イリス

「捕まえろ!」


 背後から響く物騒な叫びに、ルークは思わずため息を漏らした。


「どうせこうなるんだろうと思っていた」


「貴方が逃げるって選択したんだから、そりゃあ」


 ウィゼルは躊躇ためらいなく背後へ矢を向け、後ろ向きに走ったまま弓弦を引く。


「最終的に、こうなるわよ」


 奇跡的に矢を避けた男が暗がりの中で転ぶ。その背後から走って来た男も、転んだ男につまづき、もんどりうって倒れ込んだ。


「怪我させるのは控えてほしい」


「当ててない。当たってくるの、向こうが!」


 何事かと駆けて来たもう一方の兵士へ、ウィゼルが続けざまに矢を放つ。闇の中で放物線を描き、防ごうとした兵士の腕を通り抜けて太腿を刺し貫く。ルークは草むらから飛び出してきた男を鞘で殴り、昏倒する彼の傍らをルークとウィゼルが走り抜ける。


「怪我をさせるなって言ったくせに」


「誰かさんが無茶をやらかしてくれたお陰で、こうせざるを得ないんだ!」


 ウィゼルが剣呑けんのんな視線をルークへ寄こした。


「誰かって、誰かな」


「さて、心当たりが無いのか、とぼけているのか」


 ウィゼルの腕が、ルークを引き倒した。ルークのいた空間を鋭いものが凄まじい速さで通り抜ける。何を放たれたのかと確認する暇もなく銀閃が飛び込んできた。それを、ウィゼルが弓を打ち振るい叩き落した。

足元に転がったそれは、短剣だった。手に収まる大きさの何処にでもある短剣。何の変哲もない剣の柄が、指の形に歪んでいる。

考える間もなく、ウィゼルが矢を射った。それは放物線を描き、闇の彼方へ突き刺さるはずだった。聞こえてきたのは悲鳴では無く、生木の裂けるような音。


「脱走ごっこカい、ボクも混ぜテくれヨ」


 その声にウィゼルが明らかな警戒の色をにじませた。余裕を失った視線は声の主へと、向けられている。

その主は子供だった。松明に照らされた髪は青く、瞳は金色に輝いている。中性的な面差しには、十代前半のあどけなさが宿り、血色の無い肌は透き通ってみえた。その顔面には、稚気とした闘志の色が浮かんでいる。


が、イリス?)


 歩み寄ってくる彼の容貌に、ルークは虚を突かれた。数日前に出会ったルーシィとの容貌をしていたのだから。


「皇族だカらっテ、勝手気ままにやって良イもんじゃナいよ」


 応じる言葉も無い様子に、イリスが片眉を上げた。


「御屋敷二帰リなヨ」


 イリスは歩みを止めない。


「そんな二難しいオ願いじゃアないんだケどな」


「部外者が口を挟むな」


 イリスが大仰に肩を竦めた。


「残念ながら関係者でネ。ボクとしては非常にクダラナイんだけれど、協力シテあげないトいけなイ」


 ルークの表情が、闇の中で冴えないものに変わる。脱出計画の失敗を意味していた


(いや、まだ諦めるのは早い)


 隣で弓弦に手をかけたままのウィゼルを一瞥する。両手には弓と矢。そして犬笛をくわえ、厳しい表情を浮かべている。そのウィゼルと目が合った。二人は小さく頷きあう。考えることは同じだったらしい。背中を伝う嫌な汗を感じながら、ルークは剣の柄を握り直し、下段に構えた。


「それが、キミの答エ?」


「だとしたら?」


 イリスが背筋を伸ばし、準備運動でも始めるような口ぶりで言った。


「仕方なイ」


 短剣をおもちゃのようにもてあそび、一挙動で放り投げた。回転しながら飛んでくる短剣を、ルークは上体を僅かに逸らして避ける。標的を失った刃は背後にあった壁へ、深々と突き刺さった。


「話し合イは、止めルよ」


 闇の中で氷のような殺気が走った。胸を締めあげてくるような威圧感は、直ぐに衝撃と粉塵にとって代わられる。

その様は、疾走では無く、吶喊とっかんだった。

またたく間にルークとの距離をつめ、イリスが短剣を抜き放つ。とらえる事すら難しいほど素早いそれを、ルークは紙一重で避けた。嫌な汗が噴き出してくるのを感じながら、ルークもまた、動いていた。

