第三章 蒼き尖兵

守る意味

 開戦の報せは身近なところからも囁かれるようになった。国境付近から逃げてきたという行商の男が語ったのは、ルークが耳にしたものと全く同じもので。


「この国はいよいよもって危ない。逃げ場くらいは今のうちに確保しておいたほうが良いぜ」


 皇都ザハグリムの方角へ去ってゆく背中を眺めながら、ルークは表情を厳しいものに変えた。


(侵攻が早すぎる)


 せめてもう少し遅かったのなら、今でも城内で暗躍している他国と手を結ぶ者達を排することができたかもしれないし、ぎりぎりのところでアル・リド王国側と同盟を結べたかもしれない。


「イダーフ様のご命令は、果たせないかもしれませんね」


「あいつは果たせそうにもない命令は初めからしない主義だ」


「ですが今回ばかりは……戦争で同盟を組む意味がなくなった。我々が危険を冒して向かう意義が消えたのです。今更アル・リド王国に出向いて出来る事は、最早我々にはありません。いま少し立ち止まり、今後のことを考えてはみませんか」


「いいや、まだ交渉の余地は残されている。アル・リドが、我が国の鉄女神マルドゥークを欲している限りは、まだ」


「ガリエヌス王がお話をお聞きになられるかどうか……」


「ガリエヌス王とその弟、ロスタムならば聞くだろうが……サルマンが邪魔をするだろうな」


 眉をひそめたイスマイーラにルークは、


「あいつは過去の失われた文明にも、その文明が築いた力にも興味がないんだ。そんな男をどうして好いてしまったものかな、イブティサームは……」


 と、呟いた。イスマイーラが呆れたようなため息を漏らした。


「手詰まりではありませんか。それなのにまだ余地があると仰るか……」


 ルークは憮然とした面持ちでイスマイーラをねめつけた。


「兄上が俺に望んでいるのは廃太子としての役割だ。公的な同盟の交渉役でも、停戦協定を結ぶための使者じゃあない。勝手に失望されても困る」


「つけ入る隙を与えてしまう事になるでしょう」


「俺があの国にとって都合の良い走狗そうくになるかもしれないのも分っている。わかった上で、アル・リド王国に向かうと言っているんだ。国のためと思えば、なにほどのものでもない」


「成る程、国のためときましたか」


 イスマイーラが表情を曇らせ、やがて、寒々とした視線をルークに向けた。


「傲慢にもほどがある」


「なんだと?」


「ご自分の犠牲だけで全てが解決する。暫く見ない内に、聖人君子にでもおなりあそばされたか。それとも、剣と一緒に牙も折られたか。貴方の無茶な行動はどれほどの人間を傷つけたら止まるのです?」


 不穏な感情が、語気に宿っていた。


「ときに、我々兵士が戦う理由を考えたことがおありですか」


「守る為だろう」


「誰をです」


「……それは」


 答えられなかった。いや、答えようとした。答えようとして、察してしまった。察してしまったからこそ、ルークは何も言えなかった。イスマイーラのあまりにも鋭い眼差しに、ルークは気圧されたようにあとずさった。


「この国の全てです。私達に連なる家族や友、そして伴侶や多くの民の為だと何故お判りになられない。そんな我々を統治するのは他でもない、あなたがただ。だからこそ我々は昔から国と陛下へ忠誠と共に誓ってきたのです。命に代えてでも、国家の礎を守ると……なのに貴方はその礎を破壊しようとしている。ご自身の勝手な思い込みと独善で。そんなことも御自覚なさらず、人を殺す覚悟が出来ているだの、走狗いぬになる為に隣国へ身柄を明け渡すのだとのたまうとは。我々の努力を無にするおつもりか」


 馬鹿馬鹿しいと吐き捨てるイスマイーラの言葉は、ルークにとっては心外だった。周りから散々やめろと言われても歩みを止めなかったのは、兄の命令を実行するためだけではない。ルークなりに国を守ろうという想いがあったからで。


「今までの行動は、全部俺の独り善がりだとでもいうつもりか!」


「でなければなんだというのですか」


「俺は皇子だぞ。この国を守る義務がある!」


「ええ、何者にも代えがたい義務です。しかし自ら進んでこの国を窮地に陥れるのは、義務ではありません。至急、イダーフ様へご連絡し、今後の如何についてお尋ねしましょう。とりならばお命じ下されば手配いたします」


