ナーディムの故事

 夜のうちに仕掛けを施していたアズライト達からサクルが飛んで来たのは、昼になってからだった。岩柱のそばで陣を構えていたルークは、サクルの足に結わえられていたキープをハリルへ渡した。


「なんて書いてある?」


「穴掘りが終わったようです。それから小道の外で敵の動向を伺っていたところ、予想より早く王国軍がやってくる兆しがあると」


「出立を早めたか」


 複雑な表情でハリルがこちらをみつめていた。胸中でどのような感情が沸き起こっているのかありありとわかるそれへ、頷いた。


「了解したと、サクルを飛ばしてくれ。俺とモハメドは、このままここに残る。ハリルは小道を抜けた先で陣を構えていてくれ」


「……気を付けてくださいよ」


「分かってる」


「分かっちゃいませんって、それ」


 ハリルの溜息から視線を外した。傍にいたモハメドもまた、ハリルと似たような表情をしていた。


「さて、もう直ぐか」


「そこの岩柱の中に潜みましょう」


 ボラクの手綱を引き寄せ、あぶみに足をかけて背にまたがる。背に腰を落ち着けると、ボラクが立ち上がった。手汗の染み込んだ手綱を操って首を小道の方へ向け、駈足かけあしをさせる。それへ、駱駝で追いついてきたモハメドが並走した。その後ろを、モハメドの配下たちが続く。


「故事通りに行けばよいですなあ」


 表情とは裏腹に、のんびりとした声がかかる。


「ナーディムの故事か。確か、あれは杉の林に穴を掘って、攻めてきた蛮族を穴にはめたのだったか」


 謀将ぼうしょうナーディムは、アル・カマル皇国の英雄譚に登場する将軍だ。

皇国の建国の際に起こった戦乱で活躍し、その武勲ぶくんは英雄譚のなかに多く残されている。その中の一つに、北方のハピベフで起こったトゥヴァとの戦いがある。


昔、アル・カマル皇国の北方には、トゥヴァという蛮族がいた。

丸木の船で河川を自由に行き来する彼らは、冬になるとアル・カマル皇国の北方の村々を襲って食糧庫を荒らしに来ていた。これに困った北方領ハピベフの領主は皇主カリフへ兵を貸してほしいと願い出る。快く承諾した皇主カリフがハピベフの領主へ貸したのは三百の騎兵とそれを束ねる将軍ナーディムだった。余談だが、彼は英雄譚では厳つい大男と言われているが、実際はひょろ長い優男だったらしい。派遣されたナーディムを見たハピベフの領主は不安を抱いたが、すぐにその不安は信頼に変わることになった。


 ナーディムはハピベフに赴くと、まず初めにトゥヴァの動きを観察し、次に狙う村を見定めた。そしてトゥヴァが国境の北に広がる杉の森からやってくることが分かると、ナーディムと兵士達は村人を避難させ、自分達は村人のふりをして落とし穴を掘り、噂を流した。


 今年は小麦が豊作で、食糧庫に有り余るほどの麦がある。あまりにも多すぎるから森の中に隠したと。


 この噂を耳にしたトゥヴァは狙い通りにやって来た。村人に扮したナーディム達は、森に仕掛けた落とし穴へ誘導する。上手く誘導したナーディム達は、潜んでいた配下達に命じて、落とし穴に落ちたトゥヴァ達に矢の雨を降らせたという。

その話を思い出して、ああ、と頷いた。


「似ているかも知れないな」


 ナーディムのように穴を掘り、自らを囮としてアル・リド王国軍を罠にはめようというのだから。


「上手くゆけばよいのですが」


「上手くいく。そう信じよう」


 そうこうしているうちに岩の林の中に入った。

ボラクの腹を軽く蹴り、止まるように命じる。ボラクは素直に足を止め、首を今来た道の方角へ向け、耳を動かした。モハメドや、ついてきた兵士達も習って駱駝らくだの足を止めさせた。


 来た道の景色を望む。縞模様の岩の木立の向こうに小山のような影があった。遠くからでもはっきりと聞こえる、大勢の人の囁きかわす声と馬のいななき。武具のこすれあう音が風に乗って耳に障る。

岩柱の下で待っていたソマが、待ちかねたようにやってくると顎で敵軍を示した。


「騎馬兵共のご到着だ」


 周辺の偵察を行っているらしく、王国軍の集団から一群が離れてこちらに向かってくる。まだこちらの姿に気づいていないのか、その歩みは遅い。


「俺はあの魔族のもとに戻る。上手く誘導してくれよ」


 ソマは駱駝に飛び乗ると、駈足かけあしで罠を張った小道の方向へ去っていた。その背中を見送らないまま、ルークは岩柱群の向こうへ振り返ると、号令のために左腕を高く上げた。遠く、近づいてくる二十数騎ほどの馬影に目を凝らす。

