笛に招かれしは
その声にどよめきが生まれた。困惑を露にする兵士同様にアスワドもまた、戸惑いを隠せずにいた。
「仰られる意味が分かりかねます」
「殿下を捕らえるのだ!」
マルズィエフの声は周囲にいた者全てから思考能力を奪うほどの強制力に満ちていた。アスワドはおろか、イスマイーラや、ウィゼルですらも身を竦ませた叫びを、ルークのみが冷ややかに眺め、威圧的な声色で訊ねた。
「お前も俺を止めるのか、イスマイーラ」
「いえ、合流する機を伺っておりました。ご無事で何よりです」
イスマイーラが反射的に応じた。職務に忠実であろうとする意志が、彼の体を反応させたらしい。弄んでいた剣を中段に構え、アスワドとマルズィエフへ向き直った。
「そういう訳ですのでアスワド隊長、申し訳ありませんが今からお暇を頂きたく思います」
アスワドは呻きを漏らした。数日前にやって来たばかりであるのに、当主であるマルズィエフに取り立てられ、破格の速さで私兵入りしたイスマイーラ。正規の手続きを取っていれば、一カ月は必要なものをたった一日で飛ばしたのは異例中の異例だった。しかし、稀に見るイスマイーラの剣技の冴えに、そういうこともあると思っていたのだが。なるほどそういう事かとアスワドは納得顔で頷いた。第二皇子の護衛であるのを、マルズィエフが知っていたのなら、不思議でもなんでもない。
「最初から共謀していたか」
イスマイーラが困ったような表情で頷いた。
「……酷い気分だ。
「こういう形になってしまったのは、至極残念に思います」
イスマイーラが苦笑する。アスワドがそれに応えようと口を開きかけた瞬間、
「捕らえよ!」
兵士達から放たれた矢が、雨の様に三人へ降り注ぐ。暗がりからあらぬ方向へ放たれた矢をイスマイーラが叩き落し、隙を突いてやって来る兵士を剣で苦も無く叩き伏せる。その彼が叩き落した矢数は、非常に少なかった。矢の雨が降り注ぐと同時に、数名の兵士が逃げ出したからだ。
彼等は皇族に刃向かうことを恐れた。マルズィエフの私兵達は、一気に仲間を数十名も失った。残りの数名はウィゼルの矢に倒れ、更に残りの数十名は味方の矢に
「やあ、なんだか面白いことにナっちゃったネぇ」
剣を携えたまま攻めあぐねているアスワドの背に投げかけられた声は軽い。
「元とはいエまがりなにも皇族ダ。剣を向ケたら罪に問われルし、かと言っテ主に背くわけにモいかないシ?」
アスワドは舌打ちを漏らした。皇子が逃げ出しただけでも頭の痛い問題だというのに、新参が手のひらを返した。そればかりか、暗闇の中での同士討ち。視認性が低い闇の中で皇子を包囲し、弓を用いるなど自滅しろと言っているようなもの。完全な失策だった。
「黙れ。貴様も知っていたのだろう」
「
いずれもだという沈黙の応えへ、イリスが苦笑で応じた。
「安心しテいい。エル・ヴィエーラでこのことに気付いていル人間は、ボクを含めて数人しかイない」
味方から流れて来た矢を掴み、イリスは無造作に放り投げる。投げられた矢は誰もいないはずの地面に落ち―――――なにかに踏み折られた。
「あァ残念、時間切れダ」
イリスが脈絡もなく呟いた。その表情から先刻までのふざけた笑みが消えていた。
耳を
「アルル、おいで!」
地響きにも似た恐ろしげな
「こりゃ酷イ」
マルズィエフ御自慢の庭園を惨禍で彩り竜は鳴く。向かってくる兵士達が鬱陶しいと言わんばかりに弾き飛ばし、蹴り飛ばす。踏みつけて引っ掻いて、また踏みつける。竜は喜びなのか怒りなのか分からない咆哮を上げ、時折喋るように歯をカチカチと鳴らした。
それは奇妙な音だった。単調で鋭く、何かを擦り合わせるような。竜の呼気と微かな鳴き声が混じり、何とも言えない不協和音が半開きになった竜の
それへ、イリスは顔を曇らせた。
竜は背を丸め、奇妙な声で鳴き続けている。
「ちょっと、不味いかナあ。ネえ、
「無理だ。もう竜に距離を詰められている。今更なにをしても手遅れだ。退却するにも、戦い続けても最終的な損害はさして変わらん。一部の兵士を捨て身の殿役に仕立てて、マルズィエフ様を逃がす算段しか思い浮かばん」
「ソうじゃなくテ」
「貴様が代わりに竜をぶちのめしてくれるのなら、話は別なのだが」
イリスであれば竜ですらも素手で倒せるかもしれない。思いついた瞬間、アスワドの焦燥しきった双眸が精彩を帯びた。
アスワドとイリスへ、竜が何度目かの咆哮をあげる。
崩れゆく包囲の中で、竜が矢の雨と刃に身をよじり、煩げに巨躯を震わせた。奇妙な鳴き声を響かせながら味方達を叩き伏せる姿はまるで、踊りにも似て。竜の喉が大きく
「……まさか」
はっとしたアスワドに、イリスは溜息をついた。
「やっト分かってくれタね……」
「全員下がれぇっ!」
竜の
「たった、一匹だぞ……?」
夜の空が朱と金色に染まり輝く中で、火柱が狂ったような奇声と悲鳴を上げている。剣と矢の雨が降り注ぐ庭は、たった一匹の獣によって苦痛と焔の惨劇へと変貌した。
「上が無能ダと下は苦労すル」
蔑んだ目つきで嗤ったイリスは、竜の吐き出した炎とは明らかに違う、赤い光を
「魔族、だったのか……」
「少し違うケど、一応、肯定シておこウか」
その赤い光は、イリスを中心に広がっていた。熱くもなく、痛くもない。金臭い独特の臭気を帯びた赤い光の膜は、渦巻く炎から守るように二人を包み込んでいる。
「……まるで、絹の
イリスが信じられない面持ちのアスワドに微笑んだ。
「これが
護られている。自覚した瞬間、アスワドの身が恐怖で震えた。
「ま、暇潰しにハ丁度良いカ」
二人を包んでいたほの赤い光の膜が引き剥がされ、イリスと竜の間に収束した。丸い盾の様に展開された光が、飛びかかってきた竜の牙を受け止め、硝子のように爆ぜた。
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