砂の戦場

 その頃アル・カマル皇国とアル・リド王国の国境では、まさに戦が始まろうとしていた。見渡す限りの蒼穹。見事なまでの快晴。その下には、アル・カマル皇国とアル・リド王国を南北で隔てるカムールの砂漠がある。カマル語で古の栄光と名付けられた砂漠は、太古の昔ここにカッシート連合王国の王都があったことを意味していた。


「見事に、なにもない」


 まばらに生えた枯れ草を踏みしめ、サルマンは前方に広がる砂漠へ、嘲罵の笑みを浮かべた。無駄の無い精悍せいかんで頑強な身体。そこから伸びる両腕と両足は、筋肉でこぶのように盛り上がり、鎖で編まれた鎧の上からでも筋肉がはっきりと見てとれる。加齢と共に渋みを増した面立ちには、鼻面から頬にかけての大きな傷跡が生々しい。その傷跡は、彼が幾多の戦場を経験した英傑なのだと物語っていた。


 この壮年の男性こそアル・リド王国第一王子であり、アル・リド王国軍総大将サルマンである。


 砂漠の彼方を望み、ザハグリムの白亜の城へ想いを馳せながら、サルマンは冴えない表情で目を逸らした。アル・カマル皇国は遺跡と鉄女神マルドゥークという取り柄以外、何もない。大昔はカッシート連合王国としてアル・リド王国とアル・カマル皇国は一つの国として存在し、栄華を極めていたこともあった。燦然と輝く白銀の王城。砂漠化していなかった頃は緑に囲まれ、四方よもを大河に囲まれて。豊かな富と資源に恵まれ、それはそれは、素晴らしい国だったらしい。カッシート連合王国が亡びてから二千年以上の月日が流れ、かつての栄華は砂と風塵の中に消えてしまった。いまや昔の物語である。


(カッシート連合王国の正統をうたうアル・カマル皇国は、遺跡という過去の栄光へ今でもすがりついている)


 そんな隣国を、サルマンは内心で侮蔑していた。かつての栄光と、恐怖の代名詞であった鉄女神マルドゥークを外交に持ち出し、国としての体裁を保っている。の老衰した国家。だというのに、みなが二千年以上も昔に眠りについた鉄女神マルドゥークを未だに恐れているのが理解できなかった。というよりも、おかしいと思っていた。


 畏れを盾に外交を続けるアル・カマルの皇族達も。

 父、アル・リド国王ガリエヌスも。

 叔父であり、王弟でもあるロスタムも。

 その他周辺諸国の王族や首長共も。


(みな、どうにかしている)


 あんな二千年以上も昔の兵器を、どうしてみな恐れるのか。


「殿下、偵察兵からの報告が届いております」


 白髭を豊かにたくわえた恰幅のいい初老の男がサルマンの背後に控えていた。アル・リド王国軍参謀長兼、将軍ダリウスだ。岩塊を思わせる厳つい顔立ちに、丸く愛らしい灰色の瞳が点のようにのっかっている。腕や足、腹にいたっては丸太のように太い。まるで丸岩が服を着たような風貌の彼は、いまや腹に分厚い毛皮を何重にも巻き付け、鎖を編んだ軽鎧で身を包んでいる。腹帯に短剣ジャンビーアをぶちこみ、腰には分厚い肉切り包丁と柄の短い長剣。背中には丸盾と長槍を差していた。完全なる武装である。歩く要塞のような姿をしたダリウスだが、武人ではなくアル・リド王家と古くから付き合いのある貴族だった。

