薄氷の交渉
「こっから先は昨日話し合った通りだ。いいな?」
いま、王城に架かる跳ね橋の前に立っている。アサドから、今度こそ強引なことはするなよと口酸っぱく言われて大人しくついてきたけれど、話によってはどうなるか分からない。ウィゼルは、ぎゅっと、
「上手くいくかな」
朝方に用心棒としての仕事を終えたばかりのアサドは、眠気を感じさせないほど冴えた顔つきで門を見やり、
「さーて、どうなるかな」
と、呟いた。ウィゼルは昨日の夜二人で話し合ったことを想い返しながら、跳ね橋を歩き始めた。
”坊主をカムールから連れ出すつったってよ、そりゃ良い提案だが、ちょいとばかり難しいぜ。なんたって五年前までいがみ合っていた南北カムールの
ルークを連れ出してしまえば、折角まとまっていた南北の
”かといって、そのまんまにしておくわけにもいけねえしな。戦争になった以上、どっちみちアル・カマル皇国側も軍を出すだろう。それになんだ、お前さんの預かった坊主の文というやつ。中身なんざ知らねえが、大方予想はつくぜ。察するに、そいつはアル・リド王国軍の仔細と、援軍の派遣要請が書かれているのじゃないかと思う。とくれば、文を渡さねえというわけにはいかねえ。”
”でも、文を渡せば今度はルークの身が危うくなるわ。”
”ああ、分かってる。分かったうえで文は渡しちまうんだ。坊主が援軍によって窮地に陥るのは避けられねえ。どっちみち俺達が黙っていてもことは起こる。坊主は魔族で、城から追われるほどの罪を背負っちまってるんだぜ。しかも
こいつはもう、覆しようのない状況なんだとアサドは声を潜めた。
”だから、全部分かってる上で文を渡す。イダーフ様がどう動くかは俺も分からねえが安心しな。今すぐ坊主をどうにかしようっていう状況にはならねえよ。”
”随分楽観的ね。”
”楽観じゃねえ、優先順位の問題だ。いいか、目の前に王国軍が迫ってきているんだぜ。身内同士で争って下手をこいたらそれこそ王国軍の思うつぼだろう。だから坊主の罪ってやつは一時的に棚上げして共闘しようとするはずだ。”
軍がルークに目を向けるのは、アル・リド王国軍を退けた後だと、アサドは言い指した。
”俺がお前さんに提案したいのは王国軍を退けた後のことでな。まあ、俺にいい案がある。”
そう言って、アサドは口角を歪ませた。
(結局、アサドのいう、いい案の
ウィゼルは隣を歩くアサドを横目で伺った。何かを決意した横顔があった。
「西守の長、ターリク様にお会いしたい」
昨日とは別の門兵に話しかけると、アサドはかしこまったように礼をした。
「カムールの件で、スフグリムのアサドが来たって言えばわかる」
天秤と鷹の意匠が施された木札を門兵に見せ、アルルの手綱を預けると、すんなりと城壁の内側に通してくれた。三重になった城壁の内側はとても広かった。何千人もの人々が入れるほどの広場には白い石が敷き詰められ、神殿を思わせる巨大な白柱が整然と並んでいる。柱を超えた先に、これまた大きな門があった。その横を回り込むように歩くと、今度は長い回廊に出た。白い大理石で造られた回廊の両脇には樹木と草花が植えられており、白一色の回廊に
「昔、よくここを通って城外に出たもんさ。ほら、あれが王城だ。でかすぎてこっちからじゃあ一部しか見えねえけど」
アサドが顔を向けたのは、巨大な白亜の宮殿だった。白く輝く
「内部に
アサドが顎で示した先に、王城の半分くらいの大きさの建物があった。屋根は王城と同じ
「西守の詰め所ってのは、城の端も端でな。それも王城よりもとびきり小さい」
「それでも十分立派よ。あんたって、実はすごかったのね」
「馬鹿いえ、今もすげえんだよ」
いつものような軽口なのに、アサドの表情は始終固い。ウィゼルには、それが気になった。
「やっぱり、古巣に顔を出すのは怖い?」
「なんで俺の古巣に恐怖を覚えなきゃならねえんだよ。でもまあ、こういうところだから、少しくらいは緊張するわな」
そういって、ん?と、アサドが足を止めた。
「あれ……?」
詰め所の脇から、ちらりと覗く影があった。こちらに背を向けて、王城の方へ歩いてゆく。どこかで見たような青い髪が、深い藍色の
「おい、どうしたよ?」
「なんでもないわよ」
「何でもねえわけねえだろ。あれお前の……」
「気のせいって言ってるでしょ。それ以上言ったら足踏むわよ!」
心臓が早鐘を打っている。二人は仲良く談笑しながら、王城の奥のほうへ消えていった。注意深く後姿を眺め、つんのめった。アサドが歩き出したのだ。
「いきなり歩かないでよ」
「お前さんがいつまでもしがみついてるもんだから邪魔で邪魔で……いててっ、つねるな!」
「邪魔して悪かったわね」
あれは見間違いだ。気のせい。そう、ここに彼がいるはずがないのだから。そう言い聞かせながら、文句を言いながら歩くアサドの後ろを、追った。
兵士に通された場所は殺風景な白い部屋だった。回廊にあったような装飾は無く、ただただ、白い石を磨き上げただけの壁が四方にある。床は漆黒の大理石。その上に青い
