駱駝騎兵たち
アル・カマル皇国軍の偵察隊が国境で目にしたのは、荒地の彼方で蠢く山だった。無数の針を携えたその山は、一つ一つがアル・リド王国軍の歩兵だ。その歩兵は身の丈の倍もある長槍を両手で構え、小型の丸盾を首にかけて胴を守っている。一糸乱れぬ統制の彼らは、縦横十六列の集団を一組とし、それらが横一直線にずらりと並んでいた。歩兵による密集方陣だ。
この密集方陣の層は三列あった。最前列から二列目までを槍兵で固め、最後尾に槍を携えた槍兵と弓騎兵が控えている。列の左右は槍騎兵が、彼らを守るように囲んでいた。これらが総勢五千名が隊列を組んだまま、一斉に前進を開始しているのである。偵察に赴いた百名にも満たないアル・カマル皇国兵が、この隊列に泡を食ったのは当然だろう。
その報告を耳にし、呻く以外の言葉を無くしたのは、アル・カマル皇国軍将軍であり、カムール砂漠南部の領主でもあるアクタルだ。白髪の入り混じった豊かな髭を節くれだった指で撫でる。砂だらけの民族衣服の内側で、身につけていた鎖帷子が微かな音を立てた。彼の神経質そうな細面には、明らかな苦悩が浮かんでいる。
「あのサルマン王子と対峙する。その栄誉を噛みしめましょう」
「カムール北部領主ニザルの子、ハリル。
砂埃だらけの覆面を取り去り、笑みを浮かべてみせた彼の面相は、凄まじい。
「貴方と肩を並べて共に戦う日が来るとは思ってもいなかった」
「カムール南部領主、将軍アクタルである。
片やハリルは朗らかな笑みを浮かべ、片やアクタルは苦笑を浮かべて握手を交わす。この二人、五年前まで仇敵同士だった。
アル・カマル皇国領に属するカムール砂漠は、大きく南北を分けて地方領主が存在している。南部を領地に構えるアル・カマル皇国軍将軍アクタル。彼はアル・リド王国側に面する領主で、
だというのに手を組んでいるのは、五年前の抗争時に二人へ、
「何年ぶりになるか」
「ざっと五年ぶりになります。父が、貴方と相当やり合ったじゃないですか。俺も貴方がたに右耳を斬り飛ばされましたがね」
視線を泳がせるアクタルへ、ハリルは少し冷めた表情でこう続けた。
「陛下が南北カムールの抗争を納めてくれた際のこと、もう覚えていませんかね。幼い第二皇子もいらして、皇子をこんな場所に連れてくるなと貴方が陛下相手に怒鳴ってらした。あの時、初めてほんの少し貴方の事を見直しました」
「歳をとるといかんな、どうにも記憶が曖昧になっていけない……父君は健勝か」
「元気です―――軽口を失礼しました」
途端に神妙な表情でハリルが口を閉ざした。アクタルの口元が僅かに痙攣したのを見たからだった。
「ダリウスが来ている」
「素晴らしい……やつら本気だ」
「さっきから軽口が過ぎる」
「言わせてください、震えで漏らしそうなんです」
アル・リド王国軍将軍ダリウス。アル・カマル皇国でも、その名を知らないものは居ない。武勇で名を
「しかし、おびき出す必要が無くなったのは幸いです。あちらから姿を現してくれた。しかもご丁寧にあれだけの隊列まで組んで」
ハリルが彼方に見え隠れする黒々とした山へ、不愉快げに目を細めた。総勢五千名に及ぶ針山が、土埃を立てて冷たく耳障りな旋律を奏でている。
「平原の民らしいやり方だ」
アクタルが向かってくるアル・リド王国軍を眺め、全く動揺もせず静かに言い放った。その様をみて、ハリルは目をみはった。無数の歩兵と騎馬で作られた針の山を前にしているというのに、彼の口元は笑みの形すら刻んでいるのだから。
「若造、準備は出来ているな」
「もちろん。南北カムールの
「念のため重ねるが、我々の目的は勝利ではない。硝子谷にアル・カマル皇国軍が集まるまでの時間稼ぎだ」
可能ならば戦力も削ぐというアクタルの囁きに、ハリルは表情を厳しいものに変えた。
「保ちますかね」
我々は生き残れるだろうか。そういう響きを含んだ声に、アクタルもまた厳しい面持ちで応えた。
「保たさなければならん。我らにアル・カマル皇国
砂塵の中で、アル・リド王国軍総大将サルマンと、南北カムール部隊の長、将軍アクタルの蛮声が重なった。
「「
かくして繰り広げられた戦場は、乱れに乱れていた。
初めに南北カムール部隊が浴びたのは、一千名にも及ぶ弓兵の矢。空を黒く染めつくすほどの鉄の雨が降り注ぐやいなや、
弓兵同士による応酬が開始される中、アル・リド王国軍の騎兵が動いた。歩兵たちの両脇から弾かれたように騎兵が飛び出す。その彼らを援護するように、歩兵もまた突撃してくるカムールの
後列に配された歩兵たちは弓矢を槍で叩き落しながら、自らの盾をがんがん叩いている。その音に怯んだ
あちらこちらで聞こえてくる金属の雑音が、全ての声をさらってしまっていた。
その中で、ハリルは大いに後悔していた。
