遠きを望み、近くを望まず
「それで今後の事なんだけど……ねえ、やっぱり、アル・リド王国に行くの?」
遠慮がちに訊ねたウィゼルの顔には、賛同しかねるといった類の色がありありと浮かんでいた。
「ウィゼルは
「悪いけど、アル・リド方面には、最近行っていないのよ。でも、ジャーファルと同じような話なら聞いたかな。国境付近には頼まれても近づくなって」
ルークは息をのんだ。
(アル・カマル側の目撃者を殺してゆけば、王国軍側の規模と位置を悟られることはない。侵攻の際の戦力も削がれることも無いな)
発見者を殺める際、一定数の人員と武器があれば良いだけで、特別なことは何一つ必要ない。勝敗は一瞬で決するだろう。なにせ相手は一人か二人。多くても十人以下。それ以上の人数で囲ってしまえば、どれほどの手練れでも敵うまい。それが散らばって、なおかつ民に扮して行動していたのだとしたら。
(人の口を封じることが出来る。ああ、宣戦布告状の一枚でもあったのなら準備を整えられていたはずなのに)
攻められると分かっていれば国境付近にいる兵士達の心も随分と違ったものになっただろう。予期せず戦争の始まりを軍鼓と敵兵の矢で知る羽目になった兵士達は、今頃泡を食っているに違いない。
(アル・カマル皇国はいま、目と耳を隠されているようなものだな)
攻めてきたアル・リド王国軍の規模も、布陣している位置も、どんな兵がどんな武器を持ってきているのかも分からない。これがどれだけの不利をもたらすものなのか。
(いや、待てよ。目撃者を全員殺して回るのは、少し無理があるのじゃないか?)
のべつまなく探すのか?
あの、アル・リド王国とアル・カマル皇国の国境付近に広がる
隠れられる場所がないのなら確かに目撃者を全員殺せるだろうけれど、生憎と国境付近は平野ばかりの土地ではない。岩山も砂の丘も、遺跡の残骸も散乱している。隠れられる場所は幾つもある。それに、
(……まだ、目と耳は塞がれていない!)
不意に、脳裏に国境付近に居を構えている友の姿が浮かんだ。
「余計なことかもしれないけど、貴方がすることじゃないわ、大人しくここに居た方が良いと思う」
「他人任せには出来ない」
城や屋敷にいては絶対に手遅れになる。そうなる前に、早く手を打たなければならない。一刻も早く屋敷を抜け出す必要があった。
「あのね、ルークが一人で出来るような事じゃないから止めているの。ルークがアル・リドに行く、行かないで済むような話じゃなくなってるのよ、これ」
「わかってる」
「だったら馬鹿な考えは止めなさいよ」
「マルズィエフもジャーファルも信用して、全てを預けろと? 冗談じゃない、あいつらは他国と繋がっていたんだぞ、任せていられるか」
ルークは苛立ったように扉へ視線をやった。がっちりとした木造の扉があった。その扉に、親指を挟めるくらいの隙間がある。そこから、影が見え隠れしていた。誰かが立っている気配を感じて、ルークは眉をしかめた。気配を探るように隙間をみつめる。そっと、扉が閉まった。そして、重い物がはめ込まれた音がした。
「ウィゼル、気付いたか?」
「何が?」
「あの
何度も押し開こうとしてもびくともしない扉へ、ウィゼルは忌々しげに鼻を鳴らした。
「……あのおじさん、やっぱり嫌いだわ」
「同感だ」
ルークが憮然とした面持ちで扉を軽く押す。鍵でもかかっているのだろう。掌を伝い返ってくる感触は、固い。
「……これからやることに目を瞑っていてくれたら、大分助かる」
「何をするつもり?」
「開かない時は、大抵こうすると開く」
扉から少し離れ、助走をつけて蹴りを入れた。扉が外れてしまいそうな程の凄まじい衝撃、揺れる扉に舞う埃。天井から砂くずのような埃がパラパラと降ってくる。渾身の力で蹴り飛ばした扉は、ルークの靴跡をつけたまま閉じていた。足の痛みに悶えているルークへ、ウィゼルが呆れたような声を上げた。
「……冷静になったら?」
「……城のは、開いたんだ」
海よりも深いため息がウィゼルの口から洩れた。
「皇族って、もう少し上品だと思ったんだけど……」
「品があるなどという思い込みは今すぐ捨てるべきだ。幻滅する」
