逃れ、逃れて、迷走する

 息を殺して壁に背を預ける。右手は剣の柄を握っていた。前方からやって来る兵士の歩みが遅い。一歩、一歩が、まるで亀の歩みのようでたまらない。彼らが通り過ぎるまでの数分間、壁に隠れて待つというたったそれだけの行為がルークには苦痛で仕方なかった。


(俺達に気付くな、早く通り過ぎろ。そして、さっさと何処かへ行ってしまえ)


 長く伸びる影へ腹の内でそっと吐き捨てる。徐に、ウィゼルが顔を上げルークを一瞥した。聞こえてしまっただろうか。声には出していないはず。泡のように浮かんだ思いは直ぐに否定された。とがめる声も非難がましい視線も無かった。壁の向こうから影だけが二つ、ゆっくりと近づいてくる。前からやって来る影は長く、後方からやって来た影は、やけに小さかった。


「おい」


 影が発した声に、ルークはぎくりとした。狼狽したルークからの視線をウィゼルが流した。返答の代わりに、彼女は目を瞑って応じる。胸中穏やかでは無いルークとは対照的に、ウィゼルは弓弦に手をかけたまま、銅像のように座り込んでいる。


「ここは入ってきていい場所じゃない。立ち去んな」


 その言葉は、ルークとウィゼルに向けたものではなかった。


「悪いネ、人探しをしていタら迷ったんだ」


 なんて耳障りな声なんだろう。小さな影が発したものは、人間のものとは思えない酷い声だった。まるで言葉を覚えたばかりの鳥が人の声真似をしているような。意志の疎通をする為だけの目的で無理やり喉からひり出されたような声を、ルークは一度も聞いた事が無かった。


(そもそも、これは人間の声だろうか)


 いや、違う。むしろ、血の通った生き物では無い何かだ。

 では、その何か、は一体なのだろう。


 ルークが僅かに顔を上げようとするのを、ウィゼルが小突いた。非難がましい目つきで首を振る。動くな。声も出すなという合図だった。


「シルビアを探しテいる」


 小柄な影が、あの女の名前を難なく発した。


「あの姉ちゃんの連れか?」


 男の声色が、若干、変わった―――と、思った。

 変化は微々たるものだ。他者の感情に敏感な人間でなければ気づかない類のものだろう。しかし、ルークにはその感情に覚えがあった。猜疑だ。

彼の胸中にあるのはシルビアに対する猜疑か、或いは、影に対する不信か。何れにせよ、この兵士はどちらに対しても、良い感情を抱いていない。


「彼女はドコに。と言えバ解る」


 イリスと名乗った影は、知らないふりをしているだけなのか。明確な疑いの眼差しを向けられているというのに、動じる素振りは微塵も感じられない。


「ここには居ない。行き違いになったな」


「ボクは、彼女の現在地ヲ聞いていルのだけド。知らなイのデあれば、そノ回答は適切では無い。シらない、その一言だケで十分ダ」


 思ってもみなかった指摘に、戸惑う気配がした。返事をし直せというのならばまだしも、回答がおかしいと指摘されては「はぁ、そうですか」としか応じようが無い。困惑する兵士を盗み見ながら、ルークが苦笑を浮かべた。


「まぁ、その……シルビアの連れなら、屋敷の外まで案内するがね?」


 それを聞いたイリスの声色が、微かに優しげに変わった。


「悪いネ、お気遣いドウも」


 微笑を浮かべてはいたが、その目は一切笑っていなかった。

 その視線は、ルークとウィゼルの隠れている壁へ向けられていた。

 ウィゼルが身を強張らせ、息を飲む。彼女の持つ弓弦が、微かに軋んだ。


「何か?」


 まだ面倒でもあるのかと、兵士が胡乱気な視線を向けた。

 面倒事があっては困るといった類の感情が声色に滲んでいた。それを感じ取ったのか、イリスが漸く、人形のような顔面に”初めて”感情の欠片を浮かべた。


「何もないヨ。ナにもネ」


 庭園の奥へ三つの気配が遠ざかってゆくのを感じながら、ルークは微動だにしないウィゼルに首を傾げた。


「どうした?」


 返答は沈黙で返された。先刻までとは違った様相をいぶかしく思いながら、ルークはウィゼルの言葉を注意深く待った。


「……気づいてた」


 鉛のような空気が震えた。


「あのイリスって子、とても嫌な感じ」


 根拠は無いけれど、もう一度逢ってはいけない気がすると、ウィゼルは言う。

 

「気のせいである可能性は?」


「無いわね。完璧に気のせいだったら、こっちを見て微笑んだりしないもの」


「……微笑んだ?」


 ウィゼルの言葉を反芻はんすうしながら、ルークが首を傾げた。


「見てなかったの?」


「いや、暗くてよく分からなかった―――ただ、」


 気付いたことが一つだけあった。イリスの体から漂っていた匂い。

何処かで嗅いだ覚えのある、薬のような刺激臭。奇妙な表情で立ち止まったルークへ、ウィゼルが怪訝な視線を向けた。


「何?」


「……いや、なんでもない」


「気になるから、些細な事でもいいから言って」


 珍しくウィゼルが剣呑な声色で言い放ったのに、ルークが面食らってしまった。


「急にどうした?」


「いいから!」


 真剣に話を聞くというよりは、その声は明らかに焦燥を帯びていた。視線を彷徨わせ、目を細めた。あれを、どう言葉にしたらいいのか。結局口に出来たのは、酷く抽象的な言葉だった。


「……ウィゼルと初めて出会った場所と同じ匂いがした。金臭いような、しけったような」


「金臭い?」


「いや、たぶん俺の気のせいだ」


 胸中は気になって仕方がなかった。あれは、何の匂いと言っていただろうか。アサドならきっと、答えてくれる気がした。


「なっ、殿下!?」


 庭園の端で、驚きの声が上がった。溜息と共にウィゼルが頭を乱雑に掻き毟る。ルークは溜息をついた。互いに顔を見合わせ、走って来る足音を背に駆け出した。






当サイトに掲載されている写真、イラスト、文章の著作権は早瀬史啓に帰属します。無断での複製・製造・使用を全面的に禁止します。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る