脱出計画

「それを聞いて安心した。俺も父上のような愚は起こしたくないし、根も葉もない噂もされたくない」


「そうね、妙な噂は立てられるべきじゃないわ、不本意だもの」


 言葉とは裏腹に、ウィゼルの瞳には微かな興味を示す光が宿っていた。何かを言いかけようと口を開き、逡巡した後に再び口を閉ざした。


「それにしても素晴らしい眺めね―――思わず


 窓際に立ち、眩しそうに切れ長の双眸を細める。窓枠で区切られた景色と、色素の薄い彼女の髪と肌が夕日の色に溶け合い、まるで一枚の絵画のようだった。


「飛び降りたとして、着地はどうする」


 口から吐き出したのは、ウィゼルや景色への賛辞では無く酷く現実的なもの。浪漫の欠片すらないそれを、ウィゼルは表情も変えずに受け入れた。


「そういえば二階だったわね、ここ」


 窓の傍に木の一本でも生えていれば、木を使って屋敷から脱出できるかもしれないと思っていたけれど。思うほど現実は甘くなかった。脱出を望めるような木は近くに一本も生えていない。


「シルビアに連れてこられた時点で察するべきだったかも」


 ウィゼルが半眼でルークを睨んだ。


「こうなったのも、ルークがついてきちゃうから……」


「ウィゼルが後先考えずに行動するからだ。俺のせいにするな。どうする、まさか下の生垣に飛び込むつもりか?」


「おおむね、貴方の言う通りよ。正確にはちょっと違うけれど」


 窓枠と生垣を交互に眺め、数秒だけ影を凝視する。そのウィゼルの口から、「まだ余裕があるわね」という小さな呟きが漏れるやいなや、窓辺にかかっていた日除けの紗を引きはがし始めた。


「何をやっているんだ」


「繩を作るの」


 日除けだった布達を無造作に放り投げながら、ウィゼルが気楽な声で応えた。ルークが理解しがたげに首を傾げた。

部屋中の紗布の日除けを切り裂いて繋げても地面までは届かない。飛び降りるにしても高さがあるのでは怪我をしてしまう。困惑しているルークへ、ウィゼルは当然のような面持ちで声を上げた。


「怪我をしないだけの高さまで繩を伝って降りられたらいいのよ。そうしたら、後は生垣を着地台代わりに出来るでしょ。紗布だから強度はちょっと心配だけど、窓から直接飛び降りるよりは良いはずよ。一緒に逃げるつもりならルークも手伝ってちょうだい」


 ウィゼルが腰に吊り下げていた短剣を、ルークへ手渡した。


「それで布を裂いて。裂き終わったら縄になるよう結んでちょうだい」


 そう言うと、ウィゼルは再び日除けを取り払う作業に没頭しはじめた。渡された短剣を手に、ルークはウィゼルの後姿から伸びる影に目を細め、床に散らかった日除けに手を伸ばした。

日中の気温によって温められた布はほのかに暖かく、軽く撫でるとさらさらとした実に気持ちの良い感触を返してくる。明らかに高価そうな布だった。一瞬の躊躇とまどいの後、ルークは布へ刃を滑らせる。布は面白い程よく切れた。よく切れるのは良いが、少し握っただけで手が疲れた。原因は柄にあった。大抵の刃物の柄は、五本の指と掌で握る為に作られているから角は丸く、握りやすい形をしている。武器としての用途を求められている刀剣類は特に、敵の額をかち割るという使い方が出来るよう、柄の先の剣首の形状は尖っているのが普通だった。


 しかし、ウィゼルから渡されたものは違った。


 柄の部分が角ばっていて握りづらい。剣首は平面で、刃のついた釘のような形をしていた。三枚目に取り掛かろうと日除けを手にしたルークは、早くも指の疲れを感じ、手を止めた。


「断ち切ったら、半分こっちに寄こしてくれる?」


 日除けをすっかり取り払ってしまったウィゼルが、ルークへ左手を差し出す。白く細い指は、節々が固く、武器を握る者の手をしていた。


「二人分の体重を預けるにはこころもとない。布を二重に繋げるのはどうだ?」


「悪い提案ではないけど、布が足りないわ。短くちゃ意味が無いのよ」


 ウィゼルは器用に布の端同士を結び、勢いよく引いた。布が小気味いい音を立てる。ルークも見よう見まねで同じように結ぶ。ぐちゃっとなった。口で説明された時は簡単なことだと思っていたものだけれど、実際にやってみると非常に難しかった。まず端と端を結ぶのに苦労する。結び付けても今度は固く結びつかない。悪戦苦闘する姿にウィゼルが苦笑を漏らした。


