葛藤

 もう一人のスフグリムがルークを追っていた。つかず離れず追ってくるその手には、抜き身の剣が握られている。

ルークは周りをさっと、見回した。見渡す限りの草原と、苔むした柱の残骸ざんがい達がある。あっという間に流れ去ってゆく景色の中に、助けてくれそうな人影は無かった。

いや、あった。

遠目から見てぼんやり分かるくらいに広く、大きな影。ザハグリム近郊の遊牧民ベドウィン特有の、鮮やかな色彩の天幕。


 ルークはボラクの首を天幕の方へ向けて走らせた。放牧した羊の群れの中で棒立ちしている男の脇をあっという間に通り過ぎ、手近な天幕へボラクごと突っ込ませる。視界一杯に褐色の布地が広がった。むせ返るようなわらの匂いとボラクの悲鳴。転倒したボラクの背から素早く飛び降りると、まとわりついてくる布地を邪魔そうに切り裂き、剣を構えたまま外へ飛び出した。その時だ、頭上で何かが光ったのは。

とっさに光の方に剣を振るった。があんと、刀身が砕けそうなほどの衝撃がきた。渾身こんしんの力でそれを弾くと、返す刃で素早く斬りつける。影は飛ぶような身のこなしで避けると、剣を正眼せいがんに構えた。


 そこにいたのは若い男だった。病的なまでに白い顔で、虚ろな眼つきでこちらをみつめている。その男の背中には翼が二対。煌々こうこうと赤い光を発していた。


 それは城ではまみえる事のなかった異形の者。人よりも、もっと古い時代から在り続けるが一つ。


「ムルグ・イ・アーダーミー……」


 神代の民と言えど、その種と形は様々だが、このムルグ・イ・アーダーミーはその中でも最も厄介な相手だった。彼らは魔法クオリアを意のままに操る生まれながらのだ。


「やってくれたな、ターリクめ」


 ムルグ・イ・アーダーミーが目の前にいるのも問題だったが、もう一つ大きな問題があった。それは魔族がアル・カマル皇国の兵服を着ているということだ。他国からの脅威には兵士を、魔族には魔族を。魔法クオリアと呼ばれる超常の現象を操る魔族にただの兵士を差し向けても無駄に命を散らすだけなのだからして、なるほど的を得ている。しかしながら、このアル・カマル皇国が兵士として魔族を徴用することは決してない。


(むしろ、法ではず)


 法を司る西守の長ターリクが魔族を手元に置いているという事実に軽い眩暈めまいを覚えた。


「第二皇子ルシュディアーク殿下とお見受けする。御覚悟を」


 ルークはとっさに、近くにあった布を投げつけた。スフグリムの目の前で、ばっと、布が広がる。その隙に駆けだした。背後で布が剣で裂かれた音がしたけれど、気にする余裕は無かった。


(あれは、無理だ)


 正面から戦うのも、剣を向けるのも、殺すのも。怖い。剣を持つ手が震えた。足がわらっていた。向けられる殺意に、心が戦慄わなないた。近くにあったかごを崩し、背後で悲鳴が上がるのを聞きながら天幕の影に身を隠した。スフグリムの足音が近づいてくる。舌打ちを一つすると、天幕の影から影へ、静かに移動を始めた。


(……ああ、くそ、か)


 知っていたのだ、イスマイーラは。

彼から剣を手渡された時のことを思い出して溜息が漏れた。

覚悟を問いかけたのも、人を傷つける事を覚えろと言ったのも、何もかもだったんだ。


(俺は、何もわかっていなかった)


 何もわからないまま、人を傷つけ、殺す事の如何について覚悟しているなどと。


(本当の覚悟も、心の定め方も分からなかったくせに)


 不意に恥ずかしくなった。覚悟を問いかけられて分かったつもりになっていた自分自身が。


(なんともみじめでみっともない)


 目の前にある木製の箱の山へ急いで身を潜ませると、しがみつくように剣を握りしめた。そして、深い息を繰り返し吐いた。何度も繰り返してゆくうちに、どんどん気持ちが落ち着いてゆく。やがて、ゆっくりとまぶたを開き、改めてスフグリムの姿を認めた。背中があった。立ち止まって、あたりを見渡している。それを目にしたルークは、スフグリムとどう戦おうかと頭を巡らせた。


 思い起こされたのは、イダーフの言葉。


「そなたは体格や力量差のある相手との接近戦は、極力避けるがよい」


 兄のことは苦手だったけれど、剣の腕に関しては一目置いていた。皇族の誰よりも強く、将と互角以上に張り合える腕を持っていた。そのイダーフは剣の稽古をするたびに、ルークへ言って聞かせた。


 を、意識しろと。


「筋肉の塊のような大男に、骸骨のようなか細い男が力で勝てるはずがなかろう。格闘までするのは愚かといってもいい。そうであれば、どうしたら勝てるか。しばし頭を巡らせてみるがよい」


 イダーフが自分へ向けた言葉の中に、答えがあるような気がしていた。


(単純な技量が駄目なら、周囲の物を利用して罠を張るか。いいや、罠を仕掛ける時間なんかない)


 ルークの中に、ある閃きが起こった。途端に苦い表情をする。


(卑怯だ、後ろから奇襲など……)


