小細工は児戯にも似て

 ウィゼルが頷いた途端、カダーシュは安心したように座り込んだ。荒い息遣いを整えるように息を吐くと小声で、


「よかった、間に合った」


 と、頬を緩めた。強張った頬が柔らかさを取り戻した瞬間、ルークの面影と重なった。笑いながらサクルと戯れていたルークの顔つきと、今のカダーシュの顔つきはそっくりで。込み上がってきた痛ましいくらいの想いを堪えるウィゼルを、カダーシュは不思議そうな表情で見上げていた。


「ターリク、部屋をあてがいなさい。彼らと話がしたい」


「なりません。御身のお立場を考えぬ愚行は先日もしたばかり。今度こそイダーフ様も御見過ごしにはならないでしょう。ここは私に任せ、殿下は部屋へお戻りください」


「ルシュディアークの義兄上が彼女に託した言葉を聞くまで、僕は絶対に戻りません」


 片や睨み、片や無表情でそれを受け止める。ぴりぴりとした空気の中で、アサドが長い溜息を吐いた。


「あてがってやれよ……足りてんだろ」


「そういう問題ではないのですが」


「多分、たぐいだと思うぜ、これ」


 ターリクはアサドとカダーシュを交互に見ると、やがてあきらめたように溜息をついた。


「誰かここへ。場を移します」


 改めて通された客間は広く、立派なものだった。白い大理石の床に、雪の結晶のような幾何学模様アラベスクが施された白い壁が丸天井まで続いている。部屋の中央には寝台のような大きな長椅子と、黒檀の机が置かれていた。その長椅子へ座ると、対面にカダーシュとターリクが座った。


 改めて見るカダーシュは、本当にルークの弟かと疑うほど整った面立ちの、とても綺麗な子だった。目鼻立ちははっきりとして大きく、人の目を引き付ける。ところどころに残るあどけない雰囲気が、彼の魅力を良い具合に引き立たせていた。

一方で、声色や行動の一つ一つはルークと兄弟なんだと思わせる部分が多くあった。特に歩き方や、考え事をする際に顎を触る癖は全くと言っていいほど同じで。今だって顎をもみながらまず何から話そうかと思案しているように視線を遠くへやっている。やがて、ルークよりも暗い、茶色の瞳と目が合った。


「まず、僕の方から事情を話したほうがよいでしょうか」


 そう言って、薄汚れた布切れを懐から取り出すと、机の上にさっと広げて見せた。


「こちらの文を見てください」


 砂と埃と、汗の混じった匂いが、ぷんと漂う。元は白かったはずの布は黄茶けてボロボロになっていた。


(これ、ひょっとしてあの時の……!)


 イスハークがアル・リド王国軍に襲撃された後、ルークがサクルくくり付けて飛ばしていたものに違いない。生憎あいにくと文字は読めないが、長い間風雨にさらされながらサクルと共に旅をしてきた汚れあかしがあった。


「先日、この文を携えたサクルが僕のところへやってきました。それに、これからやってくる竜の民ホルフィス、すなわち貴女の来訪と貴女の言葉を聞くようにという言伝が書かれていたんです」


 途端にアサドが表情を曇らせる。カダーシュはそれを注意深く伺いながら続けた。


「義兄上のことを教えてはもらえませんか。些細なことでも構いません。大っぴらに話せないような事であれば、ここにいるターリクを他所よそへやりますが」


 カダーシュの提案はまたとないものだ。けれどアサドは、


「ちょっと待ってくれ。いや、あのだな、ターリクにはここに居て貰ったほうが良いように思う。その方がまぁ、都合がいいだろ」


 えてターリクを同席させることを選んだ。


「私が居ては都合が悪い話をするつもりでしたか」


「そんなわけあるか。ただ、要らねえ罪を被りたくねえだけだよ」


 これからしようとする話が、あの第二皇子ルシュディアークに関する話だから堅実に話し合っていたとしても必ず齟齬そごが生まれる。そうなったときに冷静な第三者が居なければ、言った言わないの争いになりかねないと危惧したのだろう。そうでなくてもターリクがとなれば成し得る事柄も多くある。そういう思惑もアサドの中にあったに違いない。気を取り直すように咳払いをするアサドに、カダーシュは苦笑を浮かべた。


「変な話をするつもりでここに来たわけではありませんから、安心してください」


 それが余計に不安になるんだと、アサドは口元をへの字に曲げた。


「……殿下は俺達から何か重要な話が聞けると思っておられるかもしれませんが、実のところ俺達が殿下に語れることは多くないのです。お話しできることと言えば、こいつがハリル様に文を渡された際、第二皇子殿下をお見かけしたことくらいで。直接お言葉をたまわったわけではないのです」