「もう幻滅してるわよ」
ウィゼルが、呆れたと呟いた。
「脱出するならもうちょっと考えるべきよ。暴れて脱走でもしてみなさいよ、屋敷の警備をしている奴等に取り押さえられるわ。それに、あのシルビアに出くわしたら、もっと怖い目に遭うかもしれない。だったら、穏便に、おじさんが来るまで待つっていう方法も――――」
「それだけは駄目だ。待っているんじゃ、らちが明かない。俺達がこうしている間にも、大勢の者達が殺されているかもしれないんだぞ」
「……ここから国境までどのくらいかかると思ってるの。一日遅れても、さして状況なんて変わらないわよ」
「あのな」
ルークが半眼で振り返る。険しい表情のウィゼルが、そこに居た。
険しいというよりは、怒りか。感情による怒りというより、どちらかと言えば理性からの戒告に近い。
「頭に血が上り過ぎてる。ちょっと考えてみれば分かることも、今の貴方は分からなくなってる」
「俺は冷静だ」
ウィゼルが、窘めるように首を振った。
「あの人達がルークを脅してまでここに連れてきたのは、戦争をルークに止めてほしいからじゃない。貴方がアル・リド王国へ向かう事で、アル・カマル皇国は抵抗する手段を失ってしまうから止めてほしいってお願いだったのよ。だって、ルークは皇子なんだよ。廃嫡されたからって、貴方に価値がなくなったわけじゃない。むしろ、敵にとっての利用価値が増すの。対立している国からのこのことやって来た貴方から情報を吐かせる方法なら、いくらでもあるのよ」
「―――じゃあ、誰がやるんだ?」
誰が、皆を達を助けられるんだ?
こんな状況を知っているのは、自分とあの場に居た三人、そして、イダーフだ。イダーフは動いて然るべきだったとルークは思う。しかし、現実を見ればどうだ。警戒どころかアル・リド王国軍が来ていた事すら気付いていなかった。
「俺が個人的な感情だけで動いていると思ったら大間違いだ」
ぎらつく刃のような声でルークが言い放った。ウィゼルが眉を上げた。
「へぇ、そう」
氷のように冷たい声がウィゼルの口から洩れた。ルークが初めて聞く声だった。その中にどんな感情が渦巻いているのか、考えなくても分かっていた。ルークの無理解に怒りを覚えている。そういう類の声だ。重苦しい沈黙と、身を裂くような冷たく鋭い空気が二人の間を流れる。窓辺から差し込む夕日が存外に眩しく、ルークが目を細め、長い溜息を吐いた。
「……どちらにせよ俺はここにいる気はない。ウィゼルだって他人事じゃあないぞ。身柄を拘束された後、どうなるか分かったもんじゃない」
「私だってこんなとこに居る気はないわよ。でも、一晩位でどうにかなる訳じゃあなし」
「それこそ問題だ。アサドとカミラが心配し始める」
「あの二人は私の保護者でもなければ、家族でもないわ」
「それでもな、心配する。家族じゃなくても」
恐らく、何日も街中を探し回る位はする。面倒見のいいアサドは、やるに違いない。子供扱いされるのは納得がいかないけどと、ウィゼルが小声で呟いた。
「……まぁ、そうね」
「それから、異性と同室で、最悪一晩明かすことになるかもしれない事についてだ」
不意に、ウィゼルから表情が消えた。
「私に手を出したら、解っているでしょうね?」
「わかってる」
ほんの少しだけ本音を言えば、ウィゼルに対して男としての情動を揺すぶられるところはあるのだけれども。彼女の美しい容姿に加え、負けん気の強い性格は、今まで関わった異性の誰よりも魅力的に映っている。しかし、実際に行動を起こそうという気は、いまのところない。
それにもしそういう状況になったらウィゼルは戸惑いなくアルルを呼ぶだろうし、アルルは忠実に主の命令を実行するだろう。たとえアルル を呼ばなくても、弓矢で脳天をぶち抜く位は、平気でやる。ウィゼルとはそういう女だ。
「弓で脳天をかち割る女に誰が手を出すか」
「そういう否定のされ方をされると、女としてはちょっと自信が無くなるわね……」
「……何かしてもらいたいと?」
「そんなわけないでしょ!」
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