泥濘を背にして

 生きている。そう口にしようとしてイスマイーラは自身の体が思うように動かない事に気が付いた。半身が土砂に埋まっていた。感覚はあるようで、濡れた衣服の感触も、泥がまとわりつく感覚もはっきりとしている。泥の中から這い出るようにして起き上がると、イスマイーラは呆気にとられたように周囲を見渡した。

景色が一変していた。さっきまでいた岩窟は崩れ、土砂と泥の山と化している。大地には泥が川のように横たわり、大きな亀裂が走っていた。泥の中に、動くことの無い無数の手足が浮かんでいるのを見てとると、イスマイーラは目を伏せた。


「ムトの道は」


「崩れました」


 アズライトは自身とイスマイーラの周りに展開した赤い光の防壁を一瞥すると、左腕を大きく振った。天蓋のような赤い覆いが取り去られると、流れてくる風の質が微妙に変化した。さっきまでうっすらと臭っていた土の匂いはより強く。人々の声は、より鮮明に。すすり泣きの声だった。それに、誰かを呼ぶ声と、叫び声が混じる。渦のような声が一斉に流れ込んでくる。


「身体に不具合はありませんか」


「打ち付けたところが痛むくらいで、とくには」


 なら良かったと、アズライトはほっと息を吐いた。


「生体への擬似餌ぎじえの設置は久し振りなので心配だったのですが。それを聞いて安心しました」


擬似餌ぎじえ?」


「イスマイーラの中にもう一人、偽物のイスマイーラを作ったと言えば分るでしょうか。あの蛇に襲われても偽物のイスマイーラが食われることで、本物のイスマイーラは無傷でいられるのです。あの蛇は、一つの人格しか食べることが出来ませんから」


 困惑を露にするイスマイーラに、アズライトはほんの少しばつの悪そうな顔をした。


「余計なお世話かと思いましたが、放っておく事も出来なかったので、勝手ながらイスマイーラがタウルに呼び出される少し前に仕掛けさせてもらったのです」


 何かをつまむ仕草をすると、途端にアズライトの指先から赤い糸が現れた。その先端は、イスマイーラの腕に絡まっている。それを、アズライトは指で切った。あっけなく切れた糸は、空に溶けるように消えてゆく。


「何時の間に括りつけたのです」 


「串焼きを奢ってくれたでしょう。その時に」


 あっけらかんと述べるアズライトに、イスマイーラは微かに驚いた顔つきを浮かべた。


「では、蛇は」


誓いの蝶シャマシュで機能を停止させました」


 イスマイーラが片眉を上げた。それこそ理解しかねると言いたげな顔つきで。


「私がつけていた耳飾りを覚えていますか。三角形の、蝶のような銀色の耳飾り」


 イスマイーラは頷いた。


「あれは、誓いの蝶シャマシュという古代兵器の一つなのですが、その耳飾りには仕掛けが施されていたのです。約束を破って勝手に耳飾りを取り去ると、大量の目に見えないバグに吐き出すという」


 眉間にしわを寄せはじめたイスマイーラを一瞥すると、アズライトは考えあぐねるように目を瞑り、やがてこう言い換えた。


「イスマイーラの寝泊まりする天幕が頭だとしましょう。そこへ、天幕が壊れてしまうほどのごみを無理やり押し込むというのが、誓いの蝶シャマシュの仕掛けです。対して、奴隷スレイブの食指である蛇は、そのごみを食べてしまう事が出来る」


「塵といっても、それは自我でしょう?」


「そう、自我。その人物の生まれ持った性格や、育った環境や人との繋がりの中で構築されたもの。突き詰めていえば、自我は情報の塊に過ぎないという事なのです」


 人の裡にあるものを情報として捉えれば、分かりやすいでしょうとアズライトは言葉を続けた。


「つまり私がしたのは、誓いの蝶シャマシュが吐き出す沢山のごみを、蛇が本来食べるべき人格だと偽って蛇に食べさせたのです」


「蛇は人間の自我と、塵の判別ができないのですか」


「出来ません。そこまでの知能がありませんから。なので、蛇のお腹が破裂するくらい食べさせてやったのです。空腹だった蛇は満足するまで食べられて幸せだったでしょうね。それこそ、天の国に行けるほど」


