好意と警告
その頃、ザハグリムの郊外にある宿の一室で、彼は目覚めた。
『来客にしては随分な起こし方をしてくれるじゃないか』
闇の中で侵入者の男は恐怖と共に、声の主を見つめた。それは日の下では実に優しげな青年だった。初めて青年を遠くから眺めた時、男は彼についての噂と囁かれる二つ名の方を疑ったものだ。
古王国の亡霊、遺物、化け物。
男は彼にもう少し見栄の良い名をつけてやればいいものをと、ほんの少し同情的に思っていた。しかし今思えば、青年の二つ名はある種の真実を示していたのではなかろうか。
『夜に人の部屋を訪れる際は、一声かける。常識じゃないかな』
男の腕をつかむ青年の口振りは軽い。しかし、声色は愉快なものではなかった。青年に掴まれた腕が軋む。男はおもわず握っていた短剣を取り落とした。
『で、君は誰に頼まれたのかな』
声もなく震える男へ、青年が何とも言えない表情を浮かべた。
「誰に、頼まれたのかな」
次に青年が口にしたのはアル・カマル皇国とアル・リド王国の
「素直に答えようよ。カマル語に反応したってことは、アル・リド王国か、アル・カマル皇国のどちらかでしかないんだから」
それでも男は答えなかった。自らが口を開いてしまえば、本当に最期であると知っていたからだ。
(いや、もうしくじっているのか)
男は本国から青年の殺害を頼まれた時から、この青年をどう殺そうか考えていた。正面から正々堂々と斬り結ぶのは、この青年に限り無謀な事だと伝え聞いている。飛び道具の類も、毒も青年には効かない。どの殺し方も青年に気付かれ、必ず返り討ちに遭う。奇襲という結論に達したのは、自然な流れだった。眠れば誰しも無防備になる。男は宿場まで青年の背後をつけ、彼が寝静まる夜まで待っていた。
やがて期は訪れた。椅子の上で眠りこける青年は、時々意味の分からない言葉を呟いていたが、男の気配に気づく様子はなかった。夢の最中にいる今ならば。そう思った。見誤っていたのは男のほうだった。
「君達って皆そうだよね。ちょっと脅かしても、ずっと黙り込んで。もしかしてそういう決まり事でもあるのかな」
面倒くさいとでも言うように、青年は掴んでいた男の手首を折り曲げた。
「ばふぇ……の」
「なんだ喋れるじゃないか。その発音の仕方は彼の所だな」
男の顔色から、血の気が失せる。化け物は優しく微笑んだ。
「そんなに怯えなくても。僕だって荒事はしたくないんだ。可能な限り平和的に話し合いがしたいとも思っている。最初から素直に正体を明かしてくれたら、こんな事はしなかったよ?」
青年は、まるで生きて喋れるのであれば、どのような状態であっても良いとでも言いたげで。
「まずは深呼吸をして。そう。まずは安心してほしい、伝達係として君は生かす。だから君の命と引き換えに、
まるで世間話を話すような口振りの青年に、男は苦痛の中で困惑する。男の戸惑いを全く考慮せず、青年は長々と愚痴を言い続けた。
「間違って伝えられちゃうと困るから、何度か復唱してもらうんだけどさぁ、これが全然言うことを聞いてくれないんだ。君もそうなのかなぁ。ねぇ?」
『それはアル・カマル側では無いわよ、ルーシィ』
その言葉は、男への死刑宣告だった。
『やぁ、随分探したよ』
気怠げに戸口に寄りかかっているシルビアへ、ルーシィが気安い声で応じた。頭を押さえつけられた男が何事かを吐き捨てていたが、ルーシィは今度こそ完全に無視をした。アル・カマル側から差し向けられた刺客では無いと分った時点で、男の吐き捨てる言葉は彼の中で雑音と化していたようだ。それでも呻く男の頭を、ルーシィは数度床へ打ち付けた。叩く度に玩具のような悲鳴が漏れたが、やがて小さな呻きに変わった。更に数度殴る。静かになったと、ルーシィがにこりとした。
『……あなた、ここが何処か分っていて?』
溜息交じりの問いかけは、シルビアの胸中を如実に表していた。対してルーシィの表情はとても明るかった。
『もちろん。だからこの程度で済ませているんだよ。ところで具合が悪そうだね。いつもより体温が低いようだ』
シルビアが、にこりともせずに肩をすくめた。
『……誰かさんの人使いが荒いからよ』