「そう、ですか……」


 期待を胸に、瞳を輝かせていたカダーシュから笑みが消えた。


「こちらがハリル様から預かった文となります」


 肩からかけていた道具袋の中から文を取り出し、カダーシュへ手渡す。


「その中に殿下の文がおりました」


「……文は僕からイダーフの義兄上に渡したほうがよさそうですね」


 ちら、と、ウィゼルを一瞥する。その眼差しは、何かを酷く心配をしているような、迷っているような光を宿していた。しかし感情の揺れは瞬きの間に冷めていき、無表情だけが残った。それを見届けると、ウィゼルは初めて口を開いた。


「第二皇子殿下は硝子谷に控えている援軍の準備が整うまで、北と南カムールの遊牧民ベドウィン達を率いてアル・リド王国軍の進軍を阻むおつもりのようでした。対するアル・リド王国側はサルマン王子が五千の歩兵と騎馬騎兵を従えて北上。私がハリル様から文を賜った際には北カムールに偵察兵が来ておりましたから、今頃は恐らく」


 戦っている頃だ。戦闘のどさくさに紛れてカムールを離れたっきり、ルーク達がどうなったのかは分からない。ザハグリムにたどり着くまでにカムールから流れてくる噂に耳を傾けていた事もあったけれど、耳新しい話は無かった。カダーシュは溜息のような息を吐くと、改めるようにターリクへ顔を向けた。


「硝子谷からの情報も欲しいところですが……如何いかがですか」


「軍のことであれば東守にお尋ねになればよろしいというのに、何故それを今、私にお聞きになられますか」


「今すぐ僕が知りたい情報を、貴方ならば知っているのじゃないかと」


 ターリクは、失敗をしたように顔を手で覆った。


「……先程の話をお聞きになられていましたか」


「視線の高さはお互いに違いますが、僕たちの立っている場所はのはず。それに、僕は彼らのを見なかったことにしたくない」


 憂いという言葉に、アサドが片眉を上げた。ターリクがそれを一瞥し、溜息をついた。


「まさか、手を携えようとおっしゃられている?」


「そこまでは。ただ、そうですね……貴方の後ろ暗い話を聞かなかったことにする代わりに、現時点での硝子谷から得た報告を今ここで、聞かせてください」


 妾腹の皇子とそしられているくせにこういう計算だけは他の皇子達と同じように頭が回るものだと言いたげな表情を、ターリクは浮かべていた。


「後ではならぬ理由がおありですか」


「ええ、時間が無いんです。実は先日の軍議で、ファイサルとラヒム将軍の率いる騎兵二万を硝子谷へ向かわせることが決定しました。そこに、元老院のジャーファルも加わるとか。出立は明日みょうにち。ファイサルとラヒム将軍がルシュディアークの義兄上の身に起きたことをご存じかどうかは分かりませんが……もし、義兄上のことを知れば黙ってはいないと思うんです」


「それについては前もってイダーフ様が言い含めておりましょう。殿下がご心配するほどのことではないかと」


「ファイサルとラヒム、そしてジャーファルは、かつてルシュディアークの義兄上の人達なんですよ」


 大問題だと息巻くカダーシュへ、アサドは恐る恐る訊ねた。


「……ちょっといいか。なんで第二皇子殿下の派閥の者が硝子谷に行くことが問題なんだ?」


「ルシュディアークの義兄上は、アル・カマル皇国軍にいたことがあったんです。ファイサルやラヒムなどの将とはその時に。ジャーファルについても同様に。今でも軍内部ではルシュディアークの義兄上を信奉する者が多くいるのですが、最近はその彼らを排除しようという動きがあるんです」


「それは軍内部の奴らも気付いていたり……?」


「少なくともファイサルは気付いています……気付いていて、黙っている。もし、ラヒムなどの、かつて親ルシュディアーク派だった者達が義兄上の身に起きた不幸の内容を知ってしまったのなら、硝子谷へ派兵する二万にもおよぶ軍勢の、国への忠義は無くなります。もしかすると、イダーフの義兄上へ剣を向けるかも」


そんな事しないわ!」


「義兄上ご自身はしないでしょう。でも、義兄上の周りの人は違う」


 きっぱりと、カダーシュは告げた。


「聞けば義兄上の傍には、ハリル様もおられるという。彼らの血の気の多さは僕もよく知っています。五年前まで血なまぐさい争いをしていた彼らが義兄上の濡れ衣を放っておくわけがない。そして、ルシュディアーク派の将軍や兵士達も」


「だから私のスフグリムを使って、硝子谷におられる殿下に我が国へ剣を向けるなと警告なさりたいと言うことでしょうか」


「元ではありません。義兄上は今でも殿下です」


 訂正を。睨み据えるカダーシュを、ターリクは冷淡な顔つきで眺めた。


「そんな事で状況が変わるとは思いませんが。とはいえ、長々と不毛な話し合いをし続ける暇などありませんか……現状で我々が把握していることは、概ねそこの娘の言う通りです。生憎と防備に時間をとられて支援がままならぬ有様ではありますが、周辺の首長国からの援助が入ってきております。もう少し時を経れば援軍を出すことも可能でしょうが、北カムール領主ニザル様がごねておられる」


