ホルフィスの女

 オリビアは速かった。とてもアサドに投げ飛ばされたとは思えない程の鋭い斬撃がきた。それらを紙一重で逃れると、オリビアが踏み込んでの刺突を繰り出した。喉元へ迫る刃を剣の乱杭歯で受け止める。ガチンッと、鈍い金属音が夜闇に響いた。がっちりと噛み合った刃を絡めとろうとした瞬間、オリビアは剣を引いた。相殺しあう力の一方が消え、前につんのめったルークの首元へ剣が振り降ろされる―――はずだった。


「何……?」


 遠吠えの、犬というよりは化け物じみた鳴き声が、オリビアの剣を止めた。はっとした瞬間、ルークとオリビアの頭上を重いものが飛び越えた。間もなくして馬の悲鳴が響いた。不自然に音は途切れ、やがて荒々しい獣のような呼吸音と骨ごと肉を咀嚼そしゃくする不気味な音が聞こえてくる。


(何かが居る。獣のような、何かが)


 闇の向こうをじっとみつめた。黒い影のようなものがある。馬と同じくらいの大きさの何かがそこにいる。その影が、ぬっと、首を上げた。

月明かりに照らされたのは、わにのような顔と、つるりとした表皮に覆われた蜥蜴とかげのような体を持った生き物だった。何かの液体で口と喉を汚しながら、ぎょろりとした瞳をオリビアへ向けている。


「竜……ですって?」


 それは、翼の無い竜だった。


「アルル!」


 鋭い女声と矢がスフグリムの肩を射抜いた。応じるように竜が唸る。咥えていた肉塊を放り出し、スフグリムへ吶喊とっかんした。


「今すぐ魔法クオリアを止めろ、死ぬぞ!」


 慌てふためいたスフグリムの前に竜の頭があった。まだ幼体の、生えかけの小さな角が腹にめりこむ。スフグリムの口から奇妙な声が洩れた。人形のように投げ飛ばされるスフグリムを、竜が嗤うようにいた。威嚇いかくでもなければ求愛でもない、その声はの声にも似て。もっとも竜の行動は、じゃれあいと称するには随分と暴力的だったけれど。これに顔色を失ったのはスフグリムとオリビアの方だった。


「逃げるぞ!」


「まだ任務が終わっとらん!」


「相手をよく見て。竜がいるんじゃ分が悪すぎる。死ぬつもりか!」


 尻尾を振りながら二人を眺めている竜を一瞥すると、スフグリムが呻いた。

十の文句を言ってもまだ余りあるといった風体で差し出した手を、オリビアが握る。その頭上を、矢がかすめた。オリビアは怯むことなくスフグリムを馬の背に乗せると、そのまま馬を走らせた。


「追わなくていいよ、アルル」


 二人を追いかけようとした竜を、優しげな少女の声が引き止めた。

竜はスフグリムとオリビアが去った方角と少女を何度も見比べ、やがて哀しげに一声いた。そんな竜の鼻面を、少女は愛おし気に撫でる。

その少女は、アル・カマルではあまり見かけない容姿だった。月光によく映える白金の髪に、色素の薄い珍しい金色の瞳。彼女の長く尖った耳は、エルフである事を示している。彼女は称賛の言葉が自然と口を吐いて出てしまうほどの美しい少女だった。ただ美しいだけではない。その弓の腕も相当で。常人では不可能に近い暗闇の中で、矢を正確に放てる技量は、並大抵のものではない。


「助けてくれた……の?」


 カミラが、あんぐりと口を開けたまま竜と少女を見上げた。竜が大きな目を瞬かせ、何を言っているのだろうと不思議そうに首を傾げている。

少女はカミラには目もくれず、真っすぐにアサドに駆け寄った。


「ちょっと、大丈夫?」


 揺すぶられたアサドは薄くまぶたを開け、少女にもわからない何事かを呟いた。


「刺されたの?」


「いや、魔法クオリアだ。赤い光を浴びて、いきなり苦しみだした」


魔法クオリア……」


 アサドをみつめる少女の顔に、微かな驚きが広がった。


「アサド……?」


「知り合いか?」


 少女は静かに頷いた。


「昔馴染みなの。何を言ってるの、呻いてちゃ分からない」


 額を軽く叩かれたアサドがうめいた。


「血が、痛い……水を、水をくれ、頼む」


 ルークと少女は顔を見合わせ、首を傾げた。二人は神妙な面持ちで考え込み、やがて、ルークが切り出した。


「傍に川があったな。何か、水を汲めるものはあるか?」


「水筒ならあるけど……何に使うの?」


「血を洗い流す」


 何を言うかと思えばと、少女が呆れた表情をした。


「血を洗い流しただけで治るとは思えないわ」


「治るかどうかは別にして、アサドの浴びた血が痛みの原因なら水で流せば少しは痛みを和らげてやれるかもしれない。試さない道理はないと思う……それより竜を少し離れた場所に移してほしい、気が気じゃない」


 ルークは周りをうろついていた竜を睨んだ。獰猛どうもうな肉食獣が鼻息を荒くしているさまは、恐怖を感じるには十分過ぎた。

気分を害したのか、少女がむっとした。


「見境なく人を襲うほどアルルは区別のつかない子じゃないわ」


「助けてくれたのは感謝するが、飼い主としての配慮をして欲しいと言ったんだ」


 少女が不機嫌そうに何かを言いかけると、二人を押しのけてカミラが間に入り、二人を睨んだ。


「二人とも喧嘩は後でやって。今はアサドの怪我を治すのが先でしょ」


 二人は妙な表情を浮かべ、やがてばつの悪そうな顔で少女は水筒をルークに差し出した。やはり同じような苦い表情をしたルークが受け取り、ふたを開け、アサドに水筒の水をそっとかける。