 うっそりとほほ笑んだアズライトに、イスマイーラは不気味な物でも見るような目つきで呟いた。


「えげつない事をされる」


「比喩ですよ、イスマイーラ。でも、やったのは言葉通りのことですが」


 大量の情報を処理できるアズライトですら電脳系統を一時停止しなければならない程の塵情報バグデータを吐き出す誓いの蝶シャマシュと、人の自我を食い荒らし、傀儡としてしまう兵器、奴隷スレイブは相性が悪すぎた。

片方は膨大なバグを生み出し、片方はバグを処分してゆく。その特性を理解していたアズライトは、蛇が自身の中に入ってきた瞬間を狙って耳飾りシャマシュを取り去った。自身ともいえる一番大事な部分は、すでに小さく圧縮して匿っている。

あっという間にバグで満たされたアズライトの中で、蛇はバグの方に牙を剥いた。蛇は奴隷スレイブ本体から命じられたとおりにバグを食らったが、アズライトの中のバグが無くなる前に許容量を大幅に超えたバグによって奴隷スレイブ本体の方が壊れたというのが真相だ。それでも、壊れた蛇は誓いの蝶シャマシュバグを半分も食らい尽くしたようで、奴隷スレイブが壊れた後には、アズライトが自力で処理できるバグの量しか残っていなかった。

 

「おかげで蛇の支配からも、耳飾りシャマシュの罰からも逃れる事が出来たのですが、ムトの道がこんなに早く崩落するとは思いませんでした」


 アズライトの言葉を確認するように反芻はんすうすると、イスマイーラはふと、思い立ったように訊ねた。


「……では、あれは」


「あれ、とは」


「さっきまで、妙な夢を見ていました。貴女が前に語ってくれた、広場の話のような夢を」


 アズライトは少し考えるような顔つきで俯いていたかと思うと、やがて首を振った。


「私と繋がっていたせいで、見えてしまったのだと思います」


「ではあれは、貴女の」


「ええ。大昔に過ぎ去った、大切な私の断片です」


 どこか寂しげに笑んだアズライトへ、イスマイーラが何か言おうとした瞬間、もう一人納得できぬ者が声を上げた。


「おい、なんで俺を助けた」


 声の主は、蛇の主タウルだった。擦り傷だらけの身体を泥で汚し、肩で息をしながら泥の中から這い出ると、イスマイーラを睨んだ。


「どういうつもりだ」


 無言のまま考え込むイスマイーラへ、タウルは盛大な舌打ちを漏らした。


「無視かよ」


「逆に伺いますが、どうして初めから私を操らなかった」


 初めから操っていれば、面倒なことにはならなかったはず。そう言いたげにするイスマイーラから、タウルは顔を背けた。


「操っただろう」


「しかし、初めからではなかった」


 それはなぜか。切るような問いかけにタウルは口ごもる。やがて、呟くように吐き捨てた。


「俺は、お前に期待していた」


 唾棄するような一言に、イスマイーラは目をみはった。


「家族と友をいっぺんに亡くしたあの頃に出会った時からずっとだ。肩を並べて戦ってきたお前ならば俺のこの想いを理解してくれるものだと思っていた。共に戦ってくれるのではないかと思っていた。何故裏切る。何故俺達を放逐した国を守ろうとする。この国が滅ぶだけで、シリルは解放されるのだぞ。卑賤ひせんの扱いを受けなくなる。戦わずして正当な自由が得られるのだ。だというのにお前はそれを否定する。俺達に虐げられ続けろとでも言いたいのか!」


