15.大いなる喜びのあとで
夕食を終えたジェラルドは、セイディを膝に乗せて部屋で寛いでいたところだった。
一人の侍女がとことこと近付いてきて、さっと腰を折ると、セイディの前に二冊の絵本を用意する。
完全にジェラルドの存在はなかったことになっていた。言うならば、彼は椅子。
「セイディさま、今日はこちらの二冊をお持ちしました。湯浴みの時間はどちらの絵本にいたしましょう?」
じーっと目のまえに掲げられた二つの絵本を交互に眺めていたセイディは、やがて手を伸ばすと彼女から見て左側の絵本に触れた。
「選んでくれてありがとうございます、セイディさま。こちらは、メアリも大好きな絵本なんですよ。楽しみにしていてくださいね」
侍女のメアリは、セイディの後ろでジェラルドが自分を睨んでいることにも気付いていたが、なるべく視界に入れぬよう努めて笑った。
「では、メアリがセイディさまを浴室にご案内いたしましょう。侍女長もすぐに参りますからね」
来客対応で少々長く席を外している侍女長の変わりに、メアリはセイディの手を取った。
するとセイディは、きゅっと弱い力でメアリの手を握り返す。
「まぁ、セイディさま。ふふふ。とても優しい御手ですね。いつまでも繋いでいたくなります」
握り返して貰ったことに感動するメアリ。
セイディの後ろで悔しさに打ち震えるジェラルド。
しかしジェラルドも大人になってきた。
そもそも彼は毎日セイディと手を繋いで散歩をしているので、その際に何度も握り返して貰っている。
だから、そう悔しがる話でもない。
「よろしく頼むぞ」
セイディの腰を持ち上げて立たせたジェラルドが少々尊大な口調で言うと、メアリは恭しく頭を下げた。
「おまかせくださいませ。では、セイディさま。行きましょう」
「せいでぃ、きれいなる」
「えぇ。今日もメアリがセイディさまをとびきり綺麗にしてみせますからね」
「めあり、えほ、よむ……よみますか?」
セイディにはまだ、言える言葉と言えない言葉があった。
そうかと思えば、最初のときのように突然敬語が出て来ることもある。
それらの基準が明確ではないところも皆を楽しませ、セイディの発言は大事に記録されていた。
もちろんジェラルドや使用人たちが楽しむためだけでなく、他にも意味あっての記録だ。
メアリが思わずくすりと笑ったところで、前方から声がした。
「そうよ、メアリ。今日のあなたは絵本係でしょう。セイディさま、本日はわたくしクレアがセイディさまをぴかぴかに磨いて、綺麗にいたしますからね」
浴室の準備を整え終えた侍女クレアは、洗面所の入り口で腰を折って笑顔でセイディを待っていた。
「くれあ、いっしょぴかぴか」
「えぇ、ご一緒に綺麗になりましょう。まっ!」
「え?あっ!」
短く叫ぶ二人に、飛んできたのは部屋に留まりセイディを見送っていたはずのジェラルドである。
「どうした?何か……なっ!」
セイディの顔を覗き込んだジェラルドは、そのまま身動きを止めていた。
悔しさとか、恨みとか、それらの感情はまだ形にはなっておらず。
ただただジェラルドの全身に歓喜が押し寄せる。
「るど、いっしょぴかぴか?」
そう言ったセイディの顔はもう元に戻ってしまったけれど、ジェラルドは彼女の前で腰を落として、愛おしそうにその頬を両手で包んだ。
「そうだね。一緒に湯浴みを──」
言い掛けたジェラルドの頭を、誰かが小突く。
ジェラルドは当然の如くこれを無視して、もう一度「ルドもセイディと──」と今度こそ最後まで伝えようとしたのだが。
一度目より早く、そして強く、頭を小突かれるのだった。
「……何をする?」
いよいよ振り返ったジェラルドの視線の先には、見慣れた侍従が立っている。
「とっと!」
「そうです、トットです。セイディさまがお困りのようでしたので、トットが馳せ参じましたよ。セイディさま、どうかご安心くださいね」
セイディの瞳は、急にジェラルドの後方に現れたトットに釘付けだった。
「とっと、はせ……さる!」
言い終えたセイディはほんのりと口角を上げている。
実際には小指の先ほども上がっていないが、ここにいる者たちにはそれで十分だった。
「セイディさま、とても可愛らしい笑顔です。素敵ですよ」
「こら、先に言うな!」
「おや、これは失礼。まさかまだ主さまが何も伝えていらっしゃらないとは思わず。トットが先に言ってしまいました」
「いつもいつも白々しいことを!笑顔を向けられたくて自ら出てきたくせに」
「いえいえ、セイディさまの危機と察し、急いで馳せ参じたのです」
「何が危機だ!私とセイディは番だぞ?」
「そうですね。番ですとも。だから何です主さま?」
「だから……セイディ。いい笑顔だったよ」
もう笑っていないセイディはジェラルドとトットを一度ずつ眺めたあと。
「セイディ?」
突然服を脱ごうとして、周囲は慌てた。
もう一人では脱ぎにくい服を着ていたために手間取るうちに、セイディはジェラルドの両腕に捕まっている。
「セイディ、どうした?」
そう強い抵抗はなく身体から力が抜けたようだったので、ジェラルドは腕の力を抜いてセイディの顔を覗き込んだ。
その瞳が暗闇に染まっている。
それはこの屋敷に来たばかりの頃の闇だ。
「仰せのままに」
やたらに流暢なこの言葉に、ジェラルドは最近多くそうしていたときとは違う意味で息を止めていた。
「主さま。急ぎお医者さまをお呼びします」
トットは姿を消して、侍女たちはすでに整えられていたベッドの様子を確認に回る者、医者が処方した眠りやすくなるお茶を用意する者など、それぞれに動いた。
湯浴みはもう後回しだ。
「セイディ、どうしたかな?怖いことを思い出してしまったか?ここは安全だよ。誰もセイディを傷付けない」
いくら語り掛けても、セイディの瞳に光が戻って来ない。
はじめての笑みを見られた感動に浸る間もなく、皆が一様にセイディの心が来たばかりの頃に戻ってしまわぬようにと祈っていた。
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