そして、歯車は廻る

 その頃、アル・カマル皇国の皇城ではとんでもないことが起こっていた。


皇主カリフ、スレイマン崩御!」


 その一報がカダーシュの耳に入ったのは、アル・カマル皇国第二皇子ルシュディアークが秘密裏に埋葬された翌日のこと。


 皇主ちちが伏せっていた臥所がしょを眺め、カダーシュは声もなく肩を震わせた。その背中を見れば誰しもが愛別離苦あいべつりくむせび泣いていると感じるものだが、彼の表情は、悲しみというよりは努めて無表情であろうと懸命に唇を噛みしめ、奥底から無作為に沸き起こる感情と戦っているように見えた。いや、カダーシュは、またとない幸運に身を打ち震わせていたのだった。


 カダーシュにとって、皇主ちちは父親と呼ぶには相応しくない存在だった。皇主ちちが死の病を患ったと聞いた時、カダーシュは胸がすくような思いがしたし、思いつく限りの罵詈と雑言を自室で皇主ちちに向けて吐き捨てた。生まれてから呪い続けていた神へ、初めて感謝をしたものだ。


(これで、あの男からの支配は終わる)


 カダーシュを見知る者が青褪めるほどの憎悪を抱くようになったのは、昨日今日の話ではなかった。憎悪の種は母という存在から無理やり引きはがされた時から、芽吹いていた。その芽を育て、純粋な憎悪として成長させるに至ったのは、紛れもなく皇主ちちの所業だった。

カダーシュは子供ではなく、として在らねばならなかった。夜毎妻にすらなれなかった女の代わりに、父の腕に抱かれねばならなかった苦痛は筆舌にし難い。地獄のような日々の中、誰一人としてカダーシュの救いを求める声に応じる者はいなかった。


 しかし、ルシュディアークや、ルシュディアークの母シャリーア、そして乳母のセレンと共に居る一時だけは、カダーシュにとっての小さな救いだった。いまにして思えば、シャリーアとセレンは事情を知っていたのかもしれない。カダーシュが必要とあればルシュディアークの居室で夜を明かし、あの男から逃れて過ごすことができたのだから。

異常な日常の中の、唯一の心安らげる時間だった。

しかし、シャリーアが亡くなった途端、あの異常な日常が戻ってきた。加えて最悪な事に、カダーシュの成長にしたがい、もう一人の継母の視線が皇主ちちと同様の含みのあるものに変わっていった。これには嫌悪を通り越して殺意すら抱いた。だが幸いなことに継母はイブティサームの死をきっかけに継母は狂い始め、今ではモノを言う人形となり果てた。


 そして、今日。

 何度も死を願った皇主あのおとこが死んだ。

 救いようのない死病に侵されて。


 もう、母の代わりをしなくてもいい。そう考えただけで口元が緩みそうになる。大声で笑い出したい衝動を堪えるのがいっそ、苦痛で仕方がなかった。けれど喜びを表すわけにはいかなかった。この部屋にはカダーシュだけが居るわけではなかったのだ。


義兄上あにうえ、ご公務はもうよろしいのですか」


 カダーシュは背後で長椅子に腰を下ろし、ぼんやりと窓の外を眺めている長兄、イダーフに声をかけた。表面を取り繕うのは得意だった。

イダーフは、臥所がしょに設えられていた長椅子に深々と身を沈め、疲労の混じった溜息を吐いた。若々しく精悍な面立ちに、見栄の良い体格をした偉丈夫だが今は蓄積した疲労のせいでいまは見る影もない。その容貌からは在りし日の皇王ちちスレイマンの面影が見てとれた。

カダーシュの最も嫌な容姿だった。


「公務は山のようにある。あるが、こんな時でもなければ休めぬ」


 長椅子からはみ出た腕が言う。


「……そなたは一度も父上の見舞いには来ようともしなかったが、正解であったな。見ずにおれたそなたは幸いだ」


 イダーフに背を向けたまま、カダーシュは憎々しげに顔を歪めた。


「人の形を通り越しておったわ。看ていた医者が気の毒であったよ」


 病床にいる間ですら、全身の激痛に呻く声と、呪詛のような譫言うわごとのせいで医術師や看護をしていた者達が精神的に参ってしまい、暇を願い出た者が数名出たことを思い起こした。