迫ってくるイリスの腹へ突きこむように剣を振る。当たれば無事では済まない一撃を、イリスは軽々と避け、空いた手でウィゼルの放った矢を掴み放り捨てた。その様に、ルークとウィゼルは唖然あぜんとした。


「そら、歯を食イしばっテいナいと、死ヌよ」


 戦いの場には不釣り合いなほどの呑気な声。容易に二人を制圧できる実力があるからこその余裕。殺意のこもった一撃が、ルークへ肉薄する。それを、ルークは鞘を盾にして防いだ。剣が壊されてしまいそうな程の衝撃は、ルークの身体を易々と吹き飛ばした。背中を強かに打ち付け、あまりの痛みに呼吸を忘れた。

イリスが、あっ、という表情を浮かべ、手にしていた何かを放り投げた。やけに短くなった短剣がルークの足元に転がった。彼が使っていた短剣の残骸だった。

 

(冗談じゃない。なんだ、こいつは!)


 子供の外見をしているくせに、力は屈強な大人の男を軽く凌駕りょうがしている。自らの武器が壊れるほどの力を持つ者など見たことも聞いた事も無かった。死角から放たれるウィゼルの矢をことごとく叩き落すその様も、尋常ならざるものを感じる。まるで全身に目玉でもついているような。単純に腕力が強く、戦い慣れしているだけの子供なんてもんじゃない。彼は、そう、化け物だった。

勢いのままに放たれたイリスの拳が標的を見失い、ルークの背後の壁へ叩きこまれた。凄まじい衝撃と土埃に、ルークは思わず目を閉じた。幾許いくばくかの動揺と共に薄目を開けてみれば、イリスの拳が壁へめり込んでいた。


「止めるナら今だヨ」


「それは脅しか?」


 イリスは感心したように口笛を鳴らし、目を細めた。


「こうすルと、大抵の人ハ失禁するカ気絶するか……とってモ素直になっテくれルんだけド……キミ、案外胆力あるね。ひょっとシて、こウいうの慣れテる?」


 やれやれといった風体で、めりこんでしまった拳を引き剥がす。イリスの手は、無傷だった。


「今のウチに、いう事を聞いテクレた方が、ボクとしては嬉しいんダけどな」


 お願いをするような表情でルークへ手刀を放つ。イリスに対する怖気のようなものを感じ、ルークは表情を強張らせながら鋭い突きを避けた。イリスの足を封じるために剣を振り下ろす。それを、あろう事かイリスは左手で受け止めた。


「化け物か、お前は!」


 素手で刀身を受け止めたイリスへ、ルークは苦々しげに吐き捨てた。


「よく言ワれル」


 イリスの手は、しっかりと刃を握っていた。掴まれた剣が万力で固定されたように、ぴくりとも動かない。その剣から、嫌な音が聞こえた。

生木の裂ける音とは明らかに違う金属の軋み。それが何なのか察したルークは、顔面に如実な焦りの色を浮かべた。


「忠告を無視スるのハ、キミのお兄さんとソックリだ。兄弟ハ似るンだネ」


 ぞわり、として咄嗟とっさに剣を手放した。イリスが投げる。剣だった残骸をまき散らしながら屋敷の壁を穿うがった。

剣の上半分は塀にめり込み、もう半分と柄は粉々に砕けて無残な姿を晒している。その様を見て、ルークは途端に笑いだしたくなった。

魔族として追われる立場に成り下がった自分よりも、遥かに化物らしい化け物が目の前で平然と追われる事無く生きているという事実にある種の自虐的な可笑しみを覚えたのだ。噴出するかのように湧き起こった感情は、同時に、血で上りきったルークの頭を冷やした。


「……気でも触レたかイ?」


「俺は正気だ」


 イリスが厄介そうに目を細めた。拳を放つ瞬間、イリスが止まった。拳を突き出した姿のまま、身体を止めていた。その理由を、ルークはやや遅れて理解する。二人のものとは異なる怜悧な殺気がイリスの真後ろにいた。