「私がやるから貸して。ルークは今のうちに脱出経路を考えて」


「脱出経路といってもな……」


 幼い頃に幾度か父に連れられてマルズィエフの屋敷を訪れたことがあっただけで、隅々までは把握していない。それにと、ルークは腕を組んだ。


「窓から出るんだから、頭を悩ませる必要がないとおもう」


「じゃあ兵士は。見張りがちゃんといるんでしょう?」


 ウィゼルが器用に最後の布を結び付け、手を止めた。彼女の手元には、二人の倍以上もある背丈の縄が出来ていた。


「さっきはルークが皇族だからって理由で武器を取られずに済んだけど……逃げ出すときは皇族だから大人しく見送ってあげようって配慮はしないわよ」


 問題はそこだった。主であるマルズィエフからして、二人を外に出したくないと考えている。逃亡を許してくれるとは思えない。


「肝心の見張りの位置を俺は知らないんだ。だから見つからないように逃げるしかない。見つかった場合も、逃げるしかない」


「逃げながら脱出経路を見つけるわけ?」


「そうなる。というか、それしかない。正面切って兵士達を相手にしても勝ち目はないだろう。奴等は、戦いの専門家だぞ」


 ウィゼルから手渡された繩を重そうな長椅子の足に括りつけながら、ルークは気難しい表情を浮かべた。


「生垣に隠れて泥棒みたいにこそこそ隠れてやり過ごすしかないわけね」


 不満げに口を尖らせるウィゼルへ、概ねそんなところだと、ルークは肩を竦めた。


「――――もうすぐ日没だ。時間が無い」


 長椅子に括りつけた縄を窓の外に垂らし、ウィゼルは下に誰もいないのを確認すると、さっと縄を伝っておりはじめた。暫くすると、下の生け垣が微かな音を立てた。眼下にわだかまる薄暗い闇の中からウィゼルが手を振っている。ウィゼルへ向けて一つ頷くと、ルークは慎重に繩を伝い、屋敷の壁を足掛かりに降り初めた。繩がきしんだ。布の材質が薄いせいで強度に不安を感じていたが、体重のせいで破れてしまうなどという事は無かった。縄の途中まで降りると、足元の気配に注意を払いながら生垣へ飛び降りた。細い枝と草が騒がしい音を立てて派手に散らかる。痛みと震えを誤魔化すように起き上がると、既に先行していたウィゼルが面白くなさそうな表情を浮かべ、塀を背にしてルークを待っていた。


「貴族が高い塀が好きなのを忘れていたわ」


 ウィゼルが見上げた先には、自分達の身長の三倍もある塀が屋敷の向こうまで続いていた。


「皇族も高い塀が好きでな……城のよりも低いが、俺達では飛び越えられない」


アルルでも無理ね。塀を破壊するので精いっぱいってところかしら……呼ぶ?」


「迂回する」


 屋敷から抜け出る道はあったかと思案しながら、ルークは胸中で首を傾げた。生垣にあれだけ派手に飛び込んだのに誰も来もしないのは奇妙で。

気が付いていないのなら、間抜けにもほどがある。唐突にウィゼルがルークの服の裾を掴み、厳しい表情を浮かべた。


「いるわ」


 暗がりの中で、ウィゼルが目を細めた。


「二人かな、多分」


 暗がりの中で長い耳を器用に蠢かせ、視線は小さな広場へ向けていた。


「簡単にはいかないか……なら北側方向へ逃げる。一番近い退路は、」


 背後から聞こえてくる足音を耳にしながら、ルークが苦々しい表情を浮かべた。


「これからやってくる奴等の後ろだ」


「その他は?」


「残念ながら」


 挟まれた。ルークは前方からやってくる見張り達をみつめた。見るからに軽装の男だが、腰に半月刀シミターを一本ずつぶら下げ、こちらに歩いてくる。二人に気付いている気配は無い。幸いなことに、闇が二人の味方をしてくれているようだった。


「こうなったら潰すしかないわね」


「通り過ぎるまで待つという選択肢はないのか?」


「暗闇の中でじっと待つのも良いかもしれないけど、どうだろう。まだちょっと明るい気がするけど」


「明るい?」


 ルークの目には、十分な闇が広がっていた。目視で標的を発見するには、難が生じてきているのに。ルークが不思議そうに、首を傾げた。


「俺には、十分暗いように思えるが」


「ルークは夜目が利かないから仕方ないけど、まだ辛うじて見えるわ―――ひょっとして、怖い?」


「いいや。怖いというより増援を呼ばれたら面倒で」


 兵士はしぶといんだとルークは付け加えるように囁いた。




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