「治る見込みのない死病です」


「今更思い悩んだ所で時間の無駄にしかならぬな。だが、今の私には一秒だけでもいい、無為に時間を過ごしていたい気分でな。あれは昔から父と呼ぶには難儀をした男だったが、それでも見るに堪えた。そなたは昔から父上には近づこうともしなかったが……」


「僕が父上を心の底から憎悪し、とうているとお考えなのならば、それは、はっきりと誤解であると申しあげます」


 取り繕ったカダーシュに、イダーフが僅かばかり歪んだ表情を浮かべた。その表情の意味するところがカダーシュには分りかね、二の句を告げようと口を開いた。


義兄上あにうえ、僕は、」


「もうよい。それ以上語らずともよい。その話はこれまでだ。それよりも先ず今後の事を考えねばならなかったな。勿論、そなたにも手伝ってもらわねばなるまい。いやでもだ。皆、一丸となって取り掛からねばこの国の先は無い」


 実際その通りだった。皇主ちち身罷みまかったのであれば、保留状態で積み上げられた問題が雪崩となってこちらに押し寄せてくる。想像にやすかった。


「そうは申されますが、ここ最近の城内の一件や元老院の派閥争いのせいで父上の後を守り立てるなど厳しいのではありませんか。我々は不幸なことに沢山の派閥に別れ、各々の思惑で皆が別々の方向を向いてしまっている。一丸とならねばならぬ今この時ですら」


 溜息を吐くと、続けた。


「あの西守は後ろ手に何をしているか分かりませんし、第四騎兵の長に至っては金勘定に余念がない有様。その上、ついこの間は隣国からは二人も使者がいらっしゃったではありませんか。些か問題の数も大きさも瑣末さまつと呼ぶには難がありすぎます。こんな状態でまとまるなど不可能では」


「第四騎兵の長は更迭した」


 イダーフ、実にあっけらかんと言うものだ。これにはカダーシュの方が耳を疑った。


「今、なんと?」


「金勘定と保身の欲に塗れた騎兵の長などいらぬ。腰の剣が泣くと言ったところ、愉快な事を口走ったのでターリクに引き渡した」


「愉快な事、とは」


「他国と内通していた。じきにターリクから何か言ってくるであろう」


 は 西守の得意分野だったと、ターリクの別名を思い出し、カダーシュは顔を青くした。続く言葉で地獄を蓋の隙間から垣間見る。


「殺さぬだろうが四肢ししは無くなるであろうな。あのターリクとて、耳と口と命だけ残してやるくらいの優しさとは持ち合わせているはずだ。安心するがよい」


 顔面から血色を失せさせたカダーシュへ、イダーフが面倒そうな表情を浮かべた。


「大方王国か、聖王国のどちらかの使者とでも繋がっているのだろう。何度も必死になって我が国にやってくるのだ。買収してでも欲しい情報というものは、いくらでも我が国に転がっているからな。例えば、旧時代の置き土産だとか」


 王侯であれば誰でも知っている。アル・カマルが大国に挟まれながら、なおも国として存続できているその理由。


 (鉄女神マルドゥーク……)


 古代戦争期、或いはもっと古い時代に、人類によって造られた神のごとき。それを、アル・カマルは代々、という名称で呼び習わし継承してきた。


(問題は鉄女神マルドゥークが未だにで上空にしていること)


 不運なことに鉄女神マルドゥークを封印させる術は無いと聞く。

 所有するアル・カマル皇国にも封印させる利点が無く、むしろ封印した方が不利益甚大とあっては、このまま放っておくよりほかない。たまらないのはアル・カマルの周辺諸国だ。いつ脅威となるか分からない旧文明の置き土産マルドゥークが隣国の上空に漂っているのだから。

下手にアル・カマル皇国へ攻め込めば火に油を注いでしまう。どうにか穏便に事を済ませたいと幾度となく他国から使者が訪れ、お決まりの文句を並べて最後には肩を落として出国してゆく。かくしてアル・カマル皇国の鉄女神マルドゥークは、周辺諸国の長年のによって、今日も待機状態きけんなじょうたいのまま空を漂っている。今日までアル・カマルが大国に飲まれず存在していられるのは、ひとえにこの危険極まりない鉄女神マルドゥークのお陰だった。


