イスハークのアリー

 乾いた大地が彼方まで広がっていた。遠くの空に滲むように岩山がそびえている。その麓から蟻のような列が伸びていた。南カムールからの避難民だ。賑やかなはずの声は、吹き荒ぶ風に遮られるほど静かだ。撤去された住居の跡や無数のわだちが残る大地を、ルークはこれからを案じるような目つきで眺めた。


(北カムールの東地域ですら、南カムールの民が列を作っている。防衛線が下がりはじめた証拠だな)


 軍の用意が整わなければ、この国はじきにアル・リド王国に飲まれるだろう。


(それまで、はもつだろうか)


 国境でいまも戦っている者達は、国が徴用した正式な兵士ではない。山羊や駱駝らくだなどの家畜を放牧し、砂漠を行き交う行商との交易で生活している遊牧民ベドウィンだ。戦争とは縁遠い生活を営む彼らは、もう一つの顔を持っている。


 としての側面だ。食物の生産、補給、交易による経済活動や情報の交換を自給自足で賄い、女も子供も家畜をぎょし、外敵に対応するための武にも秀でる。移動生活のおかげで拠点は常に変わり、彼ら独自の連絡網も持っているとなれば、これはもう、移動する小さなそのもの。そんな彼らのが、兵士としての役割を与えられるようになった理由でもある。


(けれど五年前の内乱のせいで、今のカムールには戦える奴が殆ど残っていない)


 五年前のこと。北カムールと南カムールを横断する砂漠の交易路、オアシスの道の大半を一時的に封鎖しなければならないほどの異常事態があった。


 遊牧民ベドウィン同士の争いだ。

 北カムールは領主のニザルが。南カムールは将軍のアクタルを筆頭に、カムールは北と南で分裂した。

初めは水の取り合いだったらしい。これに加えてニザルとアクタルの、の仲の悪さが状況を悪化させ、大規模な争いを招いたという。その争いのせいで内乱前は一万にもおよぶ遊牧民ベドウィンの戦士達が内乱終結後には三千名まで数を減らした。あまりにも酷い状況を憂えた皇主カリフスレイマンは、自らの軍勢を率いてカムールまで直々に出向くまでに至ったという。このあたりの記憶は、ルークもよく覚えている。


(後にも先にも、あんな父上は初めて見た……)


  砂漠の真ん中で争い合うニザルとアクタルへ、スレイマンは二万の弓兵と槍騎兵を差し向け、しまいには投石器を数度放って黙らせた。そして凄まじい剣幕で両者に停戦を命じた。初めに蒼い顔をしたアクタルが白旗を上げ、続くようにニザルが降伏し、オアシスの道を封鎖するほどの内乱は幕を閉じた。


 そして、五年後いま


 カムールの戦士達の数が大幅に増減したという報告を、ルークは耳にしていない。さらに南北カムールの関係が改善された話も、耳にしていない。渋面を作ったルークの隣で、イスマイーラが穏やかな声を発した。


「もう、宜しいのでは」


 微かな戸惑いの混じった視線は、ウィゼルへ向けられていた。


「やっぱり、行くの?」


 それは、覚悟の問いかけだった。アル・リド王国が開戦したという事は、アル・カマル皇国と同盟を組むつもりが無いということに他ならない。ともすれば同盟のために捕虜となるはずだったルークは不要となる。胸に広がるどうしようもない悔しさを押し込めるように、ルークは大きく息を吸いこんだ。そしてなんでもないような顔つきで、ウィゼルへ言った。


「ザハグリムからエル・ヴィエーラ聖王国行きの船が出ている。身分を明かす合札があれば、規制されていても乗せてくれるはずだ。荷運びチャスキなら、アルルも乗せてくれるぞ」


 ウィゼルが、胡乱気な眼差しを向けた。


「アル・カマル皇国からエル・ヴィエーラ聖王国までの渡航代、知ってる?」


「いくらだ」


「銀貨二十枚。身分証明用の合札は銅貨十枚。何年働くか分ってる?」


 奇妙な表情を浮かべ、ルークはいつのまにか値上がりした船賃について首を傾げた。


(渡航代が銀貨十枚。身分証明用の合札は銅貨が五枚だったような)


 元々エル・ヴィエーラ聖王国への行き来は規制しているけれど、船賃をつり上げるまでの処遇まではしていない。せいぜい出入国審査に手間取るくらいだ。


(それでも身分証明用の合札があれば問題は無いはず)