合図を待つ者達が、一斉に弓弦ゆんづるを引き絞る。人馬のいななきが、だんだんと大きくなる。

ふいに、敵の歩みが止まった。何かを話し合う密やかな声の気配が風に乗って耳元へやってきた。

敵の一人がこちらを指さした。すらりと剣を抜き、また馬を歩ませる。ゆっくりとこちらに近づき、段々と駈足かけあしに変わった。

敵の誰かが何かを叫ぶ。身をしびれさせるほどの殺意のこもった声に、ルークは唇を噛みしめた。

ぴんと伸ばした腕が小さく震える。


(もうすこし)


 走ってくる騎兵の後ろで、きびきびと展開されていく敵の布陣。こちらへかけてくる騎兵は、既に馬を全力で走らせ、戦の雄たけびを上げて近づいてくる。敵兵の顔が見えた。皮の兜をかぶり、鎖帷子くさりかたびらで武装している。抜身の刀剣が、陽光の下で銀色に輝いていた。

敵兵がこちらをみつめ、はっとした。そして、剣の切っ先をこちらへ向け、叫んだ。


「見つけたぞ、ルシュディアーク!」


 殺意に溢れた声に、生唾を飲み込んだ。敵の血走った目が、暗い憎しみの炎を焼き映す。

イスハークの営地を襲ってきたあいつだ。タウルだ。なら、今がその時なのだろう。イスマイーラが別れ際に示してくれた、彼との決着の時。


(いまだ!)


 思いっきり、腕を振り下ろした。両隣から弓矢を構えていたモハメドたちがタウル達をめがけて矢を連続して放つ。雨のような矢は、タウルたちの頭上へ降り注いだ。タウルたちもまた矢を引き絞り、こちらへ放ってきた。それから逃れるようにボラクの首を岩柱群の向こう側へ向け、走らせた。


 向かう先はソマが向かった罠の道。ボラクの駆ける足音にタウル達の怒声と馬の駆ける足音が混じる。少し前にモハメドの背中があった。全力で走る駱駝らくだを上手く操り、岩の林を駆け抜けてゆく。

ふいに、モハメドが顔だけをこちらに向けてきた。険しい表情を浮かべ、指笛を吹いた。甲高い悲鳴のような響きが、岩の林に響き渡る。

合図だ。それへ呼応するように視界の隅で赤い燐光が瞬いた。


 背後で馬の悲鳴があがった。顔だけ振り返ればタウル達の駆る馬の脚が地面に現れた穴に足を取られ、騎乗にあった人が転げ落ちてゆく様が見えた。穴は一つだけではない。ぼこん、ぼこんと地面を虫が食ったように穴が開いてゆく。一つは騎兵の足元に。一つは馬から転げ落ちた騎兵の腹に。そして一つは、木のようにそそり立った一本岩の根元に。虫が食うように広がっていった穴は、次第にタウル達の足元から木立のような岩の根元の方に集中しだした。


「駆け抜けるぞ、モハメド!」


 状況を察したモハメドの顔から血の気が引いてゆく。


「ソマ達が撤退しておりません!」


「大丈夫だ、あいつなら守ってくれる!」


 祈るような気持ちで叫ぶと、モハメドが強い光を称えた眼差しを返してきた。やがて、諦めたように前を向いた。

モハメド達の背中を追いかけながら、矢の射られる音を聞く。耳元をかすめて通り過ぎてゆく矢が、岩の柱に突き刺さる。そこに、微かな恐怖が芽生えた。誘導しているはずなのに追われているような感覚。いいや、追われているのか、俺は。


「殿下!」


 モハメドの声が聞こえた。傍にいるはずなのに、やけに遠く聞こえる。視界が滲むように染まった。ぼやけた視界が映すのは岩柱群の出口。

開けた野の先で、ハリル達が矢を構えていた。

それがはっきりと分かると、後ろで岩の林の崩れる音がした。

轟音と土煙を盛大に撒き散らしながら崩れてゆく岩の木立。脳裏に生き埋めになるタウル達の姿を浮かべ、微かに息を吐いた。いや、まだ終わっていない。馬の駆ける足音が轟音の中でしっかりと聞こえている。


(まだ、来る!)


 息をのんだ瞬間、ハリル達が引き絞った弓矢が、空へ飛び立つ無数の鳥群のように広がった。







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