つかの間の休息 湯煙の中で
アサドが食堂の店主に頼み込んでくれたおかげで、ウィゼルはその日、宿探しに奔走されずに済んだ。気のいい店主があてがってくれた部屋は食堂の真上にある屋根裏だった。元は給仕が使っていた部屋だったけれど、その給仕が辞めてからは物置部屋になっているらしかった。食堂と厨房をつなぐ狭い廊下の間にある階段を上り、小さな木の扉を開くと、薄暗い倉庫のような部屋があった。ウィゼルと一緒に上がってきたカミラが部屋の奥に入り、小窓にはめ込んでいた板を取り外す。暖かな日差しが、部屋の中を照らした。
「寝台の準備をするから、そこで待っていて。あ、その間に汚れた衣服を出してちょうだい。後で洗ってあげる」
カミラは木の板を窓の下に置くと、部屋の隅に積み上げられていた木箱を手際よく降ろし始めた。横に並べた木箱の上に、持ってきた羊毛の毛布を敷いた。深い緑色の地に、黄色の花々が刺繍されてある。その上に更に厚めの毛布を敷いて、ぴんと、しわを伸ばした。
「アルルは店の裏に繋いでおいたけど、随分と大人しいんだね」
カミラが近づいても
「ザハグリムに来た時に生肉を沢山与えてあげたからね。今は馬よりも大人しいわよ」
それなら当分暴れないねと、カミラが笑った。
「今日はアサドがアルルの世話をするから、ウィゼルはゆっくり休んで。そうだ、店の隣に
「いいけど、仕事はもういいの?」
「うん。店の親父さんがね、今日はもう良いからウィゼルのお世話をしてあげてって。
「そこまでしてくれなくていいのに」
「何言ってるの。ウィゼルには助けてもらった恩があるんだから、借りくらい返させてよ」
「ちょっと見ない間に言うようになったじゃない」
「これでもアサドと一緒に世間を歩いてきたんだもの。色んな場所に行って、色んな仕事をしてきたのよ。給仕でしょ。
「はいはい、お手柔らかにね」
(カミラはこんなに表情豊かな子だったっけ)
前にウィゼルがカミラと出会ったときは、迷子になってしまったような表情をした子だったのに、いまはころころと
「……ところでカミラにお願いがあるんだけど」
「お願い?」
「抜糸をしてほしいの。カムールに行ったときに怪我をしちゃって、すぐに
それはアルルが
「前の方は自分で出来たんだけど、背中側はどうしても手が届かなくって困ってたの」
「いいよ。
そういって、汚れた衣服を受け取ったカミラは、足早に部屋を出て行った。その間、ウィゼルも軽く荷物をまとめ、
「痛くしちゃったらごめんね」
心配顔のカミラへ、ウィゼルは朗らかな声で「大丈夫よ」と言い、寝台の上に座った。すぐ後ろに、カミラも座る気配がした。ウィゼルは
「これ、ひょっとして噛み痕?」
「……ちょっと色々あったのよ。ねえ、取れそう?」
何かを言おうとする気配を感じながら、ウィゼルはまくしたてるように訊ねた。
「怪我の状態もどうかな。薬草を塗りこんだり、水で洗ったりしていたんだけど、酷くなっていない?」
「うん、大丈夫。傷口はきちんと塞がってるし、膿んでもいないよ。糸も肌にくっついていないし、抜きやすいように縫ってあるから、これなら簡単に取れると思う」
そういって、遠慮がちに傷跡に触れる。
「じゃあ、切るね」
背中を伝う指のこそばゆさを感じながら、ウィゼルはカミラに身を任せた。
「ねえ、傷を診てくれた人って、医術師?」
「ううん、ただの剣士よ」
「へぇ、なるほどね」
「剣士って、医術師の真似事なんか出来るの?」
「出来るよ。剣士は荒事が
そういって、糸を抜き終わった後の背中を軽く拭ってくれた。
「痛いところはない?」
「うん、さっぱりしたわ」
「じゃあ、
そう言うと、カミラは大慌てで
衣服を改めて階段を降りると、カミラが待ちかねたように廊下を歩きだした。厨房の脇を通り勝手口から外へ出る。狭い道の真ん中で絵図を描きながら遊んでいる子供の脇を通り抜けると、足を止めた。
「ここがいつも使っている
石造りのこじんまりとした店だった。
「おや、今日は早いねえ。お休みかい?」
「うん。どう、
「今日は、あんたらが最初だ」
にっこりと笑んだ女主人へ、カミラは慣れた調子で二人分の金を渡す。
湯殿に続く部屋は二つに分かれていて、それぞれに男女の別の絵図が書かれた垂れ幕が入口にかかっていた。女の姿が描かれた方の垂幕を持ち上げると、中は脱衣所になっていた。石造りの部屋で、衣服を入れるための