「そこまでです」


 その声は、ルークにとって嬉しい乱入者だった。長身痩躯の、特筆すべきところのない平々凡々な顔。見知った声は まさしくルークの探していた人物。


「……イスマイーラ」


 イリスが自分に向けられた刃と、その主を見上げ、一人一人を確認するように周囲を見回した。


「何の真似カナ?」


「ご自分の胸にお聞きになればよろしい」


 取り囲んだ者達の誰もがルークではなく、イリスへ剣の切っ先を向けていた。


「兵力ヲ一か所に集中するノは、警備上宜しくないのデはナいかなぁ」


 身も凍るような数多の殺意と敵意を向けられているというのに、イリスはさして表情を崩すことなく、実に暢気な声を上げた。


「アスワドに怒らレルよ?」


「殿下を無傷で捕獲しろと命じられていたはずです」


 静かな怒りに満ちた声と、咎めに近い眼差しを向けられ、イリスがばつの悪そうな表情を浮かべた。


「忘レてないよ。キミ達が来るマで、遊んでタンだ。というヤツだよ。そウ怒らなイで」


「じゃれ合いにしては随分と暴れたようですね」


 鉄屑にされたばかりの剣の残骸を一瞥し、イスマイーラが表情を険しくした。


「じゃれ合イだかラさ。元来、そういウものだロう。犬や猫も、じゃレ合う時は周囲を滅茶苦茶に壊すモのダ」


詭弁きべんですか」


 イスマイーラの静かな叱責に、イリスが溜息を吐いた。


「……悪かっタよ。でも、そモそも、キミが遅かったカら」


「言い訳は結構です。これからマルズィエフ様と、アスワド隊長がいらっしゃいますから、弁明は彼等へどうぞ」


 マルズィエフの名を聞いた瞬間、イリスはあからさまな渋面を作り、口を閉ざした。それを眺めていたルークは、緊張した面持ちで訊ねた。


「イスマイーラ、わけを訊ねて良いか。何時からここにいる。いや、お前はマルズィエフを知っていたのか」


「それは―――」


「殿下に剣を向けるとは、何事か!」


 イスマイーラの応えをかき消した怒声は、ルークが一番会いたくない男のものだった。肩を怒らせ、地を揺らすような足取りでやって来たマルズィエフに、ルークはおもわず苦い表情を浮かべた。


「即刻、剣をおさめよ!」


 兵士達が一斉に剣をおろし、硬直したように屹立きつりつする。顔を真っ赤にしたマルズィエフが、イリスへ怒鳴った。


「貴様もだ、西方の蛮族め!」


「蛮族じゃアなイ。イリスという名前デ呼んでホしイね」


 イリスの鋭い眼光がマルズィエフを射抜いた。マルズィエフの口元が僅かに痙攣する。喉元まで出かかった雑言を無理やりのみ込み、我慢する風な面相を浮かべた。


「蛮族に発言を許したつもりは無い」


「へぇ、お伺いガ必要だっタかナ」


 その声は険悪そのものだった。その理由を、この場に居た誰もが数秒後に理解した。


「最低限の礼節も守らぬ蛮族にかけるべき言葉など無い。我が口が穢れるわ」


「言ウね。金と権力だけがキミの取り柄だから生かさレていルだけナのに」


 隠そうともしない殺意を、マルズィエフが鼻で嗤う。


「皇族に剣を向ける愚行を犯した貴様は、もはや客分ではないわ。即刻立ち去れ」


「ボクが客デなかっタら、キミを真っ先に殺してイたヨ」


 イスマイーラが意味ありげな視線をルークへなげかけた。ルークが諦めたような表情で首を振ると、剣をおろした。


「すぐに医術師を呼んで参りましょう。あれほどの目に遭ったのです、なんでもないという事はありますまい。さ、遠慮なさらず痛いところはなんなりと仰れば宜しい」


 朗らかに表情を崩してみせるマルズィエフへ、ルークは努力をして沸き起こって来る感情の全てを胸の内に押しとどめようとした。

出来なかった。




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