選ばれなかった者達 2

 助けぬ方が良いと言い切ったイダーフを、カダーシュは遠いものを見つめるような目つきで眺めた。イダーフの背中が霞んで見えた。


鉄女神マルドゥークの正体を知るまでは、そなたのいう事も一理あると頷いていたろう。そなたを残念がらせるようなこともなかったし、あれを傷つけることもなかったかもしれん」


 現実は残酷だなとイダーフはひとちた。


「……義兄上をそこまで恐れさせる鉄女神マルドゥークとは、何だったのですか」


 まるで恐れるように空の彼方を見つめ、


「天上の射手」


 静かに言った。

 言葉を失ったままのカダーシュへ視線をやると、


「独り言だ、流せ」


 口を閉ざした。


「……ルシュディアークの義兄上は、どうして何も知らないような行動をとるのでしょうか」


 イブティサームが生きているかもしれないという可能性のことも。イダーフが火災を利用したことも。思い至ることがあるはずなのに、何もないのが不思議でならなかった。


「ずっと、黙っているとは思えないのですが」


「あれからの文句は来ていないが、あれに関する報告なら逐次ちくじ上がっている。共に旅立った男にそう命じていてな。無事アル・リド王国へ引き渡したならば終わりの鳥をつかわせよ。それまでは定期的に文を寄越せと。しかし、硝子谷を最後に文は届かなくなって随分ずいぶんと経つか。今頃はカムールの何処かにいるか、あるいは共にいた男と共に捕らえられたか。それとも命を落としたか……いや、それは無いか。捕らえられたら王国の方から何か言ってこようしな」


「文面は、何処まで行ったかという報告だけですか?」


「くどいな。そうだと言っていよう」


 苛立ったイダーフの様子は、どうやら本当のことらしかった。カダーシュにしてみれば、それがで仕方がなかった。ルシュディアークの気質を思うとなおのこと、文句がないということはない。何かあれば打った鐘のように反応する人なのだから。


「……ああ、そういえばそなたに渡すものがあったのだ。ルシュディアークからそなたへの手紙だ」


 イダーフは懐から手紙を出すと、放るように渡した。古びたパピルスが丁寧ていねいに巻かれていた。開くと、ルシュディアークの筆跡で、カダーシュへと書かれていた。


「とっておけ」


 そういって、イダーフは部屋を出て行った。

 一人きりになった部屋の中で、カダーシュは手紙の続きに目を落とした。


“親愛なる我が弟カダーシュ


 手紙を渡すのは、これが最後になる。お前に読まれるか、読まれないまま捨てられるかはターリクの善意に任せよう。もし手紙を読めたのなら、ターリクに俺からの感謝を述べてやって欲しい。とはいえ、最後の言葉を書き残せと言われても、正直何を書いていいか分からないな。どれをまず最初に書けばいいのか迷ってしまう。はは、最期まで迷い癖は変わらないんだなと笑ってくれ。


 カダーシュ、俺がいなくなったあとのことは、イダーフの義兄上に任せてしまえ。それと、お前のことだから俺のことを調べようとするだろうが、放っておいてくれ。調べたとしても、内容を口外するなと止められるだろうが、その時は素直にあいつらの言うことを聞け。俺のことで義憤ぎふんを持つかもしれないが、どうか耐えて欲しい。


 お前は利口だ。賢く、十も、二十も先のことを考えられるし、正義感にもあふれている。それはとても立派なことだと思う。多分、この手紙を残してもお前は真実に近づこうとするのだろうな。でも、それはやめてほしい。知れば知るほどお前の身が危うくなる。せっかくの才能を俺ごときのせいで潰されてしまうのは悲しいからな。それでも気になってしまうのがお前という奴だというのはよくわかっている。そういう奴だものな、お前は。


 だからお前だけに、あの事件のときに俺の身に起こったことを明かそうと思う。それで納得してはもらえないだろうか。


 俺は、あの事件の日のことをよく覚えていない。イブティサームを殺した記憶もなければ、あの部屋に火を放った記憶もない。まるで記憶をそこだけかのように、思い出そうにも思い出せないんだ。何か大切なことをイブティサームに言おうとしていたんだが……その大切なことまで俺は思い出せなくなってしまったようだ。心当たりと言えばあの日、話し合いをする前にイブティサームから何かを囁かれたんだが、そのせいではないかと思っている。なあ、忘却のまじないなんてあるだろうか?