「兄上に連絡などしない!」


「殿下!」


「お前に俺の何が分かる! 何もわからないだろう、わからないのなら黙っていろ!」


 そう返すだけで精いっぱいだった。言葉にならない悔しさがこみあげてきて、苦しかった。顔を浅黒く染めたまま睨みつけるのへ、イスマイーラは剣呑な顔つきで口を閉ざした。


「……お取込み中もうしわけないけど、雷雲が迫ってる。続きは避難した後にしてくれないかしら」


 重苦しい空気を押しのけるように、竜がえた。様子見に出かけていたウィゼルが、二人の背後に立っていた。


               ※


 あっという間に空を埋め尽くした雨雲は、昼頃になると稲光を引き連れて大粒の雨を降らせるようになった。砂岩で丁寧に舗装された道は、いまや雨水に浸されている。ウィゼルが見つけた洞穴の中で雨露を凌いでいたルークは、天を眺めながら顔を歪めた。


(最悪だ。何もかも、最悪でしかない)


 舌打ちをしたくなるのを堪えながら土砂降りの街道から目を逸らした。瞬間、稲光が黒雲の中をはしった。一瞬の閃光。遅れてやってきた雷鳴が轟然と鳴り響く。腹の底を抉るような威嚇的な音に、アルルの巨躯が震えた。一振りで大人を何人も気絶させられる力を持つ尾は、今や情けないほど丸まり、後ろ足の間に挟まれて小刻みに震えている。強靭なあぎとも恐怖で閉じられ、顔をウィゼルの胸に埋めて情けない鳴き声を上げていた。その姿には、地上最強の戦闘獣としての威厳など微塵もなかった。


「何があったのか知らないけど、二人とも喧嘩は止めてよ」


「喧嘩なんかしていない」


 ウィゼルが深い溜息を吐いた。マルズィエフからの追手を逃れながら青の都から逃げ去り、漸く硝子谷近くの街道まで辿り着いたと思えばこれだ。呆れた様子の顔には、そういう本音が書かれていた。


「ただの話し合いですので、ご心配なく」


 イスマイーラのいつもと変わりない静かな口調が、今はどことなく冷たい。仲裁に入るのを良しとしない響きが込められているのを察し、ウィゼルは頷く以外に口を差し挟むのをやめた。ルークに至っては腕組をしながら寝たふりを決めこんでいる。お手上げだった。


「……それにしても、よく見つけましたね」


 長い沈黙の後、最初に切り出したのはイスマイーラだった。彼なりの気遣いだと気づいたウィゼルは、一瞬だけ困惑したような表情を浮かべ、竜を撫でる手を止めた。


「洞穴にしては随分と深いようですが」


「アルルが見つけたの、珍しく変なもので遊んでたから。この洞穴も、これも」


 ウィゼルがイスマイーラへ手渡したのは、暗緑色の石だった。彼の手にすっぽりと収まった石は、人の手垢に塗れた宝石のように濁っている。


「中に銀糸が混じってますね」


 イスマイーラの手に握られた石を、ルークは奇妙なものでも見るかのような表情で眺めた。混じり物の正体は分らないが、石自体はルークがよく知るものだった。


「緑晶だな、義姉上あねうえが好んで集めていた」


「緑晶?」


「砂の硝子だ。砂が高温にさらされて、急速に冷えて固まると緑色の硝子になるんだ。それを、俺達は宝玉になぞらえて緑晶と呼んでいる。硝子谷でしか見られないもののはずだが……此処で見つけたのか?」


「さぁ、アルルが見つけたものだから」


 掌大の石を弄びながらルークが首を傾げ、意味ありげにイスマイーラを一瞥する。その彼も、同様の何かを疑うような目つきで頷いた。


「何よ」


 不意に、酷い稲光が三人のいる洞穴を照らした。激しい閃光に目が眩む。間を置くことなく空を裂くような轟音が轟き、アルルが金切り声を上げた。二度の雷鳴が続く度にアルルが震え、三度目の雷光が洞穴の直ぐ近くへ落ちた。青白く強烈な光が三人の視界を奪う。暗転した視界の中、金切り声をあげ続けていた何かが暴れた。


「ちょっと、アルル!?」


 ウィゼルの叫びが洞穴の奥へ響く。遠ざかる足音は立ち止まる事すらない。白一色に染まった視界が色と形を取り戻した頃、彼女の腕に抱かれ、震えていた竜の姿が消えていた。


「ああもう! 探してくる」


 頭痛を堪えるように立ち上がった後姿へ、ルークは思わず苦笑を浮かべた。


「手伝おうか」


 混乱しきった竜を宥めるのには相当苦労するのだろう。ウィゼルが思案するように視線を彷徨わせ、やがて同様の表情を浮かべて苦しげに頷いた。


「お願いしようかな。イスマイーラは待っててくれる?」


「お気をつけて」




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