絡みつく赤い蛇
翌朝、馬の背に寄り掛かって寝入っていると、肩を揺すぶられた。何事かと目を開けてみれば、思いつめたような顔つきをしたアズライトがいた。
「……貴女の方から私を訪ねてくるのは珍しいですね」
「少し、付き合ってください」
と、朝も早くから起こしに来てくれたものだから、何事かとついて歩いてみれば。
(彼女は一体何がしたいのか……)
まるで遊興のようにふらふらと人の間を縫って歩いている。興味を湛えた視線は、きょろきょろと忙しない。
「イスマイーラ、あれはなにをしているのか分かりますか」
白い指が指した方向に、大きめの頭帯を帽子のように折り畳み、その上から大きな瓶を乗せた女達の姿が見えた。その足元を、小さな子供達が足早に通り過ぎてゆく。
「水を汲みに行くのでしょう」
「では、あれは」
「
煮炊き用の道具を抱えた老人が、ゆっくりとした手つきで支度をはじめている。腰をかがめ、火を熾す為の穴を掘っている横を通り過ぎた。このオアシスを訪れてからというもの、アズライトは始終こんな調子だ。まるで観光でもしているような口振りで、あれやこれやと尋ねてくる。
「あまり目立つなとは言いましたが、好きにうろついていいとは言っていませんよ」
「監視役の貴方がいれば問題は無いと判断しました」
「特に用が無いのなら戻りましょう」
「その前に、何か口に入れたいのです」
金色の眼差しが向かったのは露店だった。朝も早いというのに十人ほどの列ができている。列の隙間から先頭を伺うと、露店の主が串に刺さった肉を焼いているところだった。
「二本でよろしいか」
「十本欲しいです」
何を言い出すのかと思えば、平然とした表情でとんでもない数を希望してくる。元々口数が少ない上に我儘を言うような者ではなかったはずなのだが。路銀は少ない。十本も買ってしまっては後に障りがある。
「二本でお願いします」
「仕方がありません、五本にまけてあげます」
「二本で、お願いします」
結局押し切られて串焼きを三本分買った後、二本をアズライトに手渡した。こんがりとした肉の表面には、泡のような肉汁がぷつぷつと弾けている。まだ熱いだろうそれを、アズライトは一口頬張ると、無表情で咀嚼しはじめた。味を堪能しているのか疑わしいと思うよりも早く、二口目を口にする。イスマイーラもまた串焼きにかぶりついた。焦げは香ばしく、噛めば噛むほど肉汁が溢れた。隣であっという間に一本目を平らげたアズライトに苦笑する。
「そんなにお腹が減っていたのですか」
「いけませんか」
二本目をもぐもぐと食べながらの視線は忙しない。あちらこちらを見ては、時折追い、また別の方向を眺める。まるで何かを探しているような素振りだった。
「朝なのに活気がありますね」
「人が集まればそんなものかと」
食べながら、ふと、アズライトが笑っているのが目に入った。
「なにか面白いものでも見つけましたか」
「いえ。少しだけ、嬉しくなったので」
「嬉しい?」
「何があっても、人の営みは変わらないのだと。今も昔も。着る服も話す言葉も変わってしまいましたけど、こうして寄り集まって生きていくのだけは変わらない。いま、それを再確認できたようで嬉しいのです」
形こそ昔とは違うけれどと、アズライトは呟いた。
「間違っていなかった」
まるで何かを懐かしみ、そして後悔しているような様な目つきで人々をみつめている。過去に、何かあったのだろうか。そう思わせる眼差しが気になったけれど、聞くのは野暮であるような気がした。
「……昔がどうだったかは私には分かりませんが。人の営みが容易に変わることはないでしょう。私の故郷もとある事情で一度無くなってしまいましたが、わずか二十年あまりでこんな平穏を取り戻していますよ」
呆れたように笑ったのを、アズライトは不思議そうにみつめた。
「イスマイーラの故郷?」
「ここより南の砂漠にありました。シリルという武に秀でた小さな氏族で。用心棒やら傭兵やら、荒事を生業として生活していたのです」
ふっと、遠くを見つめるような目つきで、過ぎ去ってしまった過去を想う。
「私はそこで、両親と妹と暮らしていました。父は刀剣の扱いに長けていて、氏族の中では指折りの剣士でした」
記憶にある父の姿を思い出しながら、イスマイーラは穏やかな笑みを浮かべた。
「昔はよく父に剣の手ほどきをして貰っていました。夜が明ける前に起きて剣の素振りや稽古を行って、朝日が昇ったら父と一緒に家に帰って牧畜の仕事を手伝う。そういう毎日を送っていたのです。稽古の帰りにこうして店が開いていると、父にせびって食べ物をこっそり買ってもらったこともありました。家に帰ると、食べ物の匂いがついているから母や妹には度々怒られましたが」
よく、「兄さんばっかりずるい」怒っていた妹は、いつの日からか一緒に剣の稽古をするのだと言い始めた。危ないから止めろと言う父や母の言葉も聞かず、イスマイーラの稽古用の剣を勝手に拝借しては素振りの真似事を始め、朝の稽古にもついてくるようになった。妹の目的が剣の稽古ではなく、稽古の後のご褒美が目的だったのはすぐに分かった。
「懐かしいものです」
ご褒美が目的だった妹は、気が付けば刀剣の扱いは自分より上手いのじゃないかと思うほど、妹は強く
「幼い頃のイスマイーラを見てみたかったです」
イスマイーラは困ったように笑った。