「それは違う。私とて虐げられ続けたくはない」


「ならば何故否定する! この国を滅ぼし、あの第二皇子の首を持っていけば自由になれるのだぞ!」


 怒鳴るタウルに、イスマイーラは首を振った。


「それこそ、我々シリルは裏切者の烙印を押されることでしょう。アル・リド王国から卑賤ひせんの扱いを受けなくなったとしても、今度はアル・カマル皇国から裏切者と蔑まれることになる。もっと言わせてもらえば、貴方の怒りは見当が外れている。我々を卑賤ひせんの民に貶めた者はテべリウスであって、アル・カマル皇国の皇族達ではありません」


「我らをアル・リド王国へ渡したのは皇族共だ。皇族共が俺達を売り払わなければ、卑賤ひせんの扱いを受けることも、テべリウスによる私刑を受けることもなかった!」


「その代わりに、国家間での戦争になっていました」


 イスマイーラは、タウルを睨んだ。


「我々をアル・リド王国にやったのは、苦渋の選択だったのです。民を守って国を犠牲にするか。国を守って民を犠牲にするか。どちらかしか選べない状況だった」


 皇主カリフは悩んだはずだ。どちらをとっても、禍根を残す事になるのだから。散々に悩んだすえ、少数の民よりも、より多くの民を救う方を選んだ。


「我々を救えても、国そのものが無くなってしまっては意味がない」


「民を救えぬ国など無くなってしまえばいい」


「本当にそうお思いか。自分達だけが無事ならそれでいいと、本当にそう思うのですか!?」


 語気を荒らげるイスマイーラに、タウルは言葉を詰まらせた。


「それこそ、貴方が散々にまで嫌っていた者の考えではないのですか!」


「ではどうしろというのだ!」


 怒鳴り声を上げるタウルへ、イスマイーラはきっぱりと言い放った。


「テべリウスの罪を白日の下に晒し、氏族われわれ卑賤ひせんの民に陥れた責任を払ってもらいます」


「出来るかよ」


「出来ますよ。ルシュディアーク第二皇子と、ダリウス将軍ならば」


 ふっと、タウルが苦笑いを浮かべた。


「上手くいくものか。上の連中は俺達のことなど知らぬふりを決め込んでいるぞ」


「いえ、ダリウス様と、王弟陛下ロスタム様のお二人は御存じです」


 イスマイーラは懐に隠していた木札をタウルへ投げつけるように見せた。そこには、ダリウスの目所属を表わす三つ目の山羊の紋章が刻まれていた。木札の裏には、イスマイーラの名が記されている。それをみたタウルは、言葉を失った。


「交渉の席に、ダリウス様あるいは、ロスタム様と、ルシュディアーク殿下をつかせましょう。そこで此度の戦を招いた元凶がテべリウスであること。罪のない我が氏族を不逞に虐げ、自由を奪った罪と責任を問うのです」


「そこに賠償として我が氏族の名誉を取り戻し、元の生活に戻れるよう恩情を賜るといったところか?」


 イスマイーラは静かに頷いた。タウルは、しかしと続けた。


「お前がを見据えているのはよく分かった。だが、大事なところをお前は忘れている。戦後処理が出来るのは戦勝国か、同じくらいの甚大な被害を被って両国が引き分けた時だけだ。こんな弱小の小さな国家にそれが出来るとは思えん」


 苦々しく吐き捨てたタウルは、途端に、はっとしたような顔つきで息を止めた。そして、潜むような声で訊ねた。正気を疑るような目付きで。


「まさか、鉄女神マルドゥークに期待しているのか?」


「その、まさかだと言ったら?」


「目を覚ませ。夢物語を信じ込むのが許されるのは餓鬼の頃だけだぞ」


「嘘だとお思いでしょうが、可能なのですよ、貴方の憎む第二皇子であれば」


 タウルが眉をひそめた。アズライトが首を振る。その話題はするなと。しかし、イスマイーラは敢えて続けた。


「第二皇子ルシュディアークなら鉄女神マルドゥークを目覚めさせられるかもしれない」


 タウルは口を半開きにしたままイスマイーラをみつめていた。やがて、苦々し気に呟いた。


「ありえん。二千年以上眠っているといわれている神のごとき力が、あの皇子に起こせるなど……」


 あり得ない。絶対にありえんと呻くタウルに、イスマイーラはたたみかける。アル・カマル皇国皇子イダーフが、実弟であるルシュディアークの身柄をアル・リド王国へ引き渡す代わりに同盟を持ちかけたという話を。そして、マルズィエフの館で聞いた、第二皇子の母、シャリーアが鉄女神マルドゥークに関係する血筋であることも。最初こそ薄笑いを浮かべていたタウルが、口元を引き結んだ。


