手の温もり

 走る。走る、走る、走る。闇の中、草を踏みながら三人は走り続けた。何を語るでもなく、アサドはカミラとルークを引きずりながら、無言で走り続けた。どれくらい走ったのか、闇の中では距離も分からない。草を踏み散らす足音と、荒い呼吸ばかりが耳煩く聞こえている。


「悪かったな、坊主。こうなるくらいなら、坊主をそっとしとくべきだった」


 アサドがゆるゆると歩を緩め、やがて足を止めた。ルークは喘鳴ぜいめいするような呼気を繰り返しながら、しゃがみこんだ。


「……まだ、走るのか」


 もうずいぶんと走った。追手の足音も姿も見えないのなら、もう大丈夫じゃないのかとアサドを見上げた。月明かりに照らされたアサドの顔は、強張っていた。


「もう少しだ」


「限界だ」


「ここは身を隠す場所が無い。隠れてやり過ごせないのなら逃げるしかねえ。辛いだろうがもう少し頑張れ」


「……どうして魔族の俺を助ける?」


 先刻からずっと、胸に引っかかっていた。魔族は死病を撒き散らす忌むべき存在。それなのに、アサドとカミラは助けようとしている。親や友達でもない、赤の他人のルークを。そんな二人が理解できなかった。


「今、それを聞くかね?」


 アサドが苦笑する気配がした。


「糞みたいな理屈で殺されそうな奴を助けるのに理由なんかいるかよ」


「必要な場合もある」


 アサドは言いづらそうに口を閉ざした。やがて、深呼吸をしてからルークを見下ろし、訊ねた。


「……坊主、遊牧民ベドウィンの集落でスフグリムをっただろ」


「あれは、その、」


 とっさに言い訳が浮かんだ。言葉が喉元まで出かかるのを生唾と一緒に飲み込む。言い訳なんか今更だ。嘘をついても良いことなどない。


「居たのか?」


「俺達は死体を見ただけで、居合わせちゃいない。かなり噂になっていたぞ。坊主と同じような背格好の子供が、あのスフグリムを殺したとさ」


 重苦しいものが胸の奥から外に出て行ったような心地を感じて、ルークはほっと溜息を洩らし、すぐに恥じ入るようにうつむいた。


「……殺した」


 苦いものがルークの心の中を覆った。アサドの目が嫌悪に染まる瞬間を見たくなくて、ぎゅっと目をつむる。降り注いでくるであろう軽蔑しきった眼差しと侮蔑を含んだ言葉に備えるために拳を握り締めた。降ってきた声は、気のせいか、少しだけ暖かかった。


「人を殺すだけの腕がある癖に、俺達に剣も向けねえ、近くに居た俺の腕も斬り落とそうと思えば何時でも出来た筈だがそれもしねえ、傍にカミラが居るってのに、人質をとりもしやがらねえのは、どうしてだ?」


「それは……」


 殺そうと思えば、いつでも殺せた。あの場にいた全員を殺してから姿を眩ませる事なんて造作もなかった。なのに、殺せなかった。怯えきったカミラの顔が、少女を殺された少年の表情とあまりにもそっくりだったから。


「無駄に血を流したくなかったから、じゃねえのか?」


「違う!」


 おもわず、叫んでいた。


「俺は、ろくでもない奴だ!」


 人を殺して後悔した癖に、再び人を殺そうとした。他人のために剣を取るのならまだ救いはあった。けれどそんな立派な大義も名分も無い。ただひたすらに、だけしかなかった。


「……俺は魔族で、人殺しなんだ」


「ああ、人殺しだな。だが、坊主はまだ人間だ。命の重みも、剣の重みも理解している。だから剣を抜かなかったんじゃないのか?」


 俯いたまま黙っているルークの頭へ、ぽん、とアサドが手を乗せた。


「俺には、坊主がろくでもない奴には見えなかった」


 大きくて武骨な掌の、ほんのりとした暖かみが優しかった。胸の奥からこみ上げてくる自分でもよく分からない感情を隠すように唇を強く噛んだ。小さな子供をあやすかのような優しい重みは、少し汗臭い。


「簡単に人に剣を向けない坊主は、性根まで魔族になっちまった奴とは違うように思う」


 アサドが、ぽんぽんと頭を撫でた。そのたびにルークの頭はぐらぐらとゆれた。


「俺には人の何が正しくて、魔族の何が間違っているのか、そういう難しい事は分からねえ。だけどな、魔族も、流民も、体や心が不自由な奴も……どんな奴も、なりたくてなったわけじゃない」