その彼とサルマンは、幼少の頃からダリウスを爺と呼ぶ仲でもある。


「ここより北方の砂漠地帯にて、アル・カマル皇国軍と思われる兵力が集結しつつあり、と」


「規模は」


 つまらなさそうに応じたサルマンへ、ダリウスは依然、厳しい面持ちで応じた。


「千五百ほど、いずれも遊牧民ベドウィンです」


 聞いた瞬間、アル・カマル皇国側に舐められているのかとサルマンは思ったが、直ぐにこれを否定し、嘲った。


「興が乗らないと言いたげですな」


 ダリウスの厳つい顔面に、苦笑いが広がった。


「当たり前だ。わざわざ何日もかけてここまで足を運んだがない」


「少なくとも、我々の士気は上がります」


 厳つい顔がくしゃりと歪んだ。ダリウスの心からの笑みだった。


「増援部隊と一緒に遅参して後方で指示するのは性に合わん。それに将と王侯は常に先陣に立ち、道を示すものである。前に、爺が言った言葉だぞ」


「初陣の時にお教えしました。よく覚えておいでだ」


 サルマンが朗らかに頬を緩ませ、続くダリウスの言葉に表情を引き締めた。


「アル・カマル皇国側の対応は、まあまあ早い方です。先に偵察を行うという時点で、まだ半信半疑なところもあるのでしょうが。しかし砂上での戦闘は少々心配が残りますな。我らは平原の民。対してあちらは砂漠の民。厳しい戦いになるでしょう」


「想定しているからこそ、砂上戦闘が得意な歩兵に長槍を渡し、騎兵と弓兵を遊牧民ベドウィンの戦士共にした」


 問題は無いとサルマンが自信ありげに鼻を鳴らした。


「それにあと二月ふたつきもすれば増援が投石機を持ってやってくる。喜べ、焔硝弾ナフトのおまけつきだ」


 焔硝弾ナフトとは、陶器の容器に焔硝という可燃性の薬と樹脂を詰め込み、導火線の縄に火をつけて投げる擲弾てきだんという兵器の一つである。その焔硝の別名は、火薬であった。


「ならば多くの油紙が要りますな」


 後方に追加支援を要求しなければならないかもしれないと、ダリウスが鼻を掻く。彼が思案している時の癖だった。


最悪焔硝弾ナフトは使えなくても構わん。どうせ大量に配備できんだろう」


 あれば楽だがと、サルマンは付け加えた。それでも、焔硝弾ナフトの不足を補って余りある兵がいる。

 

「数は力だ。策を練って奇襲などしなくても、数さえ上回れば眠りながらでもひねり潰せる」


「宜しかったのですか、殿下」


「妃になったかもしれん女の事か?」


 応えの代わりに、ダリウスが無言で返した。その通りだと、ダリウスの丸く愛らしい目が語っていた。


「俺が女々しい理由で挙兵などするような男ではないと、知っているはずだが」


 サルマンが眉の間を微かに曇らせる。ダリウスが自身の心情を慮っているのは分かっていたが、素直に受け取るにはサルマンは歳をとり過ぎていた。


「……しかし、個人的に好いていたのは事実だ。あれほど美しく聡明な女はそういない」


 イブティサームは愛らしい女だった。豊かに波打つ黒々とした髪に、知性の高さを思わせる涼やかな目元。抱けば折れてしまいそうなほど細い身体。そこにまろみを帯びた豊かさが絶妙な具合で合わさり、一つの芸術を形作っていた。まるで、黒曜石の彫刻を想起させるような女であった。優れていたのは美貌だけではない。多種多様な知識と多才を併せ持っていた。その黒曜の美姫は、今は亡い。


 サルマンはイブティサームを心の底から愛していた。だからこそ彼女の死を嘆いた。身の不幸を呪い、自身の行いがもたらした罰でもあると思った。しかし慟哭の涙を流していたサルマンの脳裏に、別の考えが頭をもたげるようになった。


(エル・ヴィエーラに対抗する、が訪れた)


 そう考えた当初、サルマンは我が身を疑った。愛する女の死を利用するなど、馬鹿げていると。しかし、こうも思った。


 彼女を愛する心に、は無かったか?


