?」
「人払いをしてまで気を使わなくてもよかったのですが」
「疲れたお前には必要だと思ったのさ」
そういって、下卑た目つきで笑った。何か言い返してやろうかと一瞬口を開きかけ、やめた。タウルの余計なおせっかいのお陰で、アズライトとは深い事情まで話せた。人払いをされていなかったら、そうはいかなかっただろう。
「
笑みを引っ込めたタウルは、真剣な面持ちで続けた。
「女の正体はなんだった」
「アズライトという名の流民。そして、魔族」
「厄介なものを拾ってしまったか」
魔族では殺すのも骨が折れるぞと溜息を吐いたのへ、イスマイーラは被せるように言った。
「利用価値としては十分でしょう」
「気に入ったか」
イスマイーラは少し考えこんだのち、言い切った。
「彼女は、面白い」
「お前が他人を評価するのは珍しいな。
「まさか。ただ――――」
ただ、何と言えばいいのだろう。得体のしれない古代の生き人形を放っておくことも出来たのに。それが出来ないでいる自分が不可解でならない。アズライトへの興味がそうさせるのか。見透かしたようなタウルの目が気に食わなかった。
「彼女へ
「拾いものを客分として扱えというか」
「彼女は使える」
イスマイーラは声を潜め、タウルへ言い聞かせるように囁いた。
「彼女は魔族だ。良いように計らえば、戦で随分と楽が出来る」
正直、アズライトの正体を知れば、楽どころの話ではない。彼女の使い方次第では一国だって手中におさめられるだろう。しかし、タウルにはアズライトを魔族だと思い込んでもらわねばならなかった。
「使わない手は無いと思いませんか」
「これは参った、執心だな」
タウルはしょうがないと溜息を吐いた。
「使えるか使えないか。こちらからの条件を飲んでもらってからにしよう」
「交換条件ですか」
「そうだ。拘束を解く代わりに一仕事してもらいたい」
「狙いは」
「我々の護衛」
鷹のような目つきでタウルはイスマイーラを睨んだ。
「補給物資の確保と安全な進軍経路の発見は俺達の急務だ。頼みにしていたサハル街道とイマームは奴らが毒を撒いたせいで使えんし、ジャバードの道はセーム首長国が関わってくるだろうから使いたくない」
「しかし、ムトの道には水が無い」
「と、思うだろう?」
イスマイーラが首を傾げた。
「あるのですか」
「奇妙なことに、道沿いにオアシスが出来ているらしい」
タウルは懐から地図を取り出すと、イスマイーラの前に広げてみせた。しわだらけの羊皮紙にくっきりと描かれたカムールの地形に、太い線と細い線がいくつも並んでいる。その中の一本を差すと、横になぞった。
「これがムトの道。ここから十日くらい歩き続ければ昼には着けるだろう」
水があれば避難民共も多くいるだろう。まして、ムトの道には水が無いと言われているのであれば、王国軍が来ることも無い。そう思い込んでいる避難民を使うのだとタウルは語る。
「イスハークの二の舞だけは止めていただきたい」
「案ずるな。今度はアル・リド王国軍として避難民共に近づくさ。穏便で、親しい隣国の友人として、な」
「抵抗したら?」
「その時はお前の女の出番だ。大丈夫だ、穏便に、誰も殺さずにおいてやる」
暴挙に出れば後に響くのはイスハークの一件で良く学んだと囁いた。
「出立は明日の夜」
「満月か」
「道も人影もさぞよく見えるだろう。早速、女の
事情を聞かされたアズライトは、イスマイーラの言葉にすんなりと応じた。渡された新しい
「……貴方の思うように動けばいい」
宙を見つめたまま、アズライトは囁くように呟いた。ふと見上げれば、人ならざる黄金が縄を切ったばかりのイスマイーラを捉えていた。
「何の話でしょうか」
言葉の意味は自分で考えろとでもいうように、アズライトはそれきり口を開く事は無かった。
「まるで自らに主導権があるような言い分だな」
捕らえられていた癖にと、共に来ていたタウルが苦笑した。
「話はイスマイーラから聞いている。当面の間、客人として迎え入れよう。ようこそ、アル・リド王国軍偵察支援隊イブリースへ」