「ターリク様、例の方をお呼びいたしました」
机の向こう側に座る男が
「どうぞ、いきなりでしたので、座る場所をご用意できませんでしたが」
「いいさ、俺とお前さんの仲じゃねえか」
懐かしそうなアサドの声に反比例するような感情の薄い声で、
「相変わらずのご様子ですね」
と、冷たい目つきで微笑んだ。
「案内ご苦労でした。貴方は下がっていなさい」
部屋の入り口で成り行きを見守っていた守衛が礼をして去ると、それを見届けていたターリクが先に口を開いた。
「ざっと十数年ぶりでしたか。お変わりなさそうで安心しました。それで、例の件を引き受けてくださるのでしょうか」
「おう、ずっと悩んでたんだが、やっと決心がついたよ」
「決心って?」
おう。と、笑ったアサドは、一度もウィゼルを振り返らず、
「今日からまた世話になるぜ、西守の長さんよ」
冷徹そうな面立ちの男が、口元を緩めた。相変わらず目は笑っていない。
「では、こちらの木札をお持ちください」
天秤を咥えたルフ鳥の意匠が施された銀色の札を手渡した。アサドはそれを布で包み込むように受け取ると、そのまま布にくるんで懐にしまい込んだ。
「第二皇子の追討令、出てんだろ」
「ええ。ですが貴方に求めるのは、第二皇子の現状を報告していただくこと。それから、我が国に叛意を示した場合、秘密裏に処理することだけです」
うんうんと頷くアサドの隣で、ウィゼルが顔を青くした。どういうことと無言で訴えるウィゼルを、アサドは眉一つ動かすことなく見下ろし、ターリクへ視線を戻した。
「魔族ってんだから、発見次第ぶっ殺すのが決まりだったように思うがね?」
「カムールの国境沿いではすでにアル・リド王国軍と、カムールの遊牧騎馬兵が衝突しているとのこと。そこに殿下がいるとなれば、カムールの遊牧騎馬兵たちにとっての旗印となっている可能性が高い。もし旗印となっている場合、殿下を無理やり除けば大きな混乱が引き起こされてしまうでしょう」
「殿下が叛意すら抱かなきゃあ、有用だもんな。皇族が前線で兵を率いてるってのは。で、その後はどうすりゃいい。まさか魔族を連れ戻すってわけにもいかねえんじゃないのか」
「そのまさかです」
アサドの眼に、光が射した。待っていたんだ、その言葉を。このときになってようやく、ウィゼルはアサドが何の言葉を待っていたのかに気付いた。はっと見上げると、アサドはにこりともせずに続けた。
「ほう、随分なことじゃねえか。俺はてっきり、用が済んだら暗殺と見せかけて殺しちまうのかと思ってたぜ」
「状況が状況ですので」
静かな声が、恐ろしい。何がと言われると、明確には答えられないのだけれど。すっと、ターリクがウィゼルに顔を向けた。
「彼女は?」
「俺の昔馴染みだ」
「可愛い昔馴染みがいたものですね」
「はっはっは。だろう。でも見てくれで分かるだろうがこいつはエルフだ。中身はン十年の婆さ―――痛ってえなもう! 腕をつねるなっての!」
「歳の話は余計よ」
「へいへい……っとまあ、こういう奴なんだわ」
「こいつは
挑むような視線と、敵を見るような眼差しがまじりあう。
「こいつは火急の文だ。事情はあらかた聞いている。イダーフ様への言伝を頼みたい」
「仕事の範疇外を頼んできますか」
「今が借りの返し時だぜ?」
睨み合い、やがて、ターリクが長い溜息を吐いた。
「ついでに手前の配下のスフグリムを三人貸してくれ。そうだな、ムルグ・アーダーミ―みたいな
「図々しいですね、何をするつもりです?」
「連絡役だよ。硝子谷にもムルグ・イ・アーダーミがいるだろ。手前の子飼いの魔族がよ。そいつと連絡を取りてえのさ。徒歩じゃあ手遅れだ。なんせ現地まで最短で三カ月はかかるから、馬じゃあ無理だって事で、ボラクをくれ。一頭くらい持ってんだろう」
「ちょっと、アサド、それって……!」
ターリクの眉が僅かに動いた。眉間には
「難しいことを簡単に仰らないでいただきたいものですね」
「分かってるさ。分かってるからこそお前さんに話をしたんだろうが。お前さんにとっても悪いことじゃねえ。ムルグ・イ・アーダーミ共の力を借りれば第二皇子の情報も早く手に入るし、現地の状況もすぐにわかる」
「その話、僕にも聞かせてもらえませんか」
はっと、息をつめた。ターリクが開け放たれた扉の方を驚いたような目つきでみつめている。振り向くと、小さな少年が青年と共にこちらを伺っていた。
「殿下、こちらに来られるのであればお話を通していただかないと困ります」
ターリクの責めを黙殺すると、少年はウィゼルの前に進み出た。
「
ここまで全力で走って来たのか、息が荒く、肩は上下して顔は赤い。けれど、曇りのない視線はまっすぐで。少年が部屋に踏み込むと「カダーシュ様困ります」と、後ろにいた青年が声掛けした。その言葉に、アサドが明らかな動揺を浮かべた。
「第三皇子殿下……」
胸がざわめくような予感と一緒に、ウィゼルは知らず、言葉を吐き出していた。
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