 サルマンは否定できなかった。やがて第二皇子ルシュディアークの身柄と引き換えに、アル・カマル皇国と同盟を組むという話がサルマンの耳に入った瞬間、彼の心は決まった。


(アル・カマル皇国と同盟を組むのであればいっそ、飲み込んでしまえ。過去の栄華と恐怖の代名詞でもある鉄女神マルドゥークと共に)


 第二皇子ルシュディアークのことは、心の底からどうでもよかった。

アル・カマル皇国への答えはすぐに出た。サルマンは父王ガリエヌスに進言。叔父のロスタムを説得し、議会と軍部、外務に根回しをし、将軍ダリウスを参謀に据え、軍を率いて国境へ赴いた。アル・カマル皇国への返答のつもりだった。


「姫君の故国を滅ぼすのです。イダーフ様のお話、飲んでおられた方が良かったのでは」


「イダーフは油断がならん奴だ。喜んで同盟など組めばこちらが後々酷い目に遭う。やつが諦めて講和に踏み切ったところで我が国とする」


 言い切った後で、サルマンはふいに、面白いことを思いついたような顔つきをした。


(イダーフは気に入らないが、もしかしたら義兄弟となったかもしれない男だ。よしみで国の名と、身柄だけは生かしてやってもいいかもしれない。アル・リド王国領アル・カマル。まぁ、悪くはない。響きとしては好みじゃないが)


 サルマンにとってアル・カマル皇国を攻めるのはエル・ヴィエーラ聖王国に対抗するのと比べれば些細な問題だった。


「好いた女のことと、戦争をするか、しないかということは別だ。鉄女神マルドゥークなどというたわけた遺産もな」


「出してくるでしょうか」


「出さん。というか、出せん」


 サルマンには自信があった。イダーフは油断がならない男ではあるが、慎重さについては買っている。周辺国から非難を浴びるような真似は絶対にしないと踏んでいた。

背後の木立に控えていた同胞たち振り返り、サルマンは叫んだ。


「聞け、我らが同胞よ!」


 幼い頃より多くの人間の上に立ってきた者だけに可能な鋼のような硬さのある声を張り上げるサルマンを、五千に及ぶ兵士達が注視している。各々様々な表情をしていたが、みな共通して瞳の色だけは闘志に満ち満ちていた。


「我がアル・リド王国と国王ガリエヌスの威光を、ついにこの蛮族共の地にもしらしめるときがきた。永らくこの国は鉄女神マルドゥークなどというたわけたものを古代から崇拝し続けている。だが、それは二千年以上も眠り続けたまま目覚めたことなど一度もない。名ばかりの、ごみである。それを蛮族共はいまだに理解していない!」


 闘志と不安を内包した視線を一身に受け、サルマンはつづけた。


「同輩共が頭上に戴き、我らが貴き女神の名で呼んでいるものは神ではない。過去の亡霊によって形作られた偶像である!」


 兵士達の中に、どよめきが起こった。

主神の一柱を公然と批判しているようなものであったが、サルマンにとっては、どうでもよい事だった。鉄女神マルドゥークが偶像であろうがなかろうが、兵の士気さえ向上すれば良い。


「よって、我らはアル・リド王国の尖兵として、亡国カッシートの末裔として。そして、鉄の女神マルドゥークを信奉する敬虔なる信者として、道を違った同輩の目を覚まさせなければならない。これは同輩への義務である。ゆえに、正さねばならない。その存在が如何に無力であり、崇めるに足りぬ紛い物であるか。我々はこの地と同輩共を、アル・リド国王ガリエヌスの威光の下にたださねばならない!」


 空間は今にも破裂せんばかりの闘志で満ちていた。

 緩みそうになる頬を引き締め、サルマンは獣の咆哮のような声を張り上げた。


「然るに、これは征戦であり、大義のための聖戦ジ・ハードである。我らアル・リド王国軍は、これよりアル・カマル皇国のを開始する!」


 一同は地鳴りのような声でそれに応えた。

サルマンは笑みを浮かべ、彼らの覇気を賞し頷いてみせる。兵士達の声に心地良さを覚えながら、サルマンは砂漠の彼方を振り返った。





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