「誰も居ないから、今日は貸し切りだね」
笑いながらカミラが奥から真新しい手拭いと桶を二つ取ると、ウィゼルに手渡した。
「脱いだ衣服はひとまとめにして
神妙な顔で馬の絵の描かれた木札を渡すと、別に持ってきた小さな
中はまるで白い
「寝ないでよ」
「寝ないわよ」
といっても眠くなるのはどうしようもない。やってくる睡魔に抗うように湯で満たされた手桶に海綿と石鹸を湿らせて泡立てる。その泡で身体を洗うのだけど、そのたびに欠伸ならず溜息まで出てしまう。
「しょうがないなあ。背中と頭は洗ってあげる」
ぼうっとしながら頷くウィゼルの背中を、カミラは洗い始めた。もっちりとした泡と暖かな湯で湿らされた海綿がウィゼルの背中を優しく撫でる。まるで親に背中をさすられているような気分だった。
「カミラはいつもここに来ているの?」
「うん。仕事が終わると、店の
「気持ちよかったでしょ」
「うん。すぐに癖になっちゃった。私、
微睡んでいたウィゼルの瞳が、微かな驚きに彩られ、直ぐに消えた。
「流民だからさ……その辺の川で水浴びするくらいで、お湯を浴びて
カミラの嬉しげな声が湯殿に響く。
「……あんまりにもここに通うもんだから、女将さんに、うちの子になりなよなんて言われちゃった」
「カミラはどうしたいの?」
ふっと漏れた言葉に、一瞬、背中を洗う手が止まった。
「……それもいいかなあって。両親はいないし、アサドがいなくなったら私一人で生きてゆかなくちゃいけないでしょ。そしたら流民のまま今日一日を必死で食べ物を探しながら生活するよりも、こうしてあったかいお風呂に入って、美味しいご飯を食べて、屋根のある場所で寝る生活のほうが良いかなって」
「じゃあ、心は決まってるんだ」
カミラがくすぐったげに笑った。
「そのうち、食堂の親父さんと、
「泣かないと思うけど、心配するかもね。しょっちゅうカミラの顔を見に来るかも」
カミラが、困ったように笑った。
「じゃあ、あんまり心配かけないようにしなくっちゃ」
言って、ふと、口を閉ざした。突然の沈黙に、ウィゼルは顔だけ後ろへ向けた。少しだけ陰りのある表情のカミラと目が合った。
「どうしたの、そんな暗い表情なんかして」
「うん。ちょっと心残りっていうか、心配っていうか。顔を見ておきたいっていうか」
「ルークのこと?」
「……ううん、ファドルのこと」
「ファドル?」
「ザハグリムでお世話になった人の子供。私より年上のお兄さんで、ルークと雰囲気が似てるの。賢くて、しっかりしてて、凄く優しいんだ。最近まで一緒に居たんだけど、居なくなっちゃった。お母さんが居なくなったから、きっと今は独りぼっちでいるんだと思う。だから、ファドルを見つけたら一緒に暮らそうって言おうと思ってたの。今までお世話になった分、今度は私がファドルをお世話してあげるんだ。そしたら、もう独りぼっちで寂しい思いをしなくていいでしょう?」
「ふーん、一緒に暮らしたいんだ」
背中をこする手が、止まった。暫くして、カミラの手が、ふるふると震え始めた。
「そ、そんな、そういうつもりじゃ……」
「お世話するんだから、そういう事じゃないの?」
「そうじゃないってば!」
叫んだ瞬間、湯しぶきが頭の上からかかった。カミラにお湯をかけられたのだと遅れて気づいた。
「なにすんのよ!」
「だってウィゼルが変なこと言うから!」
振り向いた時に見たカミラの顔は、真っ赤だった。湯気のせいとはまた違う。胸の内に秘めていた淡い思いを暴き立てられてしまったような顔つきをしていた。
「変な事なんて言ってないわよ」
そう、変な事なんて一つも言っていない。だというのに、カミラは真っ赤になったまま、
「もうっ、もうこの話はおしまい!」
「えー、もうちょっと聞きたいなぁ」
「おしまいなの!」
ばっしゃーんと、二度目のしぶきが顔にかかる。さっきまでの眠気はどこかへ消えてしまった。真っ赤になったカミラはさっさと湯船の中に入ってウィゼルを睨んでいる。これ以上何かを聞いたら噛みついてくれるみたいな顔つきで、ぶくぶくとお湯の中で文句を言っていた。
「そんなに照れることないじゃない」
なんて言ったら、睨まれた。途端に、カミラがばつの悪そうな顔を向けた。
「ねえ、ルークは?」
「……カムールにいるわ」
はっと、息を詰める気配がした。なんとなくカミラの目を見るのが辛くて顔を逸らした。