”あっちは馬で、こっちは
なんてアクタルへ軽口を言ったはいいものの、馬の足は
冷汗をかきながら、ハリルは襲いかかってくる騎兵の馬を射抜き、その足でまとわりついてくる歩兵を避けてゆく。恐怖に染まりきった表情を浮かべるハリルの足元には、名も知らない騎兵の
アル・リド王国軍の密集方陣は、読んで字のごとく、多くの兵士が集団を組み正方形の陣形を組む隊列の一つだ。正方形の各辺を横隊が成し、兵士は側面を除き外側を向いているため、死角というものが少ない。敵兵に対して、常に顔を向けている状態であるがために、お互いに背を守りながら、何かしらの攻撃を行えるようになっている。攻防に活用できる応用の利く陣形でもあった。
しかし、それでも弱点はある。兵士の密集度をあげるほど、前面への攻撃力があがるため、突破力はあるが方向転換や横への移動は困難となる。機動性のある敵に翻弄された場合、密集方陣の弱点である側面が顔を出してしまう為、陣の外側に機動力のある騎兵と、弓兵を配置する。
ハリルとアクタルは、そこに目をつけた。
一撃離脱。側面を守る騎兵を減らすため、一定距離を保ったまま突撃と後退を繰り返す。側面を守る騎兵と弓兵が少なくなったところで、改めて側面からの打撃を開始する。ハリルとアクタルが、あらかじめ決めていた事だった。かくして次々につくられてゆく屍と怪我人の山の中で、南北のカムール部隊は予定していた行動を開始した。
「歩兵は無視、騎兵と弓兵の馬を潰せ!」
ハリルが叫んだ瞬間、隣にいたカムールの戦士が
ハリルは
「よそ見すんな、死ぬぞ」
ハリルが怖々と目を開くと、槍を構えていた騎兵の身体が馬の背から転げ落ちていた。その胸には矢が深々と突き刺さっている。騎兵を倒したばかりの男が弓をかまえ、ハリルに「さっさと行け」と言った。
その彼が何者かであるか思い出した瞬間、ハリルの表情には驚きが広がっていた。名前を知らないが、顔は覚えている。五年前の抗争時に、ハリルの耳を斬り飛ばした奴だった。
(縁とは不思議なものだ)
昔はお互いに敵同士だったというのに、いまでは互いに背を預け、人馬と
口を奇妙な形に歪めたハリルを男は奇妙なものでも見るかのように一瞥し、やがて屍の山が形成されつつある戦場の中へ帰っていった。
顔面に闘志と恐怖を混在させて戦場を駆けるハリルに対し、アクタルは実に泰然自若としたものだ。彼は既に二十にもおよぶ騎馬を瞬く間に倒していた。
自らも身体を汚しながら、自らの率いる仲間達への指示も忘れていない。そのおかげで彼の部隊は統制が取れていた。
屍と怪我人の山を築きながらようやく側面に到達したアクタルと、彼に続くカムールの騎兵が一斉に矢を放つ。それを、歩兵たちが槍を振り回して叩き落してゆく。放った矢の半数が叩き落され、アクタルが僅かに眉をつり上げた。思うように騎兵と弓兵を倒せない自らの仲間達を一瞥し、苛立たしげに溜息を吐いた。
(荷が勝ちすぎている。少し早いが、騎射しながら後退したほうが良いかもしれない)
後方へ一瞥をくれたアクタルが、顔色を変えた。
他の騎兵よりも鮮やかな手つきでカムールの
体中を朱に染め、馬上から槍を振るう筋骨たくましい壮年の男。その顔面は、恐怖というよりも闘志に満ちた輝きを刻んでいる。
一人の男の名を思いうかべ、アクタルは背筋を震わせた。泡を食った様子のアクタルが口を開いた瞬間、その口から血を吐き出した。
アクタルに追いついたハリルが、その様を双眸におさめ、声にならない悲鳴を漏らした。ひしめき合う人馬の中から垣間見える赤々とした槍の穂先。その槍を掴む丸岩のような大男。顔が分からずとも、その特徴的な容貌は一人の男の名を思い出させるには十分なもの。
将軍ダリウス。赤々とした穂先を構え、後から蛮声をあげてやって来るカムールの
ハリルの脳裏に、撤退と転進の文字が浮かんだ。
間断なくやって来るアル・リドの騎兵と歩兵の槍をかわし、弓を射る。彼らが絶命する瞬間、ハリルは状況を確認するように戦場を見渡した。
アル・リド王国軍も、アル・カマル皇国の南北カムール部隊も、乱れに乱れている。特にアクタルを失った南カムールの部隊の混乱は激しい。
隊列は乱れ、騎兵と弓兵との混戦状態に陥っている。あらかじめ削ろうとしていたアル・リド王国軍の騎兵と弓兵は半数以上が健在。隊列を保ったまま混乱する南カムール部隊の退路を塞ぐため囲いを形成しつつあった。
ハリルが渋面を作る。アクタルの亡骸を視界に留め、やがてこの世の全てを呪うような声で叫んだ。
「転進開始、我に続け!」
継戦の号令を発したハリルは、自身に続く数多の蛮声を耳にしながら、双肩にのしかかった重みへ顔を歪ませた。
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