『安眠できるように子守唄でも歌ってあげようか?』
『要らないわよそんな心遣い。子供でもあるまいし』
憮然とした面持ちで応じるシルビアへ、ルーシィは声も無く笑った。
『ところで、何処で油を売っていたのかな。約束の場所に現れないもんだから、IRISで呼びに行ったのに君はいないときた。今日はマルズィエフの屋敷にお泊りする予定じゃなかったのかな』
『それは悪かったわ。でも緊急の……IRISですって!?』
シルビアの口元が痙攣した。怒られることを予感し、ルーシィが身構える。表情は怒られる直前の子供のそれで。
『まず、冷静になって、そう、そう。怒らないでほしいんだ。というか、夜まで待ちぼうけをくらった僕の方が怒りたいくらいなんだけど……端的に言うとその、お陰で面白い収穫があったから、この事を不問にしてくれる?』
『……説明次第だわ』
怒気を押し殺した声に、ルーシィは胸を撫で下ろすように息を吐いた。
『……行方不明だった
ルーシィの表情には、笑みが消えていた。
『正直、僕も少し認識が甘かったよ。カッシート連合王国の直系にあたる国で、あのアルベルト・シュタイナー絡みときた。彼が終生を過ごした地だから何かあるとは思っていたけど……事が事だ。僕も君も、気を引き締めなくてはいけない』
それはかつて滅びた国と、実在していた学者の名。協会本部にある書庫の記録が正しければ、彼の国の歴史は古代戦争以前まで遡る。
カッシート連合王国は、当時アル・カマル皇国の皇都からアル・リド王国の王都にかけて存在していた国だ。今でこそ砂漠に埋もれ、かつての栄華は見る影もないが、当時は南方大陸最大の国家でもあったという。
かつて世界を二分した大戦争を引き起こしたワリス帝国を相手に、幾度となく衝突を繰り返し、戦渦を乗り越えた数少ない国家でもある。
しかし、大戦の終結と共に訪れた混迷の時代は、そんな強大な国家をも引き裂いた。戦渦による疲弊と、度重なる内乱により二つの国へ分裂したのだ。
一つは、カッシート連合王国の流れを汲むアル・カマル皇国。
一つは、反目した者達で創られた新興国、アル・リド王国へと姿を変え今に至る。やがて二国に分裂したカッシート連合王国は、歴史の表舞台から姿を消した。ここまでは、エル・ヴィエーラ聖王国の協会関係者なら誰でも知っている史実だ。
しかし、カッシート連合王国の
なぜか。
歴史資料の大部分をアル・カマル皇国が所持し、厳重に秘匿しているからだ。当然のごとく、写しはない。資料を管理しているアル・カマル皇国の皇族達が口を割らなければ誰にも分からない。この背景に、
『アルベルト・シュタイナーは大戦中期から末期において活躍した学者だ。彼の子孫と、アル・カマル皇国の皇族には深い繋がりがある。二者の関係について、協会は深く勘案しておくべきだった』
『上層部はどう言っているの?』
『まだ連絡していないよ。あまり連絡するのも考えものじゃないか、今度は僕らが身動きできなくなる』
『私達の動き次第では、無理やりにでも協会は介入してくるわ』
『ははは、厄介だ』
行動は迅速に。解決は穏便に。ルーシィとシルビアにとっては、強引な上層部の介入は好ましくなかった。
『好ましからざる状況なのは、僕達もこの国も同じなようだけれどね。いずれにせよ、穏便に終わらせたい。あまり刺激し過ぎると、僕らの意図しないところで
『二千年以上も眠っていたのよ。もう起きてこないわ』
ルーシィは、そうでもないと苦しそうな表情を浮かべた。
『起きる余地があるって言っただろう?』
それがルシュディアークという少年だとルーシィは言い切った。
『君はルシュディアークと接触したね。どう思った?』
古代王朝と、アルベルト・シュタイナーの血を引く少年。アル・カマル
二言、三言話すうちに、シルビアは彼への評価を一変させた。
『生意気な、年相応の少年。
『君は彼と剣を交えた訳じゃないのか』
今度はルーシィが眉を
『彼の
『あぁ、それね。厳密には違うものだったよ』
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