 しきりに頭をひねる姿を誤解したらしく、ウィゼルがあり得ないようなものを見たような表情で、イスマイーラへ囁いた。


「ねえ、ルークの金銭感覚って、どうにかならなかったの?」


「特にお教えしなくても、お判りだと思いますが」


 イスマイーラの応えに、ウィゼルは溜息を吐いた。


「皇子様の感覚と、庶民の感覚は違うわ。ねえルーク、銀貨はどのくらいの価値か分かってる?」


「銀貨一枚で皇都のうまや付き宿を、一晩三食付きで一月ひとつき借りられる」


「銅貨が何枚で銀貨一枚になるかわかる?」


「五十枚」


「ちなみに貨幣の価値が最低のものから最高のものを順で言って」


「玉貨、銅貨、銀貨、金貨」


「荷運び《チャスキ》の給料を知ってる?」


「知らん」


「玉貨三十枚。一年休みなく働いてようやく銀貨一枚が手に入るの」


 ウィゼルが、わっと声を荒らげた。


「ほーら、こんな状態よ!?」


 イスマイーラはがっくりと肩を落とした。アズライトに至っては、ぼんやりと三人のやり取りを眺めている。全くの他人事だった。頭痛に堪えかねるような顔つきで、イスマイーラは後悔の声を上げた。


「お教えするべきでした」


「民草の給金がそんなにとは知らなかったんだ」


 ルークの憐れむような視線に、ウィゼルがとうとう爆発した。


「元とはいえ皇子様なんだから庶民の足元も理解してくれないと困るわよ!」


 したらこのやるせない気持ちが分かるから!と、駱駝らくだの子供に追いかけられている牧童を指さした。顔色が悪くなったのは、ルークではなくイスマイーラだった。


「何よ、元皇子に仕事をさせることに文句あるの。イスマイーラ」


「いえ……小さい頃はよくああやって、駱駝らくだに追い回されたことがありましたので」


「お前がか」


「子供の頃の話です」


 子供を追い回していた駱駝らくだの方へ視線を向け、イスマイーラは途端に表情を凍りつかせた。駱駝らくだが長い首を伸ばし、子供の襟首に噛みついていた。興奮しているのか、頭を無茶苦茶に振って子供を引きずり倒している。その光景を目の当たりにしたイスマイーラは、ボラクを走らせ、あっという間に駱駝らくだの首に縄をかけた。

牧童の声が、動物の奇矯な悲鳴に塗りつぶされる。ぱっと、砂煙が舞った。立ち上った砂埃が風に吹きさらわれると、四肢を投げ出したままの駱駝らくだの姿と、尻もちをついた牧童の姿があった。


「怪我は?」


 牧童が金壺眼かなつぼまなこを瞬かせ、やがて頷いた。

顔を上げた牧童が少年ではなく、妙齢の女性であったことに気付き、ルークが別の意味で目を丸くした。彼女の成りは女性というより、少年のような恰好をしていたものだから。のろのろと立ち上がり、座り込んだまま動かない駱駝らくだを彼女が引っ張った。


「駄目だこりゃ、完璧に腰抜かしてるよ……悪いんだけど、家まで連れてきてくれないかい?」


 参ったと嘆く彼女へイスマイーラが、困ったように肩を竦め、ルークへ視線をやった。


「断れるわけが無いだろう」


 片方は気難しそうに黙り込み、片方は喜色を浮かべた。また、面倒が増えたと。


 彼女はアリーといった。南カムールに住んでいたイスハーク氏族の女性が案内したのは、そんな彼らの営地だった。


「昔から家畜の扱いが下手でね。面倒は男共がやってたからさ」


 あたしは手伝うくらいでさと、アリーが朗らかに笑む。その手元には、とろみをもった乳白色の液体が器の中で湯気を立てていた。ラダという紅茶と駱駝らくだ乳脂バターを混ぜた温かい飲み物だ。ルーク達は駱駝らくだを御してくれた礼として、アリーからのもてなしを受けていた。


「けど、動物相手ってのは、なかなか思うようにいかないもんだね」


 動物に関して共通する想いがあるのだろう。苦笑するアリーへ、ウィゼルがしみじみと頷いた。


「ときに、ご家族は。老人や子供ばかりしかいないようですが」


 集落に若い男の姿がなかったのは、一体どういうわけか。

いるのは元服前の子供達と腰の曲がった老人達ばかり。珍しく若い男を見たと思えば、男装をした女だった。これには全員が目を丸くした。


「戦地さ。アクタル様と一緒だよ。皇主盟約って、あんたらは知らないか。ここいらじゃあ有名な話でね、あたしらは有事になったら国境やオアシスの道を守れっていう勅命を受けているのさ。あの皇主カリフ自らが発したんだよ、南と北カムールの領主へね」