 やおら低い声に、感情が滲む。


「俺は、相手の言い分や立場を理解しようともせず、一つや二つ違うってだけで全力で相手の全てを否定して潰しちまうような奴が嫌いでね。坊主にも色々あったんだろう。だからって無理に語らなくていい。ただ、そうだな、そんなに自分を責めるな。自分が辛いなかで、他人の俺達に剣を向けようとしなかったのは、坊主の中に人を想う気持ちってのがある証拠だと俺は思う。そこまで人間を捨てていない坊主に、少しでも力になってやろうと思っただけだよ」


 アサドの声が、柔らかい。カミラが、あたしもと、声を上げた。


「あ、あのね、お兄さんが全部悪い訳じゃないんだよ。カミラが余計な事を言わなきゃ、ばば様も気付かなかったと思うし……」


「カミラのせいでもねえだろ、こうなったのは、クラフィットとばば様のせいだ」


 オリビアの姿も見えやがらねぇって事は、つまりそういう事なんだろうとアサドは面白くもなさそうに吐き捨てた。


「ま、既に起こしちまった事はどうしようもねえ……そうだろ?」


 むしろ今は解決する方法を探した方が良いと、アサドは微笑んだ。ルークが何も言わないのを肯定と取ったアサドが、途端に難しい表情を浮かべた。


「俺達には足がない。馬でもいれば少しは良いんだろうが、別の問題が出てくるからな。だが馬がいないなりに、良いやり方もある。あっちが松明を持っているような間抜けで助かったよ」


 遠くに見える追跡者の光が、ゆっくりと、けれども確実に近付いている。追いつかれるかもしれないという恐怖を感じながら、ルークは不安げな表情でアサドを伺った。


「坊主はもう少し、走れるか?」


 先刻と同じ問いに、頷いた。アサドに何か考えがあるらしい。緊張を孕んだ声の中に、若干の余裕を垣間見る。アサドはしゃがみ込むと、地面に何かを描きはじめた。それをよく見ようと目を細めたルークへ、アサドはにやりとする。


「目くらましだよ。ルフの天秤が魔族を探す時に当てにしている目印ってのを切ってるのさ」


「目印?」


「目に見えねえ、赤い光だよ」


「赤い光は、魔法クオリアを使わないと出てこないのではないのか」


「いいや、使わなくても魔族の体から洩れ出ているのさ。目に見えないくらいのうっすい糸のような光がな」


 アサドは得意げに続けた。


「どうにも魔族は体内に赤い光をたんまりとため込んでいるらしくてな。魔族が動く度に足跡みてえに地面に残るんだそうだ。それを誤魔化すまじないってところだな。駄目な時は駄目だが、やらないよりはマシっていう気安めだがな」


「まさか、アサドも魔族だったのか?」


「俺は魔族じゃあねえよ。ただがあるってだけさ……まぁ、安心しな。これから向かっている場所なら、こんなもん使わなくても上手く逃げられる。坊主は知ってるか、って場所を」


鉄女神マルドゥークに仕えていたリーファと言う司祭が、魔王ワーリスと契りを交わし、神々を裏切ったという神話に出てくる場所か?」


「そうそう。リーファって女のせいで鉄女神マルドゥークたおされ、神々も手酷い傷を負った。神々の怒りに触れた女は殺され、魔王ワーリスも女をかばって共に死んだ。救いのねえ下らねえ神話だよ。その魔王ワーリスが死んだときにな、呪いの言葉を吐いたらしい。そのせいで魔王ワーリスが息絶えた場所は草木一本生えない、迷い込んだ人間すらも神隠しに遭っちまう奇妙な場所が出来た。それが、だ」


お伽噺アルフィラだ」


 アサドが、にんまりとした。


「話自体は作りもんだが、そういう場所は実在してんのさ。数は多くないがね。そこに行くとスフグリムは魔族を追いかける事が出来なくなる。ムルグ・イ・アーダーミーみたいな連中は、方向感覚まで狂い出すらしい。だから、土地の特性を逆手にとって攪乱かくらんするのもわけは無いってことさ」


 加えて今は夜だ。視覚が通用しない暗闇の中であれば、幾らでも誤魔化せる。


「だから、大丈夫だ」


 アサドが朗らかに笑う。そのアサドを、ルークは不審に思っていた。


(アサドは何者なのだろう)


 元々学があったのか、何かしらの仕事をしていたせいで詳しくなったのかは分からないが、やけに専門的のように思えた。


「随分と詳しいな?」


 疑うような眼差しに、アサドはあかるげに応じた。


「俺が詳しいわけじゃない、昔馴染みの言い分さ。何事も無ければこっから先の集落に滞在してるはずだが……まずは逃げてからだ」





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