アサドの体に飛び散った血を洗い流すたびに、血がいばらのように手に刺さった。まるで薔薇ばらの棘を触っているような感触だった。困惑しながら血を洗い流していると、掌がぼんやりと輝き始めた。やがて、むせ返るような金臭い匂いが漂い始めた。三人が、はっと息を飲んだ。


「赤い、光……?」


 カミラの声で我に返ったルークは、慌てて手を引っ込めた。手に、淡い光が滲んでいた。ルークが触れていたアサドの腕にも、赤い光が灯っていた。かとおもえば、瞬く間にすーっと消えてゆく。


「なに、いまの」


 少女の声が震えた。カミラもまた、ルークの手を眺めたまま呆然としている。その中で、アサドが瞼をうごめかせた。


「……ウィゼル?」


「さっきぶりね、アサド。御加減いかが」


 ウィゼルと呼ばれた少女の声は硬かった。


「痛みが、消えた?」


 アサドはぼんやりとしたまま、手を眺めていた。


「水で治った、のか……?」


 状況が理解しづらいらしいアサドは、なんとも言えない目つきで三人を見上げ、やがて少女に目をやった。


「助かったぜ、ウィゼル」


「……体の具合はどう?」


「問題ねえよ」


 アサドはゆっくりと起き上がると、暫く暗い顔つきで何事かを考え込んでいた。ルークもまた、似たような顔つきで地面を睨んでいる。


(やはり、俺は早くこの場を去ろう)


 魔族は、死の病を運ぶ。普通の人と一緒にいて良いはずがない。


「不安になったか」


 ルークは、ぎくりと身を強張らせた。


「そうだよなあ、警戒するよな」


 アサドは難しい表情で腕を組み、やがてゆっくりと息を吐いた。


「あの爺の言う通りだ。ご想像の通り―――俺はスフグリムだったんだよ。十数年も前の話だけどな」


「なら、何故助けた。元スフグリムなら、俺みたいな魔族を助けちゃだめだと思う」


 アサドが苦笑した。


「……爺の言葉が引っかかってるんだろう」


 肩を落としたルークにアサドは柔らかな顔つきで「心配するな、捕まえねえから」と囁いた。


「坊主には難しい話かもしれねえが、数十年前の事だ。この国には魔族を囲っている連中が居てな、そいつら子飼いの魔族で、魔族狩りをしだしたのがルフの天秤の始まりだ。奴等は貴族だったり、地元の有力者だったり、富豪だったり、まぁ、様々だったらしいが、特に力を入れてたのはマルズィエフって貴族だったか」


 マルズィエフは貴族の一人だ。六十過ぎの小太りの男で、幼い頃のルークに笑いを交えて若い頃に手を出した海洋貿易の話をよくしてくれたものだ。現在でも、アル・カマルの商人達と交流を深めているらしい。その彼は、数十年前から今に至るまで、元老院に籍を置いている。


「あいつはとんでもない奴でな。海洋貿易と称して魔族の売買をしてやがる。自分のところで使えそうな奴を引っこ抜いて私兵にしちまうんだ。それをこの国の主に内緒でやってたんだ。俺も私兵にされた身でな。魔法クオリアは一切使えないが、生まれつきそういうのに鼻が利くもんで、それを地元の連中に難癖つけられてマルズィエフに売り飛ばされた。そこからだよ、俺がスフグリムになったのは。けどスフグリムになったらなったで酷いもんだったぜ。魔族でもない奴を魔族だと言って殺したり、女は犯したり、金を根こそぎ奪ったりとまぁ、盗賊でも真っ青になる位やりたい放題でな……ある日冤罪で魔族扱いされていた奴がいてよ、やりたい放題してたもんだから堪らなくなって、同行していた奴をぶん殴って助けたんだ」


 それがこいつと同郷の奴でさと、ウィゼルを指した。


「したら牢にぶち込まれてな。数か月経っても俺が考えを改めないんで、しまいにお役御免にさせられたって訳だ。殺されなかったのが不思議だろ?」


 ルークの考えを見透かしたかのように、アサドが苦笑した。


「お笑い話さ。マルズィエフが隠してた大事な私兵共が西守に捕まってな。あの業突く張りの貴族様は、西守の長に脅されて私兵の所有権を根こそぎ持ってかれたんだよ。その上幸運な事に第二皇子が生まれて、俺もその栄誉とやらに預からせてもらったのさ。結果、今何事も無く生きていられているって訳だ。いやはや、皇子さまさまだよ」


 皇族が誕生すれば、刑の軽い囚人は恩赦おんしゃを与えられるという。


(まさかアサドがそのうちの一人だったとは)


 意外なところから、一番意外な話を聞いてルークは目を丸くした。


「顔も見たこともないが、あれ程幸運なことは俺の人生ではなかったな。だからかな、恩返しはちょっと違うが、助けてもらった命だ。誰かを助けるのに使うのも悪くねえだろ。それに、さっきも言ったよな。誰しもがじゃねえって」


 理不尽なことを同じくらいの理不尽で埋め合わせるのは少し違うのだとアサドは言った。


「……まぁ、無理に俺を信じろとは言わねえよ。ただまぁ、一緒についてくるのも来ないのも、坊主の好きにしな」


 守ろうとして死にかけたアサドやウィゼルの行動も、カミラの言葉も、まぎれもなく本心から。それがルークには痛い程分かっていた。だからこそ、もう少し彼らについていこうとルークは思う。せめて同行者のイスマイーラが見つかるまでは。


「あんたに剣を向けなかったのは、とりあえず正解だった」


「あぁ、俺もそう思う」


 アサドがにやりとした。




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