 その時が一番大変だったと、アリーは溜息を吐いた。


「このカムールはね、五年前まで北と南で争っていたのさ。とある事件のせいで領主同士の仲が悪くなっちまってね。一時期は行商すらカムールを避けて通るなんて有様だったくらいでさ。あんまりにも酷いんで、皇主カリフが大勢の弓兵と槍騎兵を従えて、投石器までぶち込んで止めたのさ」


 あれは酷かったと語るアリーの横で、ウィゼルが何とも言えない視線をルークへ寄こした。


「随分酷い王様ね。そうなる前に話し合いをしたらよかったのに」


 無駄だよと、アリーが苦笑を浮かべた。


「そうまでしなけりゃあ止められなかったのさ。荒くれもんばっかりだからね。そんときに、皇主カリフに命じられたのさ。互いに争うくらいなら、いっそ、国境を越えて攻めてきた敵を相手にしろってね。でもさぁ、つい最近まで殺し合いをしていた相手に背中を預けるなんて、難しい話と思わないかい。若い連中はちょいと違うようだけどさぁ……」


 納得顔で頷くイスマイーラへ、アリーはラダを注ぎ足した。それを丁寧に受け取ったのへ、アリーはおやという顔をした。


「あんた、遊牧民ベドウィンだろう?」


「ええ。南カムールの出でした」


 途端に、アリーが朗らかに笑んだ。同郷の馴染みを見つけた表情だった。


「どこの氏族だい」


 イスマイーラが、口ごもった。彼にしては珍しい態度に、ルークは目を見張った。そして、絞り出すような言葉に表情を苦くした。


「南カムールの、シリルです」


 アリーの表情が、さっと、変わった。


「……大変だったろう?」


 ほんの一瞬、表情がかげったイスマイーラを、ルークは冷たいものを飲みこんだような顔つきでみつめた。


(触れてほしくない話題だ)


 シリル氏族が辿った運命。その一端を知っていたルークは、イスマイーラの内心がどんなものかを想像して寒気を覚えた。そして、願った。

どうか、これ以上は彼の過去に触れないで欲しいと。問いかけそのものがイスマイーラの古傷そのものだったからなおのこと。ルークの願いは、どこにも届かなかった。


「シリル?」


 それを発したのは、アズライトだった。


遊牧民ベドウィンってのは、家名代わりに出身氏族を名乗るものでね。それで大体何処の誰かが分かるのさ。シリルっていうのもその一つでね、南カムールとアル・リド王国の国境付近にいた遊牧民ベドウィンのことを指しているのさ。そりゃもう、ここが強いので有名だったんだから」


 ぺしっ、と二の腕を叩き、アリーが口元をほころばせた。剣の腕なら南カムールに並ぶものなし。シリルは氏族揃って武に秀でていた。


「アクタル様とニザルの仲が悪くなったのもね、それが原因っていわれてるんだ」


 話しちまうよ、いいねと、アリーはイスマイーラに視線を向けた。諦めたような顔つきで、イスマイーラは小さく息を吐いた。


「詳しいところまではあたしも分からないけどね。アル・リド王国っていう隣の国の貴族様が、シリルに難癖をつけたらしいんだよ。国家間同士での大問題に発展するような大事だったらしいんだけどね。シリルの長の身柄を寄こせとかいうもんだから、事態を重く見た南カムールの領主のアクタル様は、シリルをかばったのさ。難癖付けてきたのは、貴族の方だからね。シリルは悪くないのさ。でも、ニザルはそれを良しと思わなくてね。貴族様がシリルを懲らしめてやるって言って聞かないもんだから、ニザルが同意しちまったのさ。で、シリルの居場所を教えちまった。それを知った時のアクタル様の怒りようは、そりゃああんた、凄いものだったよ。ニザルと戦ってでもシリルには手を出させないと息巻いていたけれど。でも、そんなアクタル様でも、シリルをかばいきれなかった」


 アリーは、憐れみのこもった眼差しでイスマイーラへ言った。


「あんな目に遭って、よく無事でいたよ」


 イスマイーラは暫く黙ったまま、俯いていた。やがて、苦笑を浮かべた。


「もう過ぎた事です」


 だから、もう触れないで欲しい。それきり、イスマイーラは表情の変化どころか、感情の片鱗すらも顔に現すことはなかった。それが、彼の中の哀しみを耐えているというよりも、あえて考えないようにしているようにルークには思えた。