 援軍を出すよりも硝子谷を守れと言っているらしい。硝子谷の中で意見が真っ二つに割れているまま、膠着こうちゃくしているという。


「ニザルは、ご子息がルシュディアークの義兄上と共にいることを知っているのですか?」


「いいえ。恐らく殿下の不幸も、殿下がカムールにいらしていることもお知りになられていないかと」


 ですが、と、ターリクはウィゼルへ顔を向けた。


は耳に入っているはずです」


「ええ。南カムールのイスハークが、第二皇子殿下が援軍を求めているって伝えてしまったけど……ねえ、これってひょっとしてまずい状況だったりするのかしら」


「ルシュディアークの義兄上の行動次第では、が成り立ってしまうでしょうね」


 ある側面だけなら願ったり叶ったりなんですけどと、カダーシュは目を伏せた。


「はっきり言って、国からの支援の無い絶望的な戦場で降って沸いたように現れた義兄上は、皇族というこれ以上ない士気を上げる道具です。ニザルが無視をする道理が無い。とくれば颯爽、ニザルはルシュディアークの義兄上を前線の旗印として祭り上げるでしょう。そこにファイサルやラヒムと言った将が下に付いたとなれば、即席であれ国軍が出来上がります。後は目立った戦果を上げれば、ルシュディアークの義兄上は更に祭り上げられる」


 かつて魔族と呼ばれ城を追われた皇子が、人々の希望を背負った英雄となるかもしれない。なんて快い響きだろう。ルシュディアークの身に降りかかった理不尽を一掃するような輝かしさすら感じる。なのに、深奥でわだかるこの薄暗い感情は何だろう。


 自然と顔を強張らせたウィゼルに、カダーシュは真面目な顔つきで言い放った。


「見方を変えれば、それは我が国にあだ成す反軍です。イダーフの義兄上を信奉する派閥の者達にとっては、ルシュディアークの義兄上達は敵。ルシュディアークの義兄上の身に起こった不幸は、救国の英雄という名誉を易々と剥奪できる力がある」


 もっともらしい理由をつけて、あとは武力で攻めるだけで、英雄なんてものは簡単に地に落ちる。


「アル・リド王国を退けたとしても、その後に起こるのは平和ではなく内乱です。それを避けるためには、ルシュディアークの義兄上には何としても立場を隠し続けていてもらわないといけない。それが無理なら前線で旗印になるのを止め、人知れず身を隠してもらった方がいい。ターリク、貴方が魔族を抱え込んでいたことについては不問としますから、その代わりにルシュディアークの義兄上とニザルへ、この事を伝えてください」


 硬い表情で頷いたターリクを眺めていたアサドは、ふと天井を仰ぎ、


「……もしかして要らない心配というやつだったのかな」


 と、小さな声で呻いた。むっとした様子のカダーシュへ、アサドは疲れたような顔つきで首を振った。


「何でもありません。ちょっと口が滑っただけです」


 腹の探り合いをしていたはずが、後ろ手で握手を交わすことになろうとは。思わぬところで明かされたカダーシュの本心が、アサドの心を軽くしていた。彼はアサドやウィゼルの話に話を合わせたばかりか、二人には決して聞くことが出来ないはずだった軍部の動きや、ターリクが成そうとしていた行動まで聞かせてくれた。更に言えば、カダーシュは二人の立場まで心を配ってくれている。その暖かな心根に、アサドはルークの面影を感じとっていた。


「イダーフ様が様子見をしろとお命じになられたからには殿下の危惧は杞憂になりましょう。少なくともアル・リド王国軍を退けるまでは安全かと。ですが、どうにも気にかかる点が一つ」


「追討令が出ていたのに手の平を返したということでしょうか」


 頷いたアサドに、カダーシュは言い辛そうに俯いた。


「それについては、ある程度の予想が成り立っているのですが」


「予想?」


「はっきりとしたことじゃないので、お話することが出来ません」


 内容もさることながら時間もないらしく、カダーシュは落ち着かない様子で部屋の外を伺った。従者が控えているのを見つけると、視線をせわしなくあちこちにやり、やがて意を決したかのように訊ねた。


「あの、最後に一つ。ルシュディアークの義兄上は、元気にしておられたでしょうか?」


 その一言に含まれる感情は、多かった。最も多くを彩っていたのは、不安と期待だろう。二つの反する感情が混ぜこぜになったような顔つきを浮かべている。それへ、


「ええ、とっても」


 そう言って微笑むと、カダーシュはほっとしたように胸をなでおろし、

 

「そう、良かった」


 と、少しだけ寂しげに呟いた。




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