「文をね、あいつに託されたの。本当は今日中に届けたかったんだけど、追い返されちゃった。駄目ね、私。必死こいて頼まれた頼みごとすらできないなんて。それに、ねえ聞いた?この国、もうすぐ戦争が起こるのよ」
「うん、最近はその話で持ち切りだよ」
「そう、他人事じゃないの。他人事じゃないのに、皆呑気にしてるんだから呆れちゃうよね」
乾いた笑いが湯殿に響いた。
「……ねえ、カミラは兵士達に避難しろって言われたら、ちゃんと皆と一緒に逃げなさいよ」
背中に、
「ファドルだって逃げると思うの。たとえ今すぐ会えなくても逃げた先できっと探せるわ。だから間違っても立ち向かおうとはしないで」
今もカムールで戦っている彼の背中を想いながら、ウィゼルは髪についた泡を洗い流した。
「……ウィゼルも、他人事じゃないからね」
「どういう意味?」
「さっき、食堂で聞いちゃったの。アル・リド王国の先兵隊はもうカムールにいるんだって。ルークがカムールにいるってことは、つまり、戦争に巻き込まれているかもしれないんだよね」
いいや、巻き込まれているのではなく、渦中にいるんだ。そう言いたくてたまらなかったけれど、ウィゼルは
「ルークも逃げてると思う。だから、ウィゼルもちゃんと逃げるんだよ?」
さっきカミラに言った言葉を、そのままカミラに返された。不意を突かれて固まるウィゼルに、カミラは続けた。
「さっきカミラに言ってくれたことを返すのは失礼かもしれないけど、今のウィゼルの立場と、カミラの立場って似てるでしょ。カミラはファドルを心配してるし、ウィゼルはルークを心配してる。ね、同じ。だから、カミラもウィゼルに言おうと思ったの。だってカミラからしてみたら、ウィゼルの命も、ルークの命も大事だもん。二人が辛い思いをしているところなんて見たくない。だから、ウィゼルもちゃんと、逃げるんだよ? 逃げてからでも探せるんだから……ねえ、だから泣かないで」
そういわれた瞬間、我慢していた思いが溢れそうになった。
慌てて湯をかぶり、耐えた。衝動に任せて、全部話してしまいそうだったから。
「……そうね、どっちも、大事よね」
そのどっちも大事にすることが、なんて難しいのだろう。現実はルークの命を犠牲にすることを強いている。ウィゼルの「死んでほしくない」という気持ちを容赦なく踏みつぶしていく。ウィゼルの気持ちを知らないまま素通りしていく。
「ねえ、もしもよ。もしも、誰かの命を犠牲にしないと皆が助からないのだとしたら、カミラはどうする?」
「そんなの嫌。カミラは、誰の命も犠牲にしない方法を考える」
「どっちかしか選べないのよ。誰かの命を犠牲にするか。それとも、皆の命を犠牲にするか」
なんて意地悪なことを聞いているんだろうなんて他人事のように思いながら問いかける。答えはすぐに返ってきた。
「それでも、皆とウィゼルのいう誰かもどっちも助けられる方法を考える」
迷いのない言葉が湯殿に響いた。
「だって選べないもん」
あの時、ああしていれば。こうしていたら、きっと違った結果になったはず。そういう期待が上滑りして、心の奈落に落ちてゆく。堕ちた後は延々と、過去の自分を呪うんだ。そうなるのが嫌だったから、ルークに隣国へ行くのは諦めろと伝えた。逃げろとも言ったのに、ルークは結局諦めなかった。隣国にはいかなかったけど、逃げずに戦うことを選んでしまった。だから、諦めざるをえなかった。彼を、犠牲にするしかないんだと。
(だけど、どっちかだなんて、やっぱり無理よ)
どっちも大事だ。
自分の命も。
ルークの命も。
(ルークの命を犠牲にすることばかりを考えていたけれど、そうじゃない方法もあるだとしたら)
顔を上げたウィゼルに、カミラが不思議そう首を傾げた。
「どうしたの?」
「ううん。ありがとう、ちょっとだけ光が見えた気がする」
カミラのおかげでね。そういって、湯船に身体を浸した。
とろみのある湯は、ウィゼルの体を暖かく包み込んだ。心も、温かかった。
「おそようさん」
苦笑しながら「じゃあ、行くかね」と廊下を歩き始める。その後ろをウィゼルは荷物を抱えて追いかけた。
当サイトに掲載されている写真、イラスト、文章の著作権は早瀬史啓に帰属します。無断での複製・製造・使用を全面的に禁止します。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます