千里眼
一方、ウィゼルはアリーのテントを辞してからというもの、アルルから目を離せなくなってしまっていた。というのも、アルルが
「
それともお腹が空いたのか。アルルは相変わらずふごふごと鼻息荒く
空腹であれば、餌だ。野鳥や小動物の肉とカヤックの
竜は一度食べれば五日は飲まず食わずで活動し続けられる動物でもあるから、連れて歩くのは容易だ。しかし、空腹になると竜は一変する。
ウィゼルの見立てでは、アルルに空腹の兆候はなかった。
移動し続けたせいで疲れているのか、はたまた慣れない環境に興奮しているのかとも思ったが、そのどれにも当てはまらないように思えた。頭を傾げるばかりのウィゼルは、原因の分からないアルルの行動を機嫌と結び付けた。機嫌がよい時も、同じようにはしゃぎまわるからだ。
「随分ご機嫌だねぇ、あんたの相棒は」
困り果てたウィゼルに声をかけたのは、先刻までラダを振る舞ってくれたアリーだった。男物の服の上から更にぶかぶかの外套を羽織り、顔をすっぽりと
「さっきは悪かったね、お連れさんが気を悪くしてなきゃいいけど」
先刻、天幕内で交わされた会話のことだった。
「繊細な人じゃないから大丈夫よ」
一瞬、あっという表情を浮かべ、ウィゼルは小声で多分と付け足した。
あれからというもの、ルークとイスマイーラは真剣に何事かを相談し合っていた。詳しいわけは知らない。他を寄せ付けないほど真剣に交わされている会話に割って入る勇気は無かったし、首を突っ込んだところで「ウィゼルには関係ない」と言われるのが読めている。
(なのに。どうしてあの子は二人の間に入っていっちゃうんだろう)
ウィゼルは横目でアズライトの後ろ姿を睨んだ。時折、明るげなアズライトの声が耳に入った。ルークとイスマイーラ、そしてアズライトの正体を知っているからこそ、ウィゼルは微かな孤独を感じていた。彼ら三人はアル・カマル皇国という一つの共通項で繋がっている。それに対してウィゼルには何もない。
(ここまで導いたのは私なのに)
孤独感と嫉妬から逃れるようにウィゼルは彼らから目を逸らし、気を持ち直すように明るい声でアリーへ訊ねた。
「ところで、お出かけ?」
「そういうあんたもお出かけかい?」
手綱を握ってる。出かける準備万端じゃないかと、アリーが言う。
ウィゼルは困ったように首を振った。
「さっきからアルルがはしゃいじゃって困ってるの。ご飯食べさせたんだけど」
「おや、食が合わないのかい?」
「それはないわ。ずっと同じようなご飯だもの」
ほら。と、ガラの入った小袋を示した。ちょっと良いかいと、アリーがそれを手にし、中を改めて鼻をつまんだ。
「鶏肉と野鼠の肉と、カヤックの塊茎を加えて肉団子にしたの」
「竜の餌にしては量が少ないんだね」
「ううん、これだけじゃなくて、他に生の肉と、草もちょっとだけ与えてるわ。いつも、ユッカを食べさせてるの」
肉食の竜でも、少量の草を食べる。普段なら、竜の里に生えているような柔らかい草を食べるのだが、生憎アル・カマル皇国にはそんなものは無い。環境が異なるせいだ。ウィゼルは代用になる草を探し、アルルが興味を持った草を与えた。それがユッカという、ソテツのような草の葉だった。
「うんちには問題はないかい?」
糞尿を看るのは、動物の健康状態を確認する上で重要な意味合いを含んでいた。食べた内容物の中に異物が混じっていないか。胃や腸の調子や病気、寄生虫の有無などがあるか。人語を解すことの出来ない動物にとっては死活問題になるから、糞尿の確認は飼い主の務めでもある。それも変わりは無いと頷くウィゼルに、アリーは納得したように言い切った。
「なら、竜が落ち着かないのはユッカのせいだね」
決めつけと言ってもいいくらいの小気味よい調子で言い切ったものだ。
「ユッカってのは精のつく草でね、あたしらも
「大変って?」
「ユッカはね、興奮作用があるんだ。落ち着きがないのはきっと、そのせいだよ」
竜に当てはまるかどうかは分からないけど、ユッカを食べ過ぎた
「散歩でもしたら、少しは大人しくなるかもしれないねぇ」
「犬じゃないわよ、竜は」
半眼で睨まれたアリーが朗らかな笑い声をあげながら、良かったらついておいでと手招きした。
アリーに連れてこられたそこは、人気のない小さなオアシスだった。オアシスに水は無く、粘性の黒々とした泥が陽の下に晒されている。アルルがひび割れた大地を珍しげに前足でほじくり返しているのを眺めながら、アリーは明るい声でウィゼルへ訊ねた。
「ちょっとは竜の気もまぎれたかねぇ?」
気が紛れたというよりは、アルルの興味が土の方へ移ったようにウィゼルには思えていた。
「そういやあんた、故郷はエル・ヴィエーラなんだっけ?」
「そう、山の中なの」
ここに来るまでの間、ウィゼルはアリーへ幾つもの話をしていた。
ウィゼルがエル・ヴィエーラ聖王国の出身であること。
ただし出会ったいきさつと、正体についてはもっともらしい嘘を混ぜた。
そのお陰で四人に対するアリーの認識は、慣れない砂漠で
「……驚いたろ」
アリーが、彼方を見つめながら言った。何処か
「最初はね。でも、砂漠の国だってことは知ってたから、仰天する程でもなかったかな」
いいや、そういう意味じゃないと、アリーが真剣な表情で首を振った。
「戦争さ。こんなことが起こらなきゃあ、南カムールまでの近道を教えてやれたんだけどね」
「……やっぱり、酷い状況なの?」
暑そうに覆面を取り払ったアリーが、やれやれと言いたそうな表情で言った。
「死体で埋まってるよ、国境は。南カムールの連中と
惨状をあまりにも詳しく口にするアリーに、ウィゼルは唖然とした。
「まるで、見て来たような言い方ね」
「視えるのさ―――あたしの目はちょいと特別でね」
アリーが、悪戯小僧のように、にやりとした。
「視当てをしてやろうか?」
ウィゼルは、じろっとアリーの顔を見つめた。
「人の好みを言い当てる謎かけ遊び?」
視当ては遊びだ。ウィゼルも子供の頃に遊んだことがあった。
主に女の子たちの間で行われる遊戯で、謎かけをした人の好きなものを言い当てるという言葉遊びだ。遊び方は簡単。まず輪になって、かけ声とともに手を叩く。一番遅く手を叩いた人が謎かけをする。自分の好きな人や、好物など、みんなが分かりそうなものであれば何でもよかった。謎かけされる子達は、謎かけする人へ二つ質問できる。その後、分かった子から答えを言う。答えを言うのは一度きり。全員から言い当てられなければ勝ち。言い当てられたら負け。負けたら罰として、言い当てた人のお願いを聞くというものだ。
ウィゼルも幼馴染と何度か遊んだことがあったけれど、あまりにも単純すぎてすぐに遊ばなくなった。常日頃から遊んでいる相手だから、大抵のことは普段の行いを見ていれば分かってしまうし、なにより幼馴染は思ったことが顔に出やすい子だった。直感や単純な洞察力さえあれば、容易に解き明かせる謎かけしか出されないとくれば。ウィゼルはすぐに飽きた。
それよりも、追いかけっこやアルルと遊んでる方が楽しかった。
「そういう遊びじゃなくてね。例えるなら、占いや呪術に近いかねぇ。相手の目を見るとわかるのさ。あたしの目はね、相手の過去や、未来が視えるんだ」
ウィゼルが、胡散臭いと鼻を鳴らした。
「嘘だと思うなら、試してみるかい?」
「じゃあ当ててみてよ。たとえばそうね、私の
「声は無理だよ、あたしが視られるのは目から入ってきた光景だけなんだからさ」
凄そうに聞こえるけど、融通が効かないんだよと、アリーが苦笑した。
「じゃあ、私が子供の頃によく遊んでいた場所でいいわ。当ててみせて」
「いいよ、やってやろうじゃないか。睨めっこするけど、笑うんじゃないよ?」
半信半疑のウィゼルの顔を、アリーが覗き込んだ。その瞬間、一瞬だけウィゼルは視界の端で、小さな赤い光を見た気がした。
アリーの黒い瞳が、ウィゼルの瞳を覗き込む。真剣なアリーの表情に笑いだしそうになって、ウィゼルは慌てて頬を引き締めた。黒々とした穴のような瞳がウィゼルの目を捉えていた。黒みの中に微かな赤みを帯びている。もう少し赤みが強ければ、ルークのように目が赤いんだろうかと思いながら、ウィゼルは無表情でいる事に集中した。不意に、アリーが口を開いた。
「へぇ、
アリーの瞳が揺れる。まるでウィゼルの瞳を通して、
「……変だね」
「何か視える?」
「……視えるには、視えるんだけどね」
それっきり、黙ってしまった。ウィゼルの瞳の中を凝視し、視えるものの正体を懸命に探っているような仕草をする。まるで、病気の原因を探る医術士のような面構えで、じっとウィゼルの瞳を覗き込んでいるものだから、ウィゼルの方が不安になってきた。
「質問なら答えるわよ」
本当に視えているのならと、ウィゼルは胸中で付け加えた。アリーは応えない。顔が僅かに緊張し、唇が震えていた。
「あんた、小さい頃に住処を変えたりしたことは無いかい?」
「あるわよ。それがどうかしたの?」
「いや……うん、大きな生き物が視えるんだよ。こんなのあたしは見たことないんだけどもね。エル・ヴィエーラには居るのかねぇ」
ふいに、アリーが息を飲んだ。それはまるで演技というより、本当にウィゼルの中の何かを覗き見ていているようだった。そのアリーへ、ウィゼルもまた、表情を曇らせた。
(アリーが息を飲むほどの光景って、一体なんだろう)
記憶にある
「いや……いや、うん。子供の頃の記憶だしねぇ」
低音の、警戒するような獣の唸り声。ウィゼルの身体は、とっさに動いていた。黒くなる視界と、両手が重い物を弾き飛ばした感覚。襲い掛かってくるような激痛が右肩にはしった。
「魔族だったの、ね」
「……あんた、」
「だい、じょう、ぶ」
アルルに右肩を噛まれた。呼吸しているのも辛いほどの痛みが、全身に広がる。ウィゼルは
(アルルに落ち着きがなかったのは、機嫌がよかったからじゃない)
魔族が、アリーが傍にいたからだ。
「アルル……」
興奮したアルルの鼻息が頬にかかった。生臭さの中に、鉄臭さを感じた。関節のあたりを噛まれたのは、不幸中の幸いだった。首の近くを噛まれたら、死んでいたかもしれない。ウィゼルはアルルの頭を、左手でそっと撫で続けた。アルルが震えている。ほのかに暖かい首をさすると、弱々しく唸った。さするたびにアルルが震えた。叱られた子供のようにアルルが鳴いた。そのたびに、肩からどっと、血が溢れる。服が、じっとりと濡れてゆく気持ち悪さと、気の遠くなるような痛みの中で、ふっと、ルークの顔が浮かんだ。
「怒る、かな……」
何も言わずに、勝手に出歩いてしまったことを。馬鹿じゃないのかというルークの声が、聞こえた気がした。
アルルが身じろぎした。強張った
「アリー、布、もって、ないかな……」
硬直したままのアリーと目が合った。瞬間、アリーは弾かれるように覆面を取り去ると、それを裂き始めた。
「傷口に当てればいいんだろう!?」
「それから、」
「いいからあんた、喋るんじゃないよ!」
アリーが顔を真っ青にしながら、ウィゼルの右肩に布をあてがう。あっという間に、どす黒い赤色が布と、アリーの手を染めた。あまりにも酷い形相のアリーを眺め、ウィゼルは薄く笑った。やがて、薄れゆく意識の中でウィゼルは思った。もう少し、ルークと一緒にいられるかもしれないと。
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