「だが問題はどちらの国と内通したかではない。どちらも耳聡く、どちらも我が国にとっては脅威となりうる。それは向こうにとっても同じ。どちらと内通していたかと暴いても予想通り過ぎて興醒めする結果になるのは目に見えている。私が問題視したのは、何をどの程度他国へ伝え、城にどの程度買収された者が潜んでいるのかだ」


 イダーフが薄く笑う。


「仕事が増えるのは歓迎すべきことではないが、全てを見過ごしてやるほど慈愛に満ちてはおらぬ。それに、ただ無策と言うわけでも無い」


「お考えが?」


「あるが、言えぬ」


 今はな。と、イダーフはどこか遠いものを見るような目つきで呟いた。


「ところでカダーシュよ、そなた、皇位に興味は無いか?」


「唐突に何を言い出すのかと思えば……父上が亡くなったせいで気でもお狂いになられましたか」


「いいや? 本気だが」


 カダーシュは眉をひそめた。皇主カリフスレイマンの第一子であるイダーフが、皇位継承権を他人に譲るとはなにごとか。


義兄上あにうえは、皇主カリフになりたくないのか?)


 いや、そんなはずはない。積極的に政事へ参加している長兄が、皇主カリフになりたくないなどと思っていないのは、はた目からでも分かる。それに、周りの者も、アル・カマル皇国の皇主カリフはイダーフ以外あり得ないと、ルシュディアークが第二皇子として存命中から皆口々に囁いていたのだから。


(もし、僕が次期皇位継承者候補として名乗りをあげたら……)


 当然、イダーフと皇位継承権を巡って争うことになるだろう。当然、カダーシュを擁立しようとする輩も出てくる。妾腹の皇子と謗られ続けているのだから、集まってくる輩の考えそうなことなど知れている。そこまで考えたカダーシュは、はっとする。


「もしや、義兄上あにうえは僕に買収された者どもの炙り出しをせよと、おっしゃっているのですか?」


「聡いな」


 イダーフは、あっさりと認めた。


「城内の者がそなたをどう言っているのか、もう気が付いているのであろう。であれば、その立場、買収された者を炙り出す為に利用しない手はない」


「……しかし義兄上あにうえ、僕を買いかぶり過ぎてはおりませんか。元老院の愚か者共を出し抜ける頭を、僕は持ち合わせておりません。それに対外的にはいかがなされるのです、あの二国は売国奴を一掃するまで待ってはくれませんよ」


「そこは心配要らぬ。国王ガリエヌスに使いを出した。半年もすればつくであろう」


(悠長な)


 カダーシュが下唇を噛んだ。半年もあれば交易販路を縮小させ、もっともらしい名目で経済的な圧力をかけにくる。もし、そうなってしまえば海洋資源はありこそすれ、土地そのものに資源の少ないアル・カマルはひとたまりもない。更に空いた手で侵略に十分な兵をアル・カマル皇国に送り込み、後は勝利の無い戦争へ一直線。胸糞が悪くなるほどの悲劇だと、カダーシュは胸中で毒づいた。


「確かに我が国との交流は盛んにありますし、何より父上とアル・リド国王、王弟ロスタム殿下とは懇意にさせて戴いておりますから、きちんと話し合いの場を設ければガリエヌス様も聞く耳を持ってくれるでしょう。アル・リド王国への使いには何と」


「そなたは気にせずともよい」


「今は国の大事ではありませんか。義兄上あにうえと同じ皇族の一員である僕にも現状を把握する義務があります。お話いただけませんか」


「今更聞いたところで、そなたには何も出来ぬ」

 

 カダーシュは一瞬だけ、顔を歪めた。誰も彼も、皆何かあるとこうやって煙に巻く。不義の子とはいえ、皇族の末席に位置する人間の筈なのに。これではまるで幼児と同じ扱い。いや、むしろそれよりも悪い。

まるで城には不要と言われているのと同じではないだろうか。しかし、一方で何故か安堵してもいた。これが責任からの逃げでしかないのをカダーシュは自覚している。




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