「しかし、困りますね。領主同士の不仲を我々が原因のように言われると」


「そこまで言っちゃいないよ。ただね、シリルのことさえなかったらって思っている奴も大勢いるってことさ」


 アリーが苛立つように溜息を吐いた。


「知らない奴は、勝手なのさ。勝手に想像を膨らませて、勝手に噂をばら撒く。それを、真偽の分からない連中が受け取るのさ。それをあたしに言わないでおくれよ」


「ならば貴女だけでも控えて頂きたい」


 はっきりと言い捨てた姿へ、ルークは一瞬、気圧されたように息を飲んだ。互いにとって、良い会話ではないと、初めからイスマイーラは予防線を張っている。残念ながらそれは全て、アリーによって踏みにじられてしまった。


(普段なら、鋭い切り返しがあってもおかしくないというのに)


 その彼にしてはあまりにも、冷静で、穏やかすぎている。アリーもまた、問題だった。彼女は共感を求めて会話をしているふしがある。決して、同郷の者としての見解を述べている訳ではなく。南北カムールの対立に頭を痛めているという訳でもなく。北カムールに対する不信感と嫌悪を惜しげもなく晒している。


(これではまるで、目的の無い感情だけの会話だ。同意を示せばシリルの悲劇にかこつけて、北カムールへの不満をこぼすに違いない)


 そう察した瞬間、黙って会話に耳を傾けていたルークは更に居心地の悪い感情を味わった。イスマイーラの顔面に、微かな感情が張り付いているのを見てしまったからだ。口元が微かに歪んでいる。笑みではなかった。間に割って入るべきか、ルークは迷っていた。


「大元をただせば、国へ密告した北カムールのニザルが悪いのさ。ちょっと考えればわかるだろう。シリルの連中が、アル・リド王国の貴族を怪我させたんだって言ったらどうなるか。それを知っていて喋っちまったんだあいつらは。こんなの裏切りさ」


「北カムールも南カムールも、シリルの側からしてみれば一緒ですがね」


 吐き捨てた言葉に、彼の感情の一端を見た気がした。


「でもそれは―――」


「ラダに使っている茶葉は、何処の産地のものなんだ?」


 とっさに口をついて出てしまった。不自然だというのは自覚している。けれど、ルークは黙っていられなかった。


「……モルテザ産のやつだよ。甘ったるいから、合うんだ」


 アリーが目を白黒させる。イスマイーラですら、突然の話題が変わった事についてゆけず困惑していた。ルークはそれでいいと思っていた。むしろそれこそが狙いだったからだ。


「名産地だな、結構値が張るだろ」


「そうでもないよ。ここいらはオアシスの道だからね。交易商の類なんかがひっきりなしに往来してくだろ。その道中で古くなっちまった茶葉とか、高く売れそうにないものを安く売ってくれるのさ」


 ルークはそうだろうと頷いた。オアシスの道は交易商達の要路だ。大抵の品物はオアシスの道を通って他国へ流れ、またはこの国にやって来る。国境の砂漠を越えるためにオアシス周辺の遊牧民ベドウィンを頼り、より安全なルートで交易品を運んでゆくのだから。たまに安く買い取ったものを商人が遊牧民ベドウィン相手に売りさばくこともある。その逆も珍しくない。今飲んでいるモルテザ産の茶葉も、そうした交易品の一つだ。ルークは堪えるような顔つきで、一気にラダを飲み干した。味はひたすらに塩辛い。


(イスマイーラにしても、アリーにしても、遊牧民ベドウィンというやつは塩辛いのが好みなのだろうか)


 とても二杯目を飲もうとは思えなかった。

ふと、空っぽになった器の中で、不意に覚えのある匂いを嗅いだ。金臭いような、嫌に鼻に残る匂い。ふ、と。アズライトに目をやる。遥か古代の超技術で造られた人形は、傍目から見ても何を考えているのかも分からない無表情を張り付けている。


(そういえば。匂いを知っていそうなやつが他にもいたな)


 ルークは天幕の外へ意識を向けた。駱駝らくだの声に混じり、アルルの鳴き声が聞こえる。鼻を鳴らすような甘ったるい鳴き声だった。またウィゼルを呼んでいるのだろう。親を恋しがる子供のような声を出すのだから、あまり気にも留めていなかった。でも、今日はいつもよりうるさい気がした。




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