大蛇の影
ルークは闇の向こうに目を凝らした。おぼろげな月明かりに照らされた黒い大地の上に大蛇のような影がある。うねうねと蠢くそれが馬の声で
(満月でもない夜に移動することは、余程の事情が無い限りしないはず……)
夜目の利く者でも慣れていないと方向感覚を失って迷子になってしまうためだ。ルークも幾度も月の出ていない夜を歩いた事があるけれど、その時はウィゼルとアルルがいた。猫のように闇を見通せる目を持っているおかげで、夜でも迷わずに歩くことが出来た。けれど目の前に在る騎馬は違う。明かりを持たず、月光と自身の夜目と、馬の足音だけを頼りに隊列を組んで歩いてくる。ただ者ではない男達がまっすぐ、イスハークの
「坊や、天幕に戻りなさい」
隣でひそやかな談笑を楽しんでいた老婆が、穏やかに言った。他愛のない会話はとうに途切れていた。老婆達の視線は、騎馬の方へ吸い寄せられるように向けられている。
「忘れ物を届けてからでもいいか?」
ラビが置いていった木箱を見せると、老婆が顔をしかめて首を振った。
「後にしなさい」
老婆の口から緊張と、わずかな恐怖の混じる息が吐き出された。
「おばあちゃん、お母さんがご飯出来たって」
女の子が着崩れを起こしたイスハークの民族衣装を引きずりながらやって来ると、老婆へにこりとした。
「お腹空いたから早く食べよう?」
老婆が応じることは無かった。無言で女の子の手を取ると、引きずるように自らの天幕へ帰っていった。彼女たちだけではない。外に出ていた者達はみな一様に、厳しい面持ちを浮かべて騎馬の方へ顔を向けている。
ある者は、影を睨み。
ある者は、震えながら帰ってゆく。
異様な光景―――ラビに読んでもらった
(ひょっとしたら、ハリル達かもしれない)
数人の騎馬がイスハーク達の天幕の前で馬を止めているのを見ると、ルークは眉をひそめた。南北カムールの騎兵達が使うのは砂上戦闘を得意とする
(じゃあ、あれは)
唐突に肩を軽く押された。しわだらけの老女の手が、ルークの肩を押したのだった。顔を上げると、気の強そうな老女が鋭く囁いた。
「早く帰りな。絶対に寄り道するんじゃないよ」
戸惑うルークの背中をもう一度、老女が急かすように揺する。突っぱねる意志は老女の真剣な眼差しに負けてしまった。
天幕へ急いで戻ると、目を丸くしたアリーがいた。なにかを訊ねようとした瞬間、外から朗々と声が響いた。
「我ら、アル・カマル皇国軍偵察支援隊イブリース。氏族の長なる者に用向きあり。氏族長はいないか!」
目元を赤く腫らしたウィゼルが、弾かれたように顔を上げた。視線はルークへ向けられている。イスマイーラが表情を固くした。口を引き結んだまま剣の柄を握り締め、そっと、天幕の出入り口に身を屈める。近付けば斬るという態度に、天幕内にいた誰もが身を固くし黙り込んだ。
静寂の中、天幕の外にいる何者かの話し声がよく聞こえた。
「イスハーク氏族長ウラスが妻、サラームにございます。主人は戦場にて。戻るまで
朗々と響く
「夜分遅く失礼する。俺は偵察支援隊イブリース隊長、タウル。皇主盟約による我が軍への協力に感謝する。我々がここを訪れた理由は、ある程度把握されていると思うが……サラーム殿は、ご存知だろうか?」
「……詳細までは存じかねますが、ある程度は。イスハークの故郷は、南カムール。我らの故郷が戦場になっていることくらいでしょうか。して、我がイスハークに用向きとは?」
「アル・リド王国軍との戦闘において物資が不足していましてね。幾分か恵んでいただきたいのです」
タウルの堂々とした物言いに、会話を聞いていたルークは、イスマイーラの様子に首を傾げた。
(同じ軍属にありながら、なぜ、剣を握り締めたまま、絨毯を恐ろしい目つきで睨んでいる?)
その時、タウルが言い放った。
「我々へご助力願いたい」
「……南カムール領主アクタル様は、支援物資の件をご存じなのでしょうか?」
「無論。アクタル様からの要請である」
サラームが息をつめた。この二人のやり取りを間近で眺めるものがいれば、かの有名な言葉を思い浮かべたかもしれない。
”蛇に睨まれた蛙。”
講ずる手段が無いまま震えるしかないサラームは、まさに、そういう状態に陥っていた。きっかけは、タウルの一言だ。
”物資が不足していましてね、幾分か恵んでいただきたいのです。”
サラームに言わせれば、あり得ない事だった。
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