 そのとき、スフグリムが叫んだ。


「殿下は罪をあがなうよりも、罪から逃れるほうがお好みの様子。我が身が大事とはとんだ卑怯者。恥を知るがいい!」


 挑発だ。いますぐ出てゆきたいのを下唇を噛んで耐えた。


「まだ逃げるつもりならば、こちらにも考えがございます」


 歩んでいたスフグリムが立ち止まった。

 その傍には、一人の少女がいた。五つ位の小さな子供だ。天幕の外で目を白黒させながらスフグリムを眺めている。その少女へ、スフグリムが何かを投げた。ぱっと、少女が赤く染まる。スフグリムが放った短剣が、少女の首を突き刺していた。


「出てこねば、一人ずつ殺しましょう」


 わっと起こった悲鳴と怒号。逃げようとする人々が蟻の子のように散ってゆく。その中にいた一人の老人を捕まえたスフグリムは、ためらうことなく斬りつける。ぱっと舞う赤い飛沫。風に乗って漂ってくる血の匂い。上がる悲鳴に泣き叫ぶ声。次々に殺されてゆく人。人。人。人がまるで屠殺される家畜のように倒れてゆく。ルークの中で、何かが、ぷつりと切れた。

 

「きさまああああああああああああああっ!」


 怒声と共にスフグリムへ迫る。スフグリムが剣を振るった。ルークは更に前に踏み込んで、剣を突き下ろした。スフグリムの振るった刃が頬をかすめた。ぴりりとした痛みが教えてくれたのは、傷の浅さ。口から狂犬のような呻きが漏れた。剣をいなしたばかりのスフグリムが、ふ、と。腰を低くし、拳をルークの脇腹に叩きこんだ。視界が黒く染まった。地面へ強かにたたきつけられたルークは、反射的に剣で頭をかばった。

ガチンという音と、衝撃があった。剣の乱杭歯がスフグリムの刃を受け止めていた。そのあまりの力に、ルークは呻きを漏らした。

体格も、力も、スフグリムとルークでは何から何まで、違いすぎた。剣の腕はあっても血を見たことのないルークと、日常に死体が転がっているような生活をしているスフグリム。


 生き方が違う。

 戦う時の心根が違う。

 人を殺す覚悟が違う。

 荒事に対する経験が違う。


 不利な状況を打開する方法を今のルークには思いつけるはずもなく。剣と拳や脚から避けながら戦うしかなかった。すでに頭も脇腹も、耐えられないほどにまで痛んでいた。ルークは歯を食いしばり、振り下ろされたスフグリムの剣を絡めとった。それをひねるように振り上げると、スフグリムの身体が地面に向かって引っ張られるように転倒した。その喉元へ、ルークは剣の切っ先を向けた。


はターリクの指示か?」


「お答え申しかねる」


「ならば質問を変える。俺を捕まえるとして、民を殺しても良いと許可を出した人物は誰だ!」


「分かっておられるはずだ」


 西守の抱える特務部隊と分かっているのなら。答えずとも自ずとわかろうもの。そう、しかいなかった。


「して、如何なさいます」


 殺すのか。それとも生かすのか。

 スフグリムの口元が歪んだ。侮蔑の言葉が出れば如何様にも怒鳴れるものだが、スフグリムは口を閉ざしたままルークを眺めて笑んでいる。嘲笑だった。殺せぬくせに生殺与奪を握ったつもりになっているルークを。スフグリムの眼差しに耐え切れなくて目を逸らした刹那のこと、足を襲う鈍痛と、熱を伴った風がルークを襲った。


「なっ……!?」


 驚きに声を上げたのは、スフグリムの方だった。爆炎の中でがあった。目の痛くなるような煙の中から、白銀の光が飛び出す。まっすぐ突きこまれたそれを、スフグリムは半身をひねり、ぎりぎりのところで避けた。視界の端で、何かが草の上に転がった。それは先刻、スフグリムが放った短剣。それを見た瞬間、スフグリムの表情を恐怖が彩った。それがいけなかった。予測できない現実に一瞬だけ動きを止めた彼に、剣が振り降ろされた。


 ルークは、はっとした。気が付くとスフグリムが足元で倒れていた。呼吸は荒く、胸は激しく上下している。腹部の傷からは、鮮血が絶え間なく流れ出していた。ルークはおもわず血を止めようと傷口に手を当てた。


(殺すつもりじゃなかった)


 戦えない程度の怪我を負わせてやるつもりだった。それで怯んで逃げてくれたらと思っていたのに。

 はっと、顔を上げると、いつの間にか人だかりが出来ていた。遠巻きにこちらを伺う者はみな、ルークと目が合うと慌てたように目を逸らし、身を隠した。そればかりか非難めいた視線を向ける者までいる。

忌避と侮蔑の眼差しの中で、スフグリムの鼓動はあっという間に消えてしまった。

 

(死んだ……)


 呆然と見下ろしたスフグリムの体は、まだほんのりと温かかった。揺すれば起きてくるのではないかと体を揺すった。ぐったりとした体が、ゆらりと揺れるだけだった。


(俺が、殺した)


 とたんに、手と、足が震えた。死体になったスフグリムを直視できずに目を逸らしたその先に、殺された少女の姿があった。手足を放り出して事切れている少女を、母親が必死に起こそうとしている。その後ろで、少女と同じくらいの少年が呆然と少女と母親を見下ろしていた。ふいに、少年が光の無い目をルークへ寄こした。その目は虚ろだった。怒りとも、哀しみともつかない形容しがたいそれに耐えきれず、ルークは逃げるように立ち去った。



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