 ……駄目だな、やっぱりまだ動転しているみたいだ。

 イブティサームが記憶を奪うまじないなど使えるわけがないのにな。


 ああ、これも書き残しておかなくては。

 カダーシュよ、俺がいなくなった後、お前に皇位継承問題が降りかかろうと思う。お前が皇主カリフになりたいのなら俺は止めない。けど、近くに置く臣下は選べ、愚臣はお前を腐らせる。甘言には乗るな、利用される。まあ、お前もわかっていると思うが、この城は、そういう奴が多い。付き合う人を選ぶなんて最低だと思うかもしれないが、それは間違いだ。人を選ばず平等に接していた挙句利用されてしまった者のことを、俺はよく知っている。失礼だというかもしれないが、お前はそうなりやすい。だから気をつけろよ。


 さて、本当に最後になるが、どうかいたらない兄の最期の頼みを聞いて欲しい。俺のことは忘れろ。いいな、忘れるんだ。手紙を読んでお前の中に宿るだろう正義は民のために使ってやってくれ。

間違っても城の奴らに立ち向かおうとするな。


 じゃあ、元気でな。”


 ルシュディアークのためにと立ち上がったつもりだった。

 振り上げたこぶしは手紙通り、イダーフによって止められてしまった。そして、とどめにこれか。


「忘れるなんて、出来るわけがないじゃないか……」


 窓を仰いだ。何処までも広く澄み渡った空が広がっている。遠くで鳥の鳴き声が聞こえた。一羽の黒い鳥がまっすぐ飛んでくる。胸に胡麻ごまの柄のある大きな茶色の鳥だった。けるような速さで迷いなく飛んできた鳥は、目指していたかのように窓辺に降り立つと、くちばしで窓を叩いた。


サクルが、どうしてこんなところに?)


 窓を開けてやると、サクルは待っていたようにカダーシュのもとにすり寄り、一声鳴いた。わずらわしそうに足に結わえられている布をつつくと、カダーシュを見上げ、もう一度鳴いた。それへ、カダーシュは手を伸ばす。薄汚い布だった。灰とにかわのひどい匂いがする。すみのような文字を認めてたカダーシュは、サクルの足に結わえられている布をいた。


“イダーフへ。”


 見覚えのある癖のある文字にカダーシュの目が見開かれた。


“これから訪れる竜の民ホルフィスの声を聞け。無視すれば、この国は遠からず隣国の手にちるだろう。 

元アル・カマル皇国第二皇子ルシュディアークより。”


 それは、まぎれもない彼の字だった。


「貴方は何もかもを奪われてもなお、守ろうとするのですね……」


 そう、悔しげに呟いた。


(義兄上は、昔から何も変わらない)


 昔から、心の優しい人だった。

 カダーシュが、皇主ちちに母の代わりを求められていたあの頃。

 夜になると異常なほど泣き、暴れ出すカダーシュを見かねたルシュディアークが、ある日皇主ちちの前にゆき怒鳴ったことがあった。


「毎夜泣くのは皇主ちちうえがカダーシュをいじめているからだ!」


 皇子であったとしても、皇主カリフを責めることは不敬であると怒られるもの。義兄の身に相応の処罰が降りかかってしまうことを恐れたカダーシュは震えた。けれど、皇主カリフはすんなりとルシュディアークの言うことを聞いたばかりか、怒ることもしなかった。むしろ、すまなかったと謝った。それ以来、皇主カリフがカダーシュを求める回数が減った。それでも無くなることはなかったけれど。


(あの時は、嬉しかった)


 ルシュディアークに助けられたと思った。誰にも理解されない苦しみに気付いてくれたのだと、嬉しかった。そんなルシュディアークの存在が救いだった。


(けれど、本当は義兄上も僕の身にあったことを知っていた……)


 途端に、ぐっと、どす黒いものがこみ上げてくるのを感じた。

ルシュディアークのおかげで虐待そのものは減った。城内の大人達が悪口を言う回数も減った。けど、。城の大人たちが悪口を言うのも、皇主ちちがカダーシュの姿に母を求めるのも、本当は止めて欲しかった。それを知っていて、ルシュディアークは止めなかった。止めてくれなかった時点でルシュディアークも、何もしなかった連中と同罪じゃないのか。


(手紙を破り捨ててしまおうか)


 そうすれば、ルシュディアークの望み通りになるだろう。

けれど、手紙を捨てたらこの国は多分終わる。嫌いで、一番大好きだったルシュディアークを見殺しにすることは、この国を見捨てるということ。けれど、カダーシュには、それがどうしてもできなかった。まるで、カダーシュの訴えを無視した皇主ちちみたいで。


(知っているのに、知らないふりをするのは最低だ)


 だから、ルシュディアークが死んだと知ったときに決意した。

どんな真実でも受け止めようとした。自分の正義を通そうとした。

そのためだったらそしられても、なじられても構わない。お飾りの皇子にだってなってやろう。そう決めて、にこやかで相手に不快な感情を与えないように頑張った。がんばって、がんばって、がんばって―――ぽつりと、手の甲が濡れた。


(義兄上を助ける手がかりを見つけたのに、何もせず手をこまねいてみているだけしかできないなんて。こんなことなら、何も知らないままのほうが良かった)


 濡れた手が震えていた。握りしめていた手紙が濡れていた。

 喉から変な声が漏れた。ずっと封じていたはずの感情が、せきを切ってあふれてくる。涙はやがて、嗚咽に変わった。


(僕は、どうしたらいいのですか……!)


 むせび泣くカダーシュを、サクルがじっと、眺めていた。




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