穢れた手

 ルークは朽ちた家の壁に背を預け、誰もいない夕暮れの草原をぼうっと見つめていた。周囲には崩れた泥の煉瓦が石塊いしくれと化して散乱している。足元には無造作に放り捨てられた剣。殺した男の傍に置き捨てたつもりだったけれど、無意識のうちに持ってきてしまったらしい。鈍く輝く刀身を目に止め、すぐに目を逸らした。スフグリムの男を殺めたときの、あのなんとも言えない嫌な感覚が手に蘇ってきたからだ。


(こんなつもりじゃなかった)


 スフグリムが怯んでくれたらと。戦意を喪失して逃げてくれたらそれで良かった。殺すつもりではなかった。あれからずっと、重苦しさが腹の底に留まっている。


(戦わなければよかった)


 逃げてさえいたら、スフグリムを殺さずにいられただろう。

 いいや、逆に殺されていたかもしれない。


(こんなことになるくらいなら、あいつと一緒にいればよかった)


 イスマイーラと一緒に居たら、あいつがスフグリムを倒してくれたにちがいない。その間、自分は逃げ隠れしていればいい。さっきのように、人を殺さずに済んだかもしれない。そしたらきっと、心も楽だっただろう。


(いや、いやそれはずるい。自分ばかり楽な想いをして、他人に嫌なことを強いるなんて馬鹿げている)


 けれど、他人に責任をなすりつけてしまおうとする悪辣な考えは無数の泡のように浮かんでくる。考えるのを止めようとしても止められなかった。

ふと、足元の剣に目がいった。スフグリムの血で汚れた剣が、鈍く輝いている。放ったままの剣を取ろうとして、手を止めた。拾おうとした手が震えていた。震えながら剣を握る。重かった。とても、重かった。鈍色の刀身が顔を映した。生々しい赤茶色の錆びのようなものと一緒に映っていた。不快そうに顔をしかめ、刀身を草で拭う。神経質なまでに何度も。何度も。何度も。こびりつき、乾いてしまった血が草葉に擦れてぱらぱらと落ちていく。


(拭えば綺麗になるかと思ったが)

 

 かつて銀色だった刃は、草の汁と血の混ざりもので濁り汚れていた。


(まるで自分のようだ)


 人を殺す前の何も知らなかった頃の自分が鋭い輝きを放つ刃だったとしたら、今の自分はこの薄汚れた刃だ。洗おうが拭おうが、剣にこびり付いた罪は決して落ちない。綺麗になったとしても、自分が殺したという事実は

 

(汚い)


 生きている限りずっと、この汚れを背負い続けなくてはいけないのか。


(イスマイーラが今の俺を見たら、どう思うだろう)


 軽蔑するだろうか。嫌悪するだろうか。

 決して良い感情を抱かれないのは分かっている。


(あいつの思う通り、俺は何も知らなかった。愚か者だ。それに身分証明の書簡と金、そして少量の携帯食料とボラクまで失ったとくれば幻滅されるに違いない)


 草原を長いことみつめていたかと思うと、やがて大きな溜息をつき、のそりと動き出した。土塀に大きな隙間を見つけ、その隙間の中に身を滑らせ、ぽつりと呟いた。


「……あいつと会うのが、嫌だなあ」


 いっそ、イスマイーラなど放って逃げてしまおうか。思い至った閃きに首を振る。出来ない。いや、したくない。やることを全部放棄してまで逃げたら、もっと後悔するに違いない。それに、逃げるあてもない。城から出たことが無いから、一人で生きてゆくのも出来ない。

もう一度長い溜息をつくと、外を伺った。瓦礫の隙間から見える景色に、夜の帳がおり始めていた。



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