「残念ではありますが、もう過去なので。時に、他人の営みをご覧になるのがお好きか」
「ええ。見ていて飽きません」
「なら、ザハグリムに行けばもっと楽しめるかもしれませんね」
「ザハグリム、とは?」
「皇都です。アル・カマル皇国の城がある、大陸の最西端にある大都市です」
カムールから北へ向かい、硝子谷を通り過ぎて平原地帯を越えた先にある。肥沃な大地に大河が流れる、砂とは無縁の豊かな土地。アズライトは遠く過ぎ去ったものを懐かしむかのような顔つきで呟いた。
「都が移動していたのですね」
「……戦争が終わったら、ご案内しましょうか?」
「皇都を、ですか」
「ええ。アル・カマルという国が見たいのなら皇都はうってつけです。まぁ、他にご希望があればそちらでもかまいませんが」
アズライトは思い悩むように食べかけの串を弄ぶ。
「……そう言われても、どういう場所があるのか分かりません」
二千年もの時間が経っていれば、何もかもが変わるか。そこに住んでいた人も、街も、国も。アズライトの覚えているものは、遥かな時間の後に消えている。それを礎にした世界を見せてやりたいと、イスマイーラはほんの少しだけ思った。
「……名所にしましょうか。丁度良い所を幾つか知っています」
たとえば、青の石組みで町全体が彩られた青の都に、緑晶と呼ばれる硝子で造られた太陽神殿。カムールの南側に点在する砂岩が創り出した縞模様の山々に、桃色に染まる砂の大地。どれもこれも、アル・カマル皇国を訪れた旅人たちが一度は訪れる場所だ。
「史跡が宜しければそちらを紹介することも可能ですが、学が無いため
アズライトが、意外そうな表情を向けた。それがよくわからなくて眉をひそめた。
「……なにか」
「イスマイーラの口からそういう言葉が出てきたのが珍しくて。そういう冗談を言う人ではないように思っていましたから」
冗談と取られていたことに苦笑した。
「こんな状況です、明日も知れぬのなら、何処に行きたいとか、何をしたいとか希望を語るのは命繋ぐ糧。それに、話して咎められることもない」
つられるように、アズライトがうっすらと笑った。
「……行きたいところは分かりませんが、また、皆で旅がしたいです。ルークと、ウィゼルと、アルルと、貴方と私で」
その言葉に、目を丸くした。
「時折、貴女は人間のようなことを言うのですね」
人形であることを忘れてしまうくらいだと微笑むのへ、アズライトもまた笑みを浮かべた。
「貴方達が、私を人間のように扱ってくれるからですよ」
だから、そういう風に対応してしまうのだと言う。アズライトに備わった疑似感情が、人のような感情を起こさせる。まるで、鏡写しのように反応してしまうのだと。ふと、アズライトの表情が陰った。
「だから、時折困惑するのです。自分が人なのか、人形なのかが分からなくなる。疑似感情がもたらす錯覚だと言われてしまえばそれまでなのでしょう。でも時々、自分の在り方が分からなくなる。私は人形なのか、そうではないのか。そのままの私であっていいのか、悪いのか分からない」
その懊悩こそが、正しく人ではないだろうか。そう感じた途端、イスマイーラはアズライトに対して感じていた違和感の正体を知った気がした。
「貴女は自分の存在が何者か、人形か人間かということよりも、アズライトという個人であるという自覚を持って生きて行かれた方が楽なのかもしれませんね」
「個人?」
「ええ。アズライトという個人として」
何を言っているのか良く分からないという顔つきに思わず苦笑が漏れる。人形というにはしっかりとし過ぎた自我を持っているのに、替えの利くような顔つきで「私は替えの利く人形だ」という態度で日々を生きている。そんな彼女に言っても何処まで理解するのか分からなかったけれど、イスマイーラにしてみれば、そんな彼女の言動こそが既に人間そのものの考え方に映っていた。
「自分で自分を定義づけできないから、困惑するのでしょう」
「……私は」
「人間か、そうでないかは、この際関係がありません。要は貴女自身がどう在りたいか、それを突き詰めて考えれば自ずと答えも出てくるでしょう。このままお話に付き合っても宜しいのですが、長くなりますよ」
途端に、アズライトから一切の表情が消えた。
「貴方の話は長く、くどすぎる。遠慮します」
なら、この話はこれまでとしましょう。そう囁くと、食べ終わった串を放った。
「収穫が無いなら戻りましょう」
アズライトは長いこと黙り込んでいたが、やがてふと、イスマイーラの左腕に視線をやると、顔を曇らせた。
「……イスマイーラも、いつ、左腕に蛇をつけましたか」
「蛇?」
左腕を見た。変わらぬ自分の腕があった。そこに巻きついているものは何もない。けれど、アズライトの視線はずっと腕に注がれたまま。失礼と一言断って、アズライトは左腕をとり、なにかを解くしぐさをした。
「半透明の蛇が絡みついていました。同じような人が、さっきから大勢います」
三日前にはなかった現象だと、アズライトは囁いた。
「三日前になにか心当たりは」
脳裏に過ったのは、硝子の蛇。タウルの腕に巻きついていた古の叡智。表情を強張らせたイスマイーラは、三日前のことを話し始めた。黙ったまま耳を傾けていたアズライトの表情が、徐々に強張っていった。
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