忍び寄る足音
冷たい手が、ゆっくりと額を撫でていた。母親が子を慈しむ時のような手つきなものだから、誰かもわからないのにほっとした。もっと続けて欲しいと思うほどに、その手は慈愛に満ちていた。ルークは額を撫でられながら、手の感触をもう少しだけ
出来なかった。右足がじくじくと痛むせいで、心地よさは次第に苦痛へと
「具合はいかがですか」
ぱっと、目覚めた。呆然としている間に優しげな面差しは無表情へと変わる。怪我人の看病には一番似つかわしくないと思っていた姿がそこに在った。アズライトは掴まれていた手を丁寧に剥ぎ取ると、無表情そのものの顔で淡々と告げた。
「怪我の処置は済んでいます。額の傷は塞がりかかっていますから、直ぐによくなるでしょう。ただ、右足の傷は少し深いようですから、回復には時間がかかるかもしれません……痛みますか?」
硬直したままアズライトを見上げ、やがて「そうか」と呟く。あまりにも衝撃が強過ぎて、現実を理解するのに時間がかかっていた。
「……ウィゼルとイスマイーラは?」
「無事です。アリーも、ラビも」
「怪我は、していなかっただろうか」
「擦り傷と軽い火傷のみで、他は問題ありません。ウィゼルに関しても問題なく。肩の傷も塞がっています」
流石は
「無茶はして欲しくなかったんだがな……」
しかし、ウィゼルは納得できなかったらしい。
(そういえば大人しく隠れているような性格じゃなかったな、あいつは)
やめろと言われても納得するまで行動するような女だ。そのせいで、ウィゼルは怪我を押してまでルークを追いかけてきた。さして強くもない自分を助けるために。
天幕の天井を眺めながら、ルークはふと、あることに気付いた。
そして、疑問が起こる。あれから何日が経ち、イスハークの人々はどうなったのか。何故、自身が知らない天幕に横たわっているのか。横になっている
「イスハークの皆さんには、周辺の状況が分かり次第荷物をまとめて、直ちに硝子谷まで避難してください」
ハリルだった。隣の部屋で誰かと話をしているらしい。静かに耳を澄ましていると、アリーの低く、固い声がぼそぼそと聞こえはじめた。
「葬儀もまだ終わってないのにかい?」
アリーの声に、ハリルが頷く気配がする。緊張を孕んだ空気に、聞いていたルークの方も身体が強張ってゆくのを感じていた。
「急ぐのは分るよ。でもせめてあの子らを
「一刻を争います。葬儀ならば、俺達が」
「他人にやって貰っても意味が無いんだよ。そんなんじゃ、あたしらも、あの子らも心が定まらなくなっちまう。葬儀ってのは、死者だけのためにあるもんじゃないんだよ」
「気持ちは分かります。俺達だって出来るだけ待ってやりたいとも思っています。けど、時間が無いんです。国境付近にいるはずの俺達が北カムールの東部に居る理由を考えれば分かるはずです。それに……親父殿はとうに硝子谷へ出立しているんですよ」
「ちょっと待っとくれ!」
慌てるように、アリーがハリルの言葉を遮った。
「ニザルが硝子谷へ出立するのは、次の満月のはずだろう。なんでもう出立しているんだい!?」
「こっちには
アリーの声に混じって、キーアの声が聞こえた。怒鳴り出しそうなのを堪え、声を潜めて早口でまくし立てている。
「自分達だけ避難するのが北の連中のやり方か!?」
「落ち着いてください……いや、怒りだしたくなるのも分かります。俺だって親父殿には言いたいことが山ほどある。でも、本人のいない場所で言い争っても喧嘩にしかならないでしょう。どうか、座り直して。まず状況を確認したうえで適切に行動しなくちゃならない。違います?」
「……間違っちゃいないけどね、気分は悪いままだよ」
不機嫌そうなアリーの溜息に、ハリルが言いよどむように再開した。
「ここからは俺も推測しかできませんが……出立の時期を早めたのは、俺達が不利であるという状況を悟ったからなのではと思うんです」
「待っていたらこっちがやられるから、やられる前にさっさと逃げちまおうってかい?」
「こちらに避難してきた皆さんの混乱を抑えるために、親父殿はわざと
「ふざけるんじゃないよ!」
殴りかからんばかりの勢いでまくし立てるアリーに、誰もが息を止めた。
「耳聞こえのいい言葉で誤魔化しても無駄だよ。あたしらを矢避けの盾代わりにしたって事実は、変わらないんだよ!?」
「とにかく落ち着いて最後まで話を聞いてくれませんか。さっきから説明してるってのに、ああ言えばこう言うんだから、話し合いにもならない」
「だったら、もうちょっと言葉を選んどくれ。さっきからあんたの言葉は、あたしらの神経を逆撫ですることばっかりなんだ!」
誰にとっても耳触りの良い言葉ではなかった。それでもあえてハリルが真実を伝えたのは、聞こえの良い嘘を吐くよりも真実ありのままを伝える方がよいと判断したからだろう。受ける衝撃は大きいが、先に知ってしまった方が傷は浅く済む。そう判断したはずのハリルは、ぴりぴりとした雰囲気に耐え切れずに黙りこんだ。
「……ところで、襲撃してきた連中の正体は判明しているのですか。偵察支援隊と名乗っていましたが?」
イスマイーラの声がした。普段よりもゆっくりとした話し方で、はっきりと発音する。しかし、彼の中にも微かな強張りがあるのを、ルークは聞き逃さなかった。
「うちのを二名ほど追跡に向かわせていますが、報告を待つまでもなく確定でしょう」
「にしちゃあ、随分あっさり引き下がったな」
キーアに同意するように、アリーが頷く気配がする。みな、それぞれが最悪の想像をしているに違いない雰囲気の中で、言った。
「連中が、意義を失ったからだ」
何故?
はいつくばったまま部屋の間仕切りから上半身だけを覗かせたルークは、自らに集まった視線の一切を無視したまま続けた。
「連中の目的が本当に
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