「戦端が長引けば、第一皇子イダーフ第二皇子ルシュディアーク鉄女神マルドゥークを動かすよう命じるでしょう。そして、戦争の終止符を打とうとするはず」


 それを利用するのだ。


「もし、鉄女神マルドゥークが目覚め、破壊の力でもってアル・リド王国を潰滅させるようなことが起これば、戦争を起こした切っ掛けを作ったテべリウスが責められることとなる」


「そこに、テべリウスが俺達を貶めたという事実を突きつけ、アル・リド王国へ賠償を求めるか。そして名誉の回復と、生活を元通りに戻すという誓約を書かせて自由を得ると?」


「自由を得るための一手として。そして、ダリウスとロスタムの二人を交渉の席に着かせるには十分な話ではありませんか?」


 その為には、ルシュディアークに皇子であり続けてもらわねばならない。現実問題として厳しいだろうと、イスマイーラは思っている。

ルシュディアークは魔族だ。そして、罪人として追われている。

これをどうにかして払拭せねばルシュディアークは皇子で居続ける事はかなわなくなる。ならばどうすべきか。

多くの者が納得する形で力を示してもらわねばならないだろう。例えば、この不利な戦局を一変させ、勝利させるような奇跡だとか。


(いいや、奇跡が必要なのだ、あの皇子には)


 決意したような顔つきのイスマイーラに、タウルは嫌悪の情を浮かべ吐き捨てた。


「二面の走狗いぬが」


 二面の走狗いぬとは、密偵の蔑称だ。二つの主にこびを売る犬という意味で、内情や裏の仕事を頼まれやすい密偵にとっては裏切者と称されたも同義であった。その蔑称たる言葉を投げつけられたイスマイーラは微動だにしない。なんとでも言えという顔つきに、タウルは表情を苦くする。


「……お前は変わったよ。そこまで汚い奴ではなかった」


「私だってろくでもない生き方をしてきたのです、今更真っ当な生き方をしてきた人間のようになれますか」


「お前がイスハークの連中と居たのを知った時は、のんびり暮らしてくれていたらと願ったこともあるくらいでな」


「意外と情に厚いのですね」


「意外は余計だ」


 肩をすくめたタウルに、イスマイーラは微笑を浮かべた。


「つきましては、タウルにお願いが。ルシュディアークを追うのは止めて頂きたい」


「ふざけるのも大概にしろ。俺を誰だと思っている。アル・リド王国の偵察支援兵だぞ。アル・リド王国軍の進軍を支援するための兵なのだ。その進軍を邪魔するルシュディアークを放っておくなど出来るか」


「隊の人員も足も、貴方のいう古代の叡智も、破壊されてムトの道に沈んだようですが?」


 ぐっと、タウルが歯を噛みしめた。事実として、そうなのだ。タウルの率いていた偵察支援隊イブリースの大半は、ムトの道の崩落に巻き込まれて行方が知れない。古代の叡智である奴隷スレイブは今さっきアズライトに壊されたばかり。手詰まりなのは、タウルのほうだった。

タウルは悔し気に呻くと、吐き捨てた。


「いいか、俺の憎悪は消えていないぞ。人員が揃い次第もう一度、もしかしたら寝首を掻くかもしれん、お前のな」


「掻けるものならいつでもどうぞ」


 憎悪を晴らす前に泥が、蛇が全てを飲み込んでしまった。振り上げた拳を振り下ろす方向を失ってしまったタウルは、癇癪かんしゃくを起したような呻きを漏らすと唾を吐き捨てた。




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