アズライトが
カムールの騎兵は無駄によく喋る。軽い冗談で笑い合う姿に、当初こそイスマイーラは白い目を向けていたけれど。今になって思えば、死に満ちあふれた現実へのささやかな慰みと、互いの心の居場所を確認する行為であり、なにより物資の制約がないからこその余裕があったのだろう。
反面、タウル達にはそれが無かった。道々に撒いた水脈潰しが影響しているせいだった。ムトの道に向かう前に、サハル街道を十日ほど歩かねばならない。その間に三つほど小さなオアシスが点在していたが、そのどれもに水脈潰しが撒かれていた。あらかじめ用意していた
(水が無いだけで、こうも心がささくれ立つとは)
周囲の苛立ちを肌で感じながらも、イスマイーラは自嘲する。
自身の体で作戦の成功を確認することになろうとはと。
それから十日過ぎた。
太陽が中天に差し掛かった頃、イスマイーラ達はムトの道にたどり着いた。遠目から見た大地は黒く、小山のようだった。その一つ一つが人だ。人だかりがすり鉢状の
「……オアシスがあるとは分かってはいましたが」
タウルが目を細めた。
「これではまるで
何百人もの大人達が円陣を組んでも囲いきれないくらいの大きなオアシス。目算にして数千人ほどの人馬の喉を軽く潤せるだろう。
(そんな水量が何処から……)
人波にもまれながらオアシスの周囲をぐるりと見渡す。褐色の砂地がゆるやかな勾配を描いている。皿の淵のような窪地には、漫々と湛えられた澄んだ水。イブリースの男達は我先にと駆け出した。オアシスのへりにたどり着くと、先を競って水を飲み始める。喜び上がる歓声を尻目に、イスマイーラは眉間にしわを寄せた。
(何故ハリル達は誰も、このことに気付かなかったのか)
ムトの道を訪れるまで、ずっと気にかかっていた事だった。オアシスに表れる水は一晩では湧かない。徐々に染み出すように湧き出してくる。初めは流砂のような一見して湿った泥地として。それから徐々に水がしみ出し、泥水は水溜まりへ。水溜まりから徐々に大きくなり、オアシスのようなまとまった水源となる。経るべき順序を飛ばしていきなりオアシスが現れる事は、豪雨でもなければありえない。更に言えば、水を読むカムールの民が水の気配に気が付かないはずがない。
なのに何故。答えはすぐに知れた。
「ええ、オアシスが出現する前に赤い光が見えたそうです」
伝えに来たのはタウルの配下だった。イスマイーラは隣りに佇むアズライトを
「
「可能ではありますが、この量となると一人では不可能です」
難しい面持ちでアズライトはオアシスの水面を覗き込んだ。透明な水が日光を受けてきらきらと輝いている。映りこんだ水面の影が水底で水蛇のように揺れている。
「この水は――――」
飲めるかと尋ねようとして、愚問だった事に気付いたタウルは言葉を引っ込め、一度咳ばらいをすると、配下の一人へ命じた。
「後方へ
イスマイーラは頷いた。
「サハル街道を真っ直ぐに進むよりは三日ほど早く着くことが出来るでしょう。道中にナルセの丘に続く小道に通じる道があります」
「一旦、クヴェールの砂岩屈に戻らなければならないのではなかったか?」
「サハル街道からであれば一旦戻らねばならないでしょう。しかし、ムトの道からであれば、途中から小道に入って行ける」
ちらりとタウルに視線をやった。口角が、わずかに上がっていた。
「迂回する必要なし、か。確か、カムールの騎兵共はナルセの丘を集合地にすると言っていたか」
ひっそりと後をつけるのも、隠れ潜んで奇襲をするのにも、これほど良い場所はない。
「幸いにも騎兵達は小道の存在も、ムトの道から小道に入れる場所があるのも知りません」
やろうと思えば、小道で兵を集め、一気にカムールの騎兵達を叩き潰せる。
「ふん。参謀気取りだな。まあいいさ、ダリウス様への報告に加えよう。にしても、
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