ハリルの懸念

 ルーク曰く、イスマイーラは兵士だったという。兵の多くは農民だの、町住みハダリだので、遊牧民ベドウィン出身の兵士というのも珍しいものではなかった。兵士になるための科挙ムクーストが文官ほど難しいものではなかったからだ。試されるのは剣の技量や一定の判断力と、ある程度の教養だけ。しかし、それでも志願者に空けられている門は広いものではなかった。科挙ムクーストを受けるにも一定以上の財と素行の良さが求められるし、素性も調べられる。家籍かせきを持たない流民では兵士になるばかりか、科挙ムクーストも受けられない。


(でも、イスマイーラは違う)


 彼はシリルだ。国に棄てられ、隣国で奴隷よりも酷い扱いを受けている卑賤ひせんの民。


(兵役に志願は出来ても、家籍かせきがない。そして科挙ムクーストを受けるための財。何処から出た?)


 生まれついての才により貴族に関心を持たれた何処かの神童ジャーファルでも、財の問題とは切り離すことが出来なかったという。


(ジャーファルには才があったからこそ貴族に気に入られて財の問題を解決できた。でも、イスマイーラは神童かれじゃあない)


 少し剣の腕が立つというくらいの、普通の人でしかない。だからこそ、おかしかった。そして、ハリルの懸念がもう一つ。


(連絡用に結縄キープを使ったってのもまた、解せないんですよねぇ)


 これまで何度か父のニザルが硝子谷へ文をやったのを思い浮かべながら、ハリルは首を傾げた。


(……硝子谷の連中に、結縄キープを解読できる奴はいたかな)


 結縄キープは地域差が出やすい言語の一つだ。有り体に言えば方言のようなもので、特定の地域から外れると会話が成立しなくなる。このため領主は城への報告の際、領民が送ってきた結縄キープを解読してから文字にする。結縄キープそのものは領主が全て預かり、向こう十年は保管庫にしまわれる。万が一の時の責任の所在を明確にするためだ。


(カムールの結縄キープはカムールの遊牧民ベドウィンにしか通用しない。城にいた殿下は領主おれたちが文字でまとめたものを手にしている訳ですから、よく知らないのも無理ないんですけど)


 ちらりとルークを一瞥いちべつし、腕を組んだ。殿下はイスマイーラを信頼している。友としての想いが、邪魔だった。


「イダーフ様の用向きを受けるまでに出世したなんて、見上げた根性ですよ。殿下は彼の何に惹かれたんでしょうねぇ」


「イスマイーラは強いからな。剣の腕でも買われたのかもしれない……疑っているか?」


 ルークの冷ややかな表情かおがあった。ハリルは観念したように溜息を吐くと、頷いた。


「正直、気になっています」


「俺もだ。いや、、かな」


「俺はてっきり、初めから彼のことを信用してらっしゃるのかとばかり」


「信じている。いまも、いままでも。でも、疑うこともあった。というか疑わざるを得なかった」


 魔族である廃太子を隣国へ受け渡す。その代わりにアル・リド王国との同盟を結ぶ。同盟のための人質としてカムールまで訪れたことを思い出し、ハリルは、ああという顔つきをした。


「護衛兼、監視役であり、刑の執行人でもあったんでしたっけ、彼は」


「あいつの素性を知った時、当初は復讐のためにこれを引き受けたのだと思ったんだ。でも、問い訊ねた瞬間にはっきりと否定されてしまった。そればかりか……」


 ふっと、ルークが笑った。


「逃げろと言ったんだ。魔族で、人殺しで、国から追われる俺にだぞ。そこまで言われては、あいつを信じる以外にないだろう」


「殿下に面と向かって復讐するためだと言える人は、居ないんじゃないですかね」


「頬をひっぱたいてくれた奴ならいたがな。イスマイーラも口では言わないが、腹の中ではなにか思っているかもしれないな。でも、それでもあいつは、俺のそばに置いておきたい」


「気になるところが沢山あるのに?」


「いまの俺には敵が多すぎる。そのくせ味方が少ない。不自然なところが多少あっても、俺が信じられると思える奴には、一人でも多くそばにいて欲しいんだ」


「そりゃあ信じるというより、打算じゃないですか」


「俺には純粋に信じきることの方が危ういと思う」


 それに、もう子供ではないのだとルークが言うので、ハリルは不快そうに目を細めた。


(俺の気のせいなら良